集落
翌日の午後。わたしは、亜里沙ちゃん、若葉ちゃんと三人連れだって、お風呂を借りに集落へと向かった。
校舎から集落へ向かうには、森の中の細い道を通らなくちゃならない。
また雪をかきわけて行くのかぁ、と少し憂鬱だったけど、ラッキーなことに、どうにか人が一人通れるぐらいには雪が片付けてあった。三枝がやったのかな。いや、一人では大変だろうから、もしかしたら星司やツルベも手伝ったかもしれない。若い男手がとにかく足りないから、体力が要る仕事は星司たち三人に任されることが多い。雪が降るようになってから、校舎内も集落のほうも、除雪はもっぱら星司たちの役目になっていた。
白森高校から500mほど離れた場所にある白森集落は、山中にぽつんと佇む十戸ほどの限界集落。住民のほとんどは高齢のおじいちゃんおばあちゃんで、若い男は三枝一人しかいない。だから高校に住んでいるわたしたちは、食べ物を分けてもらったりお風呂を貸してもらったりするかわりに、色々身の周りのお手伝いさせてもらっている。持ちつ持たれつ。ギブアンドテイクという言葉は、なんとなくドライな感じがして、わたしはあまり好きじゃない。
いつもなら三人でわいわい話しながら歩く道だけど、今日に限っては、みんな口が重かった。
昨日の夜、ニヴルヘイム病に関する英語のサイトを見て、わたしたちはショックを受けた。画像で見たその症状があまりに惨かったから。手足の先が、食べかけのアイスみたいに溶けていた。氷っているから血が流れることもなくて、ただただ氷った肉が露出して少しずつ減っていく。痛みも感じないらしい。亡くなった人の症例は特に悲惨で、手足が完全に溶けてしまったうえに胴体にまで症状が進んで、氷った内臓が見えていた。若葉ちゃんは途中で吐き気を催し、目を逸らしてしまったぐらい。
ニヴルヘイムのスペル『Niflheim』でSNSに検索をかけてみたら、さらに酷かった。ニヴルヘイム病を発症した本人が発信した情報を見られるから。毎日のように患部の写真を載せ、言葉を綴る。自分の体が溶けてゆくさまを成すすべなく眺めるしかないことの辛さが、言葉の壁を越えて痛いほど伝わってきた。
これまでわたしたちは、亡くなってしまった人を除けば、自分たちが今回の災害で一番被害を被っている、という自負のようなものがあった。実際、津波による被害は太平洋周辺諸国の中でも日本がダントツで大きかったし、わたしたちは、家や家族や恋人……文字通り、何もかもを失った。
でも、ニヴルヘイム病は世界中で起こっている。津波の被害が全くなかった地域にさえも、隕石の影響は及んでいるんだ。この事実が、これまでどこか甘えのあったわたしたちの心に重くのしかかってきた。
そしてもちろん、星司がそのニヴルヘイム病だったらどうしよう、という不安も、わたしの小さな脳ミソの片隅に絶えず燻っていた。
「あれ、まあ、いらっしゃいお嬢ちゃんたち。今日は三人お揃いね」
集落に着くと、三枝のおばあちゃんがわたしたちを出迎えてくれた。たしか六十代後半のはずだけど、それでも白森集落の中では若い方だ。旦那さん、つまり三枝のおじいちゃんはほぼ寝たきり生活で、三枝とおばあちゃんが手分けして介護している。
でも、ここは三枝がいるからまだ楽だという。集落の中には、いわゆる老老介護の家もあって、わたしたちは、主にそういうご家庭のお手伝いをさせてもらっている。
「なんも気にせんでいいから、ゆっくりしてってな」
若い人がいると元気がもらえるからと、まるでそれが口癖であるかのように続く。でも実際のところ、元気をもらっているのはわたしたちのほうかもしれない。何か手を動かしていれば塞ぎこまずに済むし、それに、なにもすることがない状態が最も人間の心を腐らせるということを、わたしたちはこの数ヶ月で身をもって学んだから。
わたしたちは手分けして、全ての家に顔を出して回った。洗い物とか掃除とか、できる範囲のお手伝いをして、おかずを少しずつ分けてもらう。それがわたしたちの『持ちつ持たれつ』。
今は一年の中で一番冷え込みが厳しくなる時期で、少なからず心配していたんだけど、特に体調を崩した人はいなかった。全ての家を回ってわたしたちが三枝のおばあちゃんの家に集まったときには、頂いたおかずだけでちょっとしたパーティーが開けそうな感じだった。
それからわたしたちは、三枝のおばあちゃんの家のお風呂を貸してもらい、二日ぶりのお湯に浸かった。三枝の家は決して新しくはなかったけれど、集落の中では一番大きくて、お屋敷と呼んでも言い過ぎじゃないと思う。だからお風呂はわたしが住んでいた家よりずっと広くて、三人で一緒に浴槽に入っても狭くは感じなかった。
「いやぁ〜、やっぱり風呂は生き返るねえ〜」
亜里沙ちゃんがしみじみとつぶやく。だんだん口調が年寄りくさくなってきたような気がするんだけど、これはわたしの思い込みかしら。少なくともその姿には、高校のマドンナとして崇め奉られていたころの面影はない。
「亜里沙ちゃん、おばあちゃんみたい」
若葉ちゃんが笑いながら言った。
「やっぱり? わたしもそう思った!」
わたしが便乗すると、亜里沙ちゃんは『こンの野郎〜!』とばかりにわたしたちにくすぐり攻撃を開始する。
「生意気な小娘どもが、口と体ばっかり大人になりおって、このこの!」
「きゃははは、亜里沙ちゃん参った参った、降参降参!」
「ちょっとどこ触ってんの!」
騒ぎ疲れて再びぼんやりしていると、亜里沙ちゃんがしんみりと話し始めた。
「でもさあ、実際、なんだか最近自分がどんどん干からびていってるような気がするよ。家も家族もなくなったし、夢とか進路とかそれどころじゃないって感じだし、彼氏も死んじゃったし、もう恋愛とかできる気がしないしさ。ああ、これが年をとるってことなのかなって」
わたしと若葉ちゃんは顔を見合わせた。亜里沙ちゃんがこういう話を始めるのは珍しいことだったから。でも、亡くなった彼氏のことに話が及ぶときはあまり良くない兆候で、なるべく速やかに話を反らすようにしている。若葉ちゃんがすかさずフォローを入れた。
「そんな、亜里沙ちゃんだってまだ十八なんだし、私達なんかよりずっと綺麗だしスタイルもいいんだから、きっと……」
若葉ちゃんはそこで言葉を切った。きっとまた新しい出会いがあるよ、と言いかけて、それじゃ逆効果だということに気付いたんだろうなと思った。
「いいんだよ気にしなくて。年をとると愚痴っぽくなってダメだね。いや、あたしが言いたかったのはさ」
亜里沙ちゃんはわたしの顔をじっと見た。
「夏美ちゃん、鳴海くんがヤバい病気なのかどうかはわかんないけど、二人でいられる時間をもっと大事にしたほうがいいよ。いつ何が起こるかわからない。いつまで学校で暮らせるかもわからない。ここにいるみんなだって、きっといつか散り散りになるときが来る。だから、後悔を残しちゃダメだよ。今の夏美ちゃんは、出涸らしのあたしなんかよりずっとかわいいから。自信を持って、さっさと鳴海くんをモノにしなさい」
亜里沙ちゃんの目はいつになく真剣で、わたしは何も言い返すことができなかった。
お風呂を上がると、台所のほうから何やらいい匂いが漂ってきた。ふと窓の外を見てみたら、いつの間にか空が燃えるような橙色に染まっている。お風呂のお礼を言いに台所へ向かうと、三枝のおばあちゃんがにこやかに言った。
「お、上がったかね。今ちょうど明と鳴海くんも雪片付けから戻ってきたとこだし、今すぐ外に出たら湯冷めするでしょう? 今夕飯作っとるから、みんなで一緒に食べていったらどうかね?」
「えっ、いいんですか?」
「おっ、姫君たちのお出ましか」
聞き慣れた若い男の声。振り返ると、汗だくの星司と三枝が立っていた。
「おう明、サボらないでちゃんと働いてきたか?」
「亜里沙先輩、そりゃないっすよ。見てくださいよこの汗!」
亜里沙ちゃんの彼氏はサッカー部の主将。三枝は二年のサッカー部員。つまり、三枝にとって亜里沙ちゃんは先輩の彼女だったというわけ。だから三枝は今でも頭が上がらなくて、亜里沙ちゃんにだけは軽口を叩かない。
「だってさあ、部活の練習態度とか見てたら、とてもとても……」
「えええ、でもちゃんとレギュラーとったじゃないっすか」
「おい明、無駄口叩いてないでさっさと風呂に入っておいで。汗くさくてかなわん」
今度は三枝のおばあちゃんだ。
「はいはい、わかってますよ。ほら鳴海、早く風呂入ろうぜ」
「おう」
風呂場に向かう星司を呼び止めて、わたしは小声で尋ねた。
「星司、体調は大丈夫?」
「ん? ああ、別に」
「見せて、指先」
星司の手をとって、指先をじっくり観察する。昨日見たときと特に変化はないようだった。完全に溶けたわけでも、氷った範囲が広がったわけでもない。でも、触れると手がほんの少し濡れる。氷った部分が、ちょっぴり溶けているのかもしれない。お風呂に入っても大丈夫なのかな……。
「無理しないでね、星司」
「わかってるって、大袈裟だな」
星司は笑いながら風呂場に消えていった。
星司と三枝が風呂から上がってすぐ、わたしたちは全員で夕食のテーブルを囲んだ。居間のテーブルいっぱいに大皿で並べられた料理。近くに山中を切り開いた畑があって、色々な野菜を栽培しているらしい。しかも、今はそれを売ることもできないから、野菜なら腐るほどあると三枝が話していた。腐ったらもったいないからどんどん食べに来て、とも。
驚いたことに、普段寝たきりでほとんど姿を見せない三枝のおじいちゃんもやってきて、一緒に夕食をとることになった。
七人もの大人数で食卓を囲むなんてどれくらいぶりだろう。わたしの家族は両親とわたしの三人だけだったし、災害のあとは、せいぜい在校生四、五人で一緒に食べるぐらいだった。だから、こんなに賑やかで温かい食事は久しぶり。亜里沙ちゃんと若葉ちゃんと三枝が示し合わせて、わたしと星司を隣り合わせに座らせてくれた。
三枝の家の居間は、わたしのおじいちゃんたちの家に似ていた。テレビがあって、大きなテーブルがあって、戸棚にはいろんなところの土産物や家族写真。生活感があって、昭和って感じがして、畳の上に敷いた座布団の感触が妙に懐かしくて。
でも、わたしの祖父母の家も、今はもうない。うちと同じ町内の、すぐ近くにあったおじいちゃんたちの家も、津波に飲まれてなくなってしまった。
風呂上がりの星司からは石鹸のいい匂いがした。
さっさと鳴海くんをモノにしなさい、という亜里沙ちゃんの言葉が頭の中で再生される。お風呂場独特のエコーを伴って。
「ねえ、星司」
「うん?」
「あの……さ」
「うん」
「雪片付け、お疲れ様」
「な、なんだよ急に……」
「なんか、食べたいのある? とってあげようか?」
わたしたちの会話が聞こえたのか、三枝のおばあちゃんが星司に話し掛ける。
「鳴海くん、これ食べん?」
三枝がすかさずおばあちゃんに目配せをして、おばあちゃんはニヤリと笑いながら口にチャックのジェスチャーをした。ニブチンの星司は当然のように、この一連の流れに気付かない。
「う〜ん、じゃあ、そこの大根の煮付け?」
わたしは大根の煮付けが載った大皿から適量を、いや、少し多めに小皿に盛って、星司に手渡した。
「ああ、ありがと。なんか急にしおらしくなって、ちょっと気持ち悪いな」
「なんかそれ、普段やたらオテンバみたいに聞こえるんだけど」
一応文句はつけたけど、否定はできないのが残念なところ。
そんなわたしたちを見かねて、亜里沙ちゃんが援護射撃をくれた。
「なになに? 二人、今日はやけにいい雰囲気じゃん。なにかあった?」
わたしたちは顔を見合わせた。でもすぐに、星司が笑って否定する。
「いやいや、なにも。夏美のやつ、なんか急に心配性になって」
「そう? てっきりなにか進展があったのかと」
「進展? 何の話ですか、それ」
星司はそれだけ言って、大根の煮付けを頬張る。
「ああぁ、これうっま」
会話を打ち切って食事に集中し始めた星司を見て、亜里沙ちゃんは軽く肩をすくめ、若葉ちゃんと三枝は苦笑い。
十年以上の付き合いでわかっていたこととはいえ、これは難攻不落だなぁ、と改めて実感したのであった。




