『……卒業したらモロッコ行きますっ』by藍
――絶望を知った。でも……俺はまだ、希望は知らない。
それはどんなものなのか。希望へと上昇していく自分の日々は、どこへ行きつくのか……それも知らない。
俺には知らない事ばかりだ。これは閉鎖されたどん底の世界に慣れ過ぎていたからかもしれない。
だから――知りに行こう。この、どん底を味わっても折れなかったこの心を持って――。
†
「……輩……せんぱい……?」
――バシャアッ!!
「――ぶはっ!?」
唐突に俺の顔へかけられたのは、水。
塩素の混じったそれは、プールの水だ。それに少し温かい。
「もーっ! どうして寝ちゃうんですかあー!」
目の前にいた黒髪の美少女は、ぷくっと頬を膨らませて不機嫌さをアピールしている。
その人物は――藍。
「悪い悪い、ちょっと物思いに耽ってた」
「物思いっていうか、完全に寝オチしてたじゃないですかー! もう信じらんなーい!」
翌日、約束通りみんなとプールへ訪れていた俺は、プールサイドで物思いにふける……もとい、居眠りしていた。そして藍に起こされて、顔をあげてプールの中で泳いでいる雨宮やバレーをしている彗達を眺める。彗マジ天使。でも男なのが若干残念だ。
「で、どうしたんだよ藍? 雨宮が相手してくれなくなったのか?」
「そんなことあるわけないじゃないですかー。むしろ先輩がボッチだったので、声をかけてあげたんですよ。感謝してくださいね」
「ああ、はいはい。ありがとうありがとう。そんなお前にジュースでも奢ってやろう」
「あれ?」
足だけを入れていた俺は、プールから出て少し歩く所の売店へと足を向けると、藍が驚いた様に目を丸くして疑問符を浮かべていた。
「ん? どうかしたか?」
「……いーえー? それより先輩、わたしコーラが飲みたいです、コーラ!」
「歯ぁ溶けるぞー」
「じゃあ何奢ってくれるんですかぁー!?」
「んーそうだな。お茶」
「……うわぁ、マジこの先輩マジ……」
心底あきれた様な藍の声が後ろから響く。そしてチクチクと少し怒ったのか、刺すような痛みが左半身を襲う。
「悪かったって。Lサイズでいいか?」
「どうして男の子は迷ったらLサイズって言うんですかね?」
「そりゃ多い方がいいからだろ」
「寛大なわたしは先輩の懐事情を考慮してMサイズにしてあげます」
「お前に心配されるほど金欠じゃないぞ、俺は」
嘆息しながら売店でコーラを二本購入。サイズはLとMだ。流石に奢るだけで自分は飲まないっていうのは少しおかしいからな。
「ほれ」
「ありがとうございます~」
売店横の壁に二人して寄りかかり、ストローの通されたコーラを飲む藍。
「で、雨宮はどうしたんだよホントに。さっきから一人で泳いでるじゃねえか」
「うーん……それはちょっと女性ならではの戦いがあってですね……」
申し訳なさげに眉根を寄せる彼女に、俺は疑問符を浮かべた。
「胸とか?」
「何考えてるんですかこのマジエロセンパイ早く死んでくださいまあ否定できないのが今回一番腹立ちますけど」
藍は睨むようにして俺に文句を吐きながらも肯定する。
「まあ……。雨宮はあの中でも一番小さいしなぁ……」
「でもでも、可愛いじゃないですか。そういう空先輩もわたし大好きなんですよ~?」
「分かってるよそれくらい。たぶん雨宮自身の問題だろ。あと小一時間そのまんまにしておけば自分から輪に入ってくるって」
「ホントかなあ~……。空先輩においては先輩の助言って信用できないからなあ~」
「おい、まるで俺が雨宮の助言だけいっつも外れてるみたいに言うな」
いや、まぁわざと外れるように助言しているだけなんだが。
俺と彗の仲を引き裂こうとしている藍にも同じことをしてやらねば気がすまないのだ。
ふふ、俺の恨みを思い知るがいい。
「……先輩、顔。顔。なんだか悪役みたいな顔になってますよ」
「え、そんなに俺の顔分かりやすい?」
「いやー今日だけですかね? なんだか今朝から先輩の表情コロコロ変わってるので、面白いです」
ぺたぺたと自分の顔に触れる俺を見て、藍は笑いながらコーラを飲む。
「そんなに変わるかねえ……」
「なにかいいことでもあったんですか?」
「いいこと、っつうか……。みんなとつるみ始めてから、もう一年経つんだなあと思ってさ」
「先輩……」
俺はぼーっとみんなの居るプールの方を眺めていると、藍が寂しそうな声を上げた。
「会わなかったら会わなかったで、まともな青春はなかっただろうしな」
「わたしが先輩と初めて会った時は、結構優しかったと思いますよ?」
「そりゃな。十一月となれば半年くらい経ってるし、変わりもするだろ」
藍とは彼女の受験期に、体験学習という形で何度かウチの学園へ訪れ、その際に何度か会った事がある。
一人ひとりの生徒に在校生が付いて紹介していくというもので、俺は当時新たに新生徒会役員となった天先輩と銀先輩の二人の補助として行動していた。
藍の担当は、中学時代から見知っていた雨宮だった。何度かアクシデントがあって、その都度雨宮は俺に連絡を送ってきたために、何度も藍とは顔を合わせる機会が多かったのだ。
「ぶっちゃけ、あの中で一番俺が頭上がらないのは雨宮だからなあ」
それこそバンドとか、勉強とか。執行部への推薦も全部、雨宮が受け持ってくれた。
俺は本当に、雨宮には頭が上がらないんだ。去年も、今も。
「……先輩って、空先輩の事が好きなんですか?」
訝しげに訊ねて来る藍に、俺は一瞬キョトンとした目をしながら、朗らかに笑う。
「好きだよ。当たり前だろ」
何をいまさら、と言いつつ、俺は手にしているコーラを飲んだ。
「それって恋愛的な意味でですか?」
「んー……恋愛とはまた違うなあ。信頼というか、心の許せる相手というか。そんなもんだ」
「ふ~ん……」
ああ、ジト目になった。
「別に惚気てるわけじゃないぞ?」
「分かってますよーだ」
唇を尖らせてコーラを飲む藍。
俺ははあ、と苦笑い混じりに息をつく。
「――とにかくっ、先輩。わたし負けませんからね!」
「ん、何にだよ?」
「空先輩はわたしのものです!」
「日本では同性間の結婚は認められてないぞー」
「……卒業したらモロッコ行きますっ」
「今はタイの方が主流らしいぞ。タイにしとけ」
「どうして止めようとしてくれないんですか!?」
「そりゃあ大事な後輩の幸せのためだからな……」
「そこは止めましょうよぉー! こんな可愛い後輩が男の子になっちゃうんですよ!?」
「それはそれでアリだとも思ってる」
「………。でゅくしっ!」
「オウフッ!?」
唐突なエルボーが俺の鳩尾に直撃し、俺は声にならない声をあげてその場にうずくまる。
「ちょっ……藍お前っ……!」
「もうこの先輩だめだぁー! うわーん空せんぱぁーいっ!!」
結局お前、雨宮と絡みたいだけだろ!
その言葉は、鳩尾にくる痛みとむせる自分の息によって、叫ぶことはできなかった。
「はあ……」
飲みかけたままその場に置いて行った藍のコーラをどうしようかと思い、それを取り上げながら立ち上がる。
『で、そのコーラどうするつもり?』
「星亜か」
そっと隣へ歩み寄って来たのは、青いビキニ水着を身に纏った星亜。
「ひょっとして聞いてたのか?」
それはそれでタチが悪い。
「ちょっとはね。まさか犯人がヤスだったなんて……」
「俺らがいつそんな話したよ……」
飲むか、と俺は苦笑い混じりに藍の飲みかけコーラを星亜の前へ出すと、彼女は一度それを見て「いただくわ」と言いながら受け取り、俺と同じく壁に寄りかかりながら飲みだした。
「あなた達、本当に仲がいいのか悪いのか、たまに分からないのよね」
「良い方なんだろ。藍にとっては八割方男子は嫌いだからな」
「……そうね」
俺らは藍の方へ視線を向ければ、雨宮へと近づいて何か話している様だった。
ああ、抱きついた。
雨宮もこれで平常運航だろう。もう安心だな。
「――それで、音無くん。あなた空の事が好きなの?」
「――んぐっ! ぶはっ!?」
俺は口に含んだコーラが器官に入り、未だ口内に残っていたそれをあさっての方向へ吹き出した。
「げほっ……やっぱ聞いてたんじゃねえか……!」
「そりゃあ、あんなに良い顔して言うんだもの。聞こえない方がおかしいわよ」
「……顔と声量は全く異なると思うんだが?」
向き直ると、どこか悪戯気に半眼でニヤニヤとしている星亜が目に入る。くそ、ウザいけど綺麗だ。
「それで、どうなのよ? 空のこと、好きなの?」
「好きかと聞かれたら好きな部類に入るだろうけどな……」
「でも今、あからさまに動揺したわよね?」
「そりゃそうだろ……」
俺は口元を腕で拭いながら、隠す。
――いや、流石に後輩に言うのと同年代の女子に話す『好き』という話題はまた違うベクトルというか……。そういうのがあってだな。
流石の俺も、雨宮の幼馴染である星亜相手じゃあ、嘘は吐けそうになかった。一番注意しなければならない相手だというのに。
「音無くん、ひとつ忠告してあげるわ」
「……なんだよ?」
俺は睨むように星亜を見ると、彼女は心底悪戯気な笑みを浮かべて、
「あなた、本気で恥ずかしがっているときは顔より耳の方が真っ赤になるのよ?」
と言った。
「……―――っ!!」
俺は咄嗟に身体をかがめながら耳を押さえ、ゴシゴシと擦った。やべえ、マジかよそんなの初耳だ。
「ほんと音無くんって分かりやすいんだから。そんなんじゃ空にいつばれてもおかしくないわよ?」
「……いいだろ別に、そんなの俺の勝手だ」
「なんだったら、私が手助けしてあげてもいいわよ?」
「――は?」
俺はその姿勢のまま星亜を見上げると、相変わらずニヤニヤした表情のままだったが、悪戯気な笑みは消えている。――いや、むしろ何か考えている様な感じだ。肌にひしひしと悪寒を覚える。
「その変わり、条件があるの」
「……ほう?」
それは天使の施しか、それとも悪魔との契約か。
俺はゴクリと喉を鳴らしながら、その話に耳を向ける。
それは――。
「――姉さんを、救って欲しいの」
「……は?」
――こうして。
俺、音無大地の送る、波乱万丈の恋愛物語は――
――たった一人の少女の願いのもとに、始まりを告げたのだった。