【e6m36】裳付
儀式が始まる前に、裳着について簡単に説明しておきたい。なぜなら――
『読者どのがよう理るように』
と、辻さんからサブミッション目標を受けたからだ。
通俗十二単としても知られる女房装束は、唐衣、裳、表着、打衣、衣、単、打袴、襪を着装し、帖紙を懐中に忍ばせ、檜扇を執って完成とする。
今夜辻さんは、裳(腰回りから垂らすカーテンのような長い布)をせずに入場し、それを一族の年長者の手で結ばれることで、皆具として完成、すなわち成人と見做されるのだ。これが式の見所である。
「それでは定刻になり申したので、辻のぞみ、着裳の儀を挙行いたします」
正礼装した叔父さんが、前に出て行事を務める。雰囲気としては、入学式とか卒業式に近い。小袖の叔母さんの後に続いて、装束き立つ辻さんが差し歩みて入室。中高年の多い参列者からは、驚嘆のため息が上がった。
きっと父と共に呉服屋に赴き、自ら吟味したのだろう。五領の衣襟、袖口、裾廻しに重ねの色を見せている。勿論、色目も菊重と季節感を忘れない。唐衣はカーディガンのように一番上から羽織る。地質二陪織物で色目は蘇芳。崇高でこの世ならぬ輝きを周囲に及ぼしている。
『なんだぁアイツ? お雛様のコスプレじゃん』
向こうにいる、情味乏しいカレンはそんな面をしていた。確かに今時の女子が着るなら、所詮はコスプレの一言で片付けられる。しかし他ならぬ辻さんだ。内より咲き匂ふほどの為人で、色艶やかな衣装に何ら遜色ない。
ご自慢の垂髪は、厳儀とあって髪上げだ。つまり、お雛様の髪型にするために、紙型の“つとうら”を入れ、張りを出させて、残りは頂から後ろに下げている。また、額の上には、平額を装飾として付けている。
威儀を正しながら一座を横切る時、一瞬俺と目があった。わかるかわからない程度にはんなりと口元打ち笑う。紅と白粉とで彩たる顔作りをしているが、涼しげな目元は間違いなく俺の従姉妹だった。
「あの衣装買ったのか? 流石にレンタルだよな?」
「50余円」
「え?」
「女房装束コスチュームDLC。いい時代になったもんじゃ」
俺の呟きに、隣のうっとりとした眼差しのおじいさんが、応えた。常田先輩のブライダル衣装もそうだったが、被服業界大丈夫か?
そんな事を考えている間に、辻さんが一座と向かい合うように茵に着座。あんなに着重ねしているのに、能面のような顔で且つ微動だにしない。叔父さんが式を進める。
「腰結務めます尊者は、18代当主、辻一鉄であります」
すると辻さんはゆっくりと立ち、客席向かって横を向く。
また上座に据えられた椅子から、娘さんらしき人の手を取って、ゆっくりと孫の後ろまで進むご老人がいた。皺が深く刻まれ、眼光鋭く、髪も髭も整えている。家紋付きの礼装で、家長たる風格を放っていた。
叔母さんから、盆に載せた畳んだ裳を渡されると、祖父は小腰(両先端の紐)を辻さんの腰から腹に回して結い上げる。そして、彼女は俺らに後ろを見せ、叔母さんと娘さんが2人で裳を伸ばしていく。白地に、藍色で竹林を摺文様にした霓裳が、ここに披露された。
「…………」
拍手喝采を上げる人はいない。だが、一座は惚れ惚れとしていて、ご年配の中には感涙を蓄えている人もいた。
『なンだぁ? もう終わり? もう正座崩していいん?』
こんな愚か者もいたがな。あ、常田先輩がゴツい一眼レフでシャッター切っている。記録係は、先輩が引き受けたんだ。先の2人が少し裳を折り畳み、また辻さんは正面に座り直す。
「引き続きまして、当主式辞」
「此度は、のぞみの腰結に賜る事と為りて、難有仕候。(会話スキップ機能)のぞみが、良き程なる人と成りて、感慨の無量を覺え申候。ご成人御目出度う!」
驚いた。お年を召して盛りは超えたかと思ったが、声は堅強、腹から出しており、気力はいささかも衰えていなかった。辻さんは、祖父の言葉を1つ1つ噛みしめ、最後に軽く会釈した。
「辻のぞみ。琴、披露」
その後、彼女は“そよ風”と名付けている琴をインベントリから取り出し、数曲を披露。その名の如く、弾けば顔を撫でる風が、不思議と庭から届く。正直俺には上手い下手がわからないが、日頃あれだけ練習していたんだ。纖手から、澄んだ音が紡ぎ出され、一座を魅了する。“琴の上手にておはしける”、と評しても大袈裟ではない。
「引き続きまして、日舞、披露」
叔母さんが几帳を従姉妹の前に置き、その姿を隠した。曲が流れ始めると、それを持ち上げて退出。そこには、女房装束から薄紫の小袖に“お色直し”をやってのけた彼女が、座礼していた。手前の扇を取ると、立ち上がり、美しい所作で舞い始める。
髪は纏め上げているものの、紅や脂粉は薄ら塗っているため、先のお雛様然とした容貌より普段の様子に近い。なんでだろう。一緒に暮らしているというのに、今は目覚めるばかりに美しい……。
「⁉︎」
時折彼女と目が合ったような気がして、ドキリとする。斜めからの秋波、三日月のように細く美しく引いた眉、吐息を漏らす口付き、扇持ちしなやかに舞う柔手……魅了されるとは、こんな状態を指すのだろう。
曲が終わると、辻さんは今一度座礼をして、客間から退出した。たった数分の時間であったが、あまりにも夢中になっていた俺は、今まで呼吸することすら忘れていた。
「これにて着裳の儀は終了となります。本日はご列席、誠にありがとうございます。皆々様のご健康とご多幸を、のぞみに代わって申し上げます。これより饗宴の準備を致しますので、どうぞ足をお崩しくだされ」
締めの挨拶を叔父さんがする。こう呼びかけると、緊張した場の空気は解け、安堵した声も漏れ出る。俺と同じく、ほとんどの人が足を崩し始めた。