【e6m43】不被切共
鈍色の厚雲が天覆い、吹き荒れる風に追っ立てられる。おどろおどろしい雷も、その気配を忍ばせていた。鳥や虫は、事を予知するが如く鳴りを潜めている。
「降る前に帰ってこれてよかったな……」
辻家はもぬけの空だった。鍵も戸も開けっぱなしで、電灯もついておらず、家中薄暗い。叔父さんのデボネアAMGもなかったし、夫婦で出かけているのか。辻さんは部屋かな? それにしても、今日は俺の教室に来なかった。まあそんな時もあるだろうと、気にも留めなかったが。
孤独で陰鬱な雰囲気のせいなのか、俺は不安だった。生温い風が廊下を通り道として、不気味な音を立てている。
「風が強い。縁側だけ閉めておこう」
以前心地良かったので、自室を開放していたら、畳や板張りの上に黄砂が薄ら積もって、拭きあげる羽目になったから。
雨戸を閉じていた時、横殴りの雨がにわかに振り注いできた。急いで玄関や勝手口なども確認。けどさすがに叔父さん叔母さんの寝室には入らなかった。ゴロゴロと鳴りが近づく空模様の中、一通り見回って部屋に戻ると――
「うわっ! びっくりした……お前いたんか⁉︎」
辻さんが正座していた。その時、窓より閃光が1つ挿し入り、彼女の神妙な面差しが纔に見える。居るのなら、電気ぐらいつけようぜ……と明かりを灯す。
「今よりしばし、長雨になりましょうぞ、こは」
と手前の座布団に掌を指して、俺に座るよう促す。あまりにも急なことで、固唾を飲み当惑した。理由は知らねど、これは尋常の態ではない。俺が姿勢を正してから、従姉妹の口が開く。
「先つ頃、妾は晝暇に御辺尋ねしを、在所を焉とも知らせまゐらせざりつるに、いかにしつる事ぞや?」
「は……何それ? 昼休みはずっと教室に――外出した日のこと? 飯食いに行ったんだよ」
「其は獨りに非ずや?」
「ああ、先輩と」
「……ほ」
目を瞑って、背筋を伸ばし、居ずまいを正す従姉妹。白粉を薄ら塗った顔は従容としている。されどどこか陰翳があり、秘する心中もおいらかではないようだ。もしかして、先輩とこっそり外食に行ったのが、気に食わなかったか?
「いでや、妾をばはかるなりけり」
「はぁ? 騙したって……あのさ、いくらお前のエピソードとはいえ、単に先輩とメシ行ったぐらいで――」
「“ぐらい”? 耳にとゞまる事をもの給ふ物かな。さらば御覧ぜよ」
鏃のまなこをやおら開き、俺を射すくめ、一枚の写真を床につと差し置く。
鐘を突いたような衝撃が俺に走った。それは、俺らがそば屋を出た後、ゴネる先輩を宥めるため、抱き合って接吻している時だったから。鮮明に横から写っており、否定のしようがない。通りすがりの車内から撮った物であった。
以前“立ったフラグも見事な手腕で回収”と得意顔で思ったが、実の所は最悪の形で回収したわけだ。目眩がし始める……。
「“ぐらい”とは、さも言はれたり。聞くが如くんば、『先輩、今でも気持ちは変わっていないっす』、かくなむ伺い申したが?」
そこまで備に事知っているのかと、胸が早鐘を打つ。うかつ……こいつはほとんどクラスの固有スキルを見せびらかさないし、また和風の身なりから全然らしくないが、コバートオプスなんだ。自分のエピソードになったら、より俺への執着が苛烈なるなんて、わかりきったことじゃないか……。
「はて? などかは何事ものたまはせぬ。魂消えかへる様にあるが、これは如何に?」
「…………お前に黙って行ったのは謝る。ごめん。けどさ、なんでそこまでガチギレしてるん? 今までも、似たような事何度もあっただろ?」
「其は及ばざる論なり。宮どのは、獨り妾と結んだ赤い紐を忘るるのみに非ず、贈った歌までもか? 『お前は大切だから』も今は空う聞こえますな」
外にて雷電響きを起こす。あの指切りと和歌……俺は“ままごと”程度とばかりで、こいつもその程度だろと軽んじたのが不味かった。大切云々も、酔って覚えていないと思っていたが、確かに胸中に納めていたのだ。
「抑着裳の義すら心得ぬとは、以外の他。浮き寝まで遂げて、明日を期したというのに……」
かこち顔になることもない、泣き顔作ることもない。定めて能面の色で、道理に照らして俺をひしひしと非難するが、口の端に、隠しきれない感情が見え隠れする。俺は、絶句していて何も返すことすらできなかった。
「宮どののお心が誰のものか、今更ながら知らるる次第です」
「…………ごめん」
「かけても“松より波は越えじものを”とひたぶるに信じておりましたが、無益でかひなきことでしたな。もはやそもじを斬り捨てるのも億劫。母御父御には、妾より申しておく故、辻家をとう/ \出でましてありなむ」
“早くお出になるのがよろしい”と、随分と婉曲的な言い回しだが、“さっさと出て行け!”と言っているようなものだった。
「あ……うぅ」
『というドッキリで御座候ッ!』
こんな風に続けと一心に縋っていたが、会話はそこで終わった。もはや辻さんにインタラクトしても、会話ログすら開けない。土下座でもするか? いや気色取らんと縋りつこうものなら、無様すぎて鼻まじろきされるのが関の山。
もうね、彼女が見守る中、カバンなど私物をかき集めて辻家を出る他なかった。襖を閉めると、須臾も置かずに、部屋の中がワッと一面霞みわたった。蜷腸のか黒き髪を、畳一面に伏し散らしているのが、容易に想像つく。
俺は雨脚強い中を、一人虚しく歩くしかなかった。身にしむる風が後ろから吹き付け、はや/ \帰れとせっつく。失意のどん底に落ちた顔を、傘で隠せるのが唯一の救いだった。