【e6m2】伏天(1)
縹の天を裏地に、表の入道雲の山際ゟいとよう立ち上り、刻々と姿を変える。日を受ける路地は、陽炎の限りなく燃ゆる。
「あちぃな」
俺は手の甲で、額から落ゆる汗を拭った。蝉は姿を見せねど、音は常よりもかしがましく、夏の鬱陶しさに一層拍車をかける。ふとそば目見ると、辻さんも隣に歩いていた。
「まこと暑うございますな」
しかしその顔、暑さとは何ぞと言わんばかり。汗露だに出だしておらず、従容としている。夏の光を籠むる翠髪は、そよ風にわずか吹き流される。その風一陣とともに、白檀の香ばしさが、ほのぼのと漂ってくる。
「父御母御には、話を通しておりまする故、しばし我が家とでも思うて御寛ぎくだされ」
「肝心の俺には、話を通していなかったけどな」
「さもありなん。碧眼ノ前やら色御前やらと相添えて、妾には添えじとは、ゆゆしうはべるかな」
そう。今日から俺は、辻さんの家にお世話になることになった。理由は簡単、こいつが言っている通り、メグや先輩と暮らしていたから妾もというわけだ。道端に咲くヒルガオを観ながら、辻さんは続ける。
「そもじの家の、萬の物は、桃の木ノ下に送り返し申した。言わずもがな着払いで。殊にかの油絵の、まこと難しかる心地するは、荼毘に付すべき忌物にありますが、もとより桃どもは妾が宿敵ならばこそ」
常田先輩を友だちと認めたのはいいが、なんて奴だ。俺が学校にいる間に、勝手に家を片付けたのか? 涼しげに言ひもて行くが、俺と先輩との思い出を、金輪際残さない鉄の意志が含まれている。俺が半分呆れていると、彼女はちょいと顔を持ち上げて、こちらを見る。
「はて? 心にもあらずというお顔ですの」
「そんなことはないです」
「ほ」
辻さんは、カレンのようにズンズカ大股で歩かないし、女らしさを強調してしゃなりしゃなりとも歩かない。背筋をピンと立て、静々と品よく歩む。子どもの頃は『遅いなぁ』と言ったが、今はあんまり気にならなくなっていた。