深海の残り火
僕は、彼女の手を引いて下水道の中を走っていた。
自分の足元さえ見えない真っ暗闇。僕たちと追手の靴音が複雑なリズムを刻む。
彼女を救わなければ。彼女をここから助け出さなくては。ひたすらその一心で、僕たちは逃げ続けた。もうどれくらい走ったかわからないけれど、出口はまだ見えない。さらさらと微かな水音が反響し合い、まるで深海魚になったような気分だった。
背後から数発の銃声が轟き、足元で小魚が跳ねたような水音がいくつか。壁に跳ね返った銃弾は、金切り声を上げて射手の腕前を詰っている。こんな暗闇で闇雲に撃ったって当たるわけがないのに。僕は素早く銃声の数を計算した。まだ弾切れにはならないか。いや、そもそも追手の数がわからないのだから、残弾数を考えてもあてにはならない。
こんな情景から始まる小説があったな、と思い出す。あれはたしか、飛行機のパイロットの夢の話だったはず。タイトルは何と言ったっけ。僕は昔から本のタイトルを覚えるのが苦手だった。人の名前ほどではないけれど。まあ、本のタイトルなんてテレビのワイドショーぐらいどうでもいいし、内容だって今はどうでもいい。もしかしたら情景だって全然違うかもしれない。ただ、それが夢の話だったということだけは、何故かはっきり覚えている。
でも、これは夢じゃないし、僕は飛行機のパイロットでもない。もちろん、彼女だって学者ではない。
何から逃げているのか。いったい何が僕らを脅かしているのか。長い逃亡生活のせいで、もうそれすら忘れてしまった。確かなのは、僕たちの名前だけ。
「美雪、大丈夫か?」
振り向いて声をかけると、美雪は風鈴みたいに涼しげな声で答える。
「大丈夫だよ、雪人」
美雪の声は下水道の内壁に反響して、銃声よりもよく響いた。あらゆる方位から美雪の声がして、まるで彼女に包まれているかのような錯覚。この中でオーケストラのコンサートをやったら、きっと素敵な演奏になるだろうと、僕は想像した。
すぐそばにいるはずなのに、暗くて顔すら見ることができない。今はこの声と、握った手の冷たい感触だけが、彼女の全てだった。
そう。僕は雪人。彼女は美雪。
それが僕たちの名前。誰がそう名付けたのかももう忘れてしまったけれど、そいつはきっと雪が好きだったのだろう。
いや、もしかしたら、僕たちの生まれた日が雪の日だったとか、そんな安直な理由なのかもしれない。そもそも、僕たちの誕生日は冬だったっけ?
下水道の中はいやに生温かくて、走り続けているうちに、体中が汗でびっしょりになっている。でも、不思議と不快には感じなかった。そういえば、ここは下水道の中だというのに、あまり臭気を感じない。ほんの少し人間の体臭を感じるけれど、これは汗ばんだ自分の体から発せられるものかもしれない。
ここでふと、反響する靴音の数がかなり減っていることに気付く。もう銃声も聞こえてこなかった。追手をまくことができたのだろうか。聞こえるのは自分の足音だけだ。
……ん?
僕は立ち止まる。僅かに靴音の残響。それもすぐに消えて、あたりはすぐに無音になった。水音すらも聞こえない。辺りは相変わらず真っ暗闇だ。僕らはどうしてこの闇の中を迷わずに進んでこられたのだろう。
「どうしたの? 雪人」
美雪の声だ。彼女の小さな手は、ちゃんと僕の手の中にある。よかった。
何かがおかしい――直感的にそう思ったけれど、頭は靄がかかったようにまったく働かなかった。きっと疲れているせいだ。そう自分に言い聞かせる。
僕は再び走り出した。美雪を連れて、あてもない暗闇の中を、必死で走った。気付けば、靴音がパシャパシャという水音に変わっていた。どこからか水が流れ込んで来ているのだろう。急いでここから出なければとは思うのだが、出口は一向に見えてこない。
それでも僕たちはひたすら走った。もうずっと走り続けているのに、不思議と足は疲れていなかった。こんなことなら、マラソンランナーにでもなっておくんだった。きっとオリンピックで金メダルがとれたはずだ。そんなくだらないことを考える余裕が、この時は確かにまだあった。美雪はどうだろう?
「美雪、疲れてないか?」
「うん、大丈夫」
彼女も息切れすらしていなかった。さすが、僕の……。
僕の……。
何だろう。思い出せない。
考えながら走っていると、みるみるうちに水位が上がってきた。もう膝のあたりまで水に浸かっている。早く出口を見つけなければ危険かもしれない。
僕たちは全力で走り続けた。しかし、周りに何も見えないため、いったいどれぐらい進んでいるのかは見当もつけられない。水位はさらに上がり続け、もう腰のあたりまでせり上がってきている。
だが、僕はここで不思議なことに気が付いた。
もう下半身がどっぷりと水に浸かっているはずなのに、僕たちは何の抵抗も受けずに走っている。おかしいではないか。僕は別に特殊な水着を着ているわけでもないし、フェルプスでもイアン・ソープでもない。
それに、足音が一人分しか聞こえないのも妙だ。走っているのは僕だけではない。
美雪の足音が聞こえないのは何故だ?
「雪人、あれ、出口じゃない?」
美雪がそう言った途端、前方に出口らしきものが現れた。まるで夜空に浮かぶ満月のように、円形に光が差し込んでくる。
些細な疑問など後回しだ。外に出てしまえば全てが終わる。僕たちは自由になれるんだ。
水位はさらに上がり、頭まですっぽり水没してしまった。それでも呼吸ができた。そのことに疑念を抱くことすらなく、僕はその水のようなものを吸って、吐いて、走り続けた。
出口まであと少し。あと少し。美雪のことを振り返る余裕もなかった。
繋いだ手は離さずに。
もうすぐ彼女を解放してやれる。
政治なんてわからなくてもいい。
走れ雪人。
下水道を抜けると、そこには一面の雪景色が広がっていた。見渡す限りの銀世界。ムースのように滑らかな雪が地平線の彼方まで続いている。ここはどこだろう。空は翳っていて決して明るくはなかったけれど、暗闇に慣れた目には、雪の白さがとても眩しかった。
「外に出られたよ、美雪」
僕は振り返って美雪を見る。繋いだ手の先に、美しい彼女が立っていた。美雪の顔を見るのも随分久しぶりの事のように思える。
肩まで伸びた黒髪。透き通るような白い肌。赤みがかった茶色い瞳が僕の目を捉える。
細い眉、形のよい小鼻、薄い唇、頬から顎にかけてはなだらかで、その肌のきめ細かさはまるで絹のよう。
ああ、彼女はたしかにこんな顔だった、と海馬がアクセプトする。美雪の顔を忘れていなくてよかった。彼女はいつもの白いワンピースを身に着けていた。
僕の大事な美雪。僕の、僕の……。
僕の何なんだ……肝心なことが思い出せない。
「ねえ、美雪……君は……」
その時突然、ごく近くで、パン、と破裂音がした。
胸に何かの衝撃。体がひとりでに二、三歩後退する。美雪の手には何か黒いものが握られていて、先から細い細い煙が立ち上っていた。はて、彼女は喫煙者だったろうか――いや、違う。
僕は自分の身体がから急速に体温が失われてゆくのを知覚する。そしてゆっくりと、雪の上に仰向けに倒れた。
美雪はうっすらと笑みを浮かべていた。蛇のように禍々しい不気味な微笑。これは本当に美雪なのか……?
遠ざかる意識の中で、頼りない海馬が出した回答は、『YES』だった。
そうか。
そうだった。
そうだったのか。
もう彼女にとって僕は不要なのかもしれない。
それは決して悲しいことではない。
彼女への恨みなんて微塵もない。
僕はもう役目を果たしたんだ。
我ながらよくやったと思う。
意識が朦朧としてきた。
僕はきっと、これから、この美しい雪原を構成する雪の層の一部になるのだろう。なかなか乙な死に方かもしれない。腐敗して土に還るよりは、遥かに素敵な最期ではないか。そして、ずっと春が来なければいい。
美雪は無言のままこちらを見下ろしている。
体はもう完全に静止して、あとは心臓が止まるのを待つだけとなった。それだって、もうさほど時間はかからないだろう。命があっけないものであることに、僕は感謝した。
視界が黒く塗りつぶされる。残された僅かな記憶も煙のように霧散して、暗闇の中に微かな意識だけが鬼火のように浮かんでいる。
僕の意識の残り火は、彼女の幸せを祈りながら、深い無意識の海の底に沈んでいった。




