【e6m51】お水
「えっ⁉︎ また長期出張⁉︎ 兄さん……ちょっとはシンくんを考えたらどう? 違う、お金の問題じゃない。姉さんが亡くなってからも、ずっと忙しいとか帰れないばっかりじゃないの……」
複雑な気持ちで角から覗き込んだ。叔母さんが電話口で話しているのは父さんだ。仕事に打ち込み、滅多に帰宅しない。ごくまれに帰ってきたとしても、醤油マヨに焼スルメを浸しながら、ぼんやり図面を見ている。俺なんか、“なんだか小さな人がいる”程度の存在だ。
「あ、ちょっとシンくんに代るから。おいで! え⁉︎ もう休み時間終わる? ちょっとぐらいいいじゃない……あっ……もうっ!」
飲酒運転の事故で急逝した母さんの通夜でさえ、作業着で現れ、しかも終わりかけという為体。親族から散々に非――その時、袖口を引っ張られた。振り返ると、のんちゃんがいた。
「兄人や兄人、お水飲みたい。お水飲みに行かばや」
「ええ? また行くの? 水道でいいじゃん」
「いやじゃ。あは不味うして飲めぬ」
「え〜」
「母こそ。兄人を具してお水を飲みに行きまする」
時は真晝、そよ風を感じる風情に、そろそろ初夏の足音も聞こえ始める。
手を繋いで、静かな住宅街路を2人歩いていく。のんちゃんは、陽気にわらべ歌を口ずさむ。途中、志垣さん家の犬を撫でたり、田んぼのオタマジャクシを観察したりと、あちこち寄り道しながら、“長老水”と呼ばれる井戸へと至る。
「もうセミの鳴いておる」
ここ一帯は一番最初に夏が来て、最後まで居残る。隣の雑木林から、ニイニイゼミが鳴き立てていた。その後はアブラゼミ、クマゼミ、ツクツクボウシ、最後にはヒグラシと、晩夏に時移るまで住居主が入れ替わって、秋に移ろうわけだ。
鳥居を潜って参道を進み、小さくて古い社の前までやって来た。のんちゃんは、がま口からお賽銭を入れる。そして二礼二拍手一礼。俺もやらなきゃ、すごく怒るんだよ。
「…………」
神さまに日頃のお礼などを敬白する間、空の遥か彼方から、飛行機のエンジン音がゴウゴウと降り注ぐ。礼拝が終わった辻さんは、いつも清々しい顔だった。
「よく祈ったか? お礼を申し上げ忘れておらぬであろな?」
「うん」
「さあらば、お水を少し」
社の扉を開け、中の井戸の蓋を取る。土足厳禁なので、小さな辻さんは、中に入って汲めない。だからいつも俺がついていくのだ。
柄杓から落ちる水を掬んだ辻さんは、そのまま花弁の唇に持っていく。今はこんな時代だから、“沸騰消毒して飲め”という立て看があるが、当時そんなものは無かった。
「ハァ……おかわり」
柄杓の水をさらに小さな両掌に注ぐ。普段はお上品に物を召す彼女だが、両親の目が届かない場所では、コクコクと音を立てて飲み干す。何杯飲めば気が済むんだろう。ジュースよりこのお水が好きと言っているのが、わからない。
「たいへんおいしゅうございました」
今でこそ、姿形心ことにつくろひているが、この時はもっと天真爛漫だったな。口周りが濡れほぞれているが、機嫌笑顔の汐の細目に心惹かれる。そしてポケットからハンカチを取り出し、手や口の水気を取る。
「よかったね。じゃ帰ろう」
「まな。兄人も飲め」
「いいよ。のどかわいてないし」
「いけませぬ。こは日本三大名水ぞ。飲めば三百年生きると書いてある。妾は兄人と長生きするのじゃ」
変に頑固なところは、変わらない。ただ今と違って、この頃は折り合いがつかず、よく癇癪を起こして、しゃくり泣いていた時もあったよな。
「わかったよ……」
辻さんの柄杓から水を落としてもらう。夏は特に冷たくて、汗ばむ身体に染み渡る。その味は、清冷甘美と評される。雨天後に変わることもあるので、晴天が続く日が一番おいしい。
「ん」
「どうか? おいしいか?」
「うん」
「そうかそうか。さあらば、駄菓子屋に寄って帰ろうぞ」
「え〜またあのハッカ飴買うの? あれすごく不味いよ」
「ほほ。兄人にはちと早い味わいですからなぁ」
井戸を蓋で覆い、杓子などをきちんと片付ける。扉もきちんと閉め、一礼して外に出る。
俺の方が1つ上なわけだが、実際その時は俺の方が子どもっぽいと思った。なんせ、彼女は物心つく前から、ご両親から辻家の娘として習い事や家政やら、厳しく教え込まれていたから。