第一部(6)
左頬を腫らして帰宅した明に遥は心配そうにしていたが言葉では
「もうご飯出来てるから手を洗ってきなさい」と平静を装っていた。
明は
「腹減ってないから」と言って部屋にとじこもった。
部屋の中はいつもより狭く感じ、いつもは居心地が良いはずのベッドが不快に感じた。
ベッドに横になり天井を見る。
見るというより天井を向くと言った方が適当だろう。
明はただ焦点の合わない目を天井に向けていた。
明の心は悔しさで満ちていた。
その日は疲れがあったのになかなか寝れなかった。
体は重いのに頭は目が覚めきっている。
明自身も寝る事を望んではいなかったのかもしれない。
ただ右の頬をずっと摩っていた。
次の日明が目覚めたのは12時半過ぎだった。
いつ寝たのか明にも解らなかったが、昨日よりは悔しさが強く自分の心を突き刺さなくなっていた。
悔しさを忘れたわけではなく、悔しさが体の中に吸収され糧になったように明は感じた。
「おはよう」寝ぼけ眼で居間の扉を開ける明に遥は
「あら?遅いお目覚めね」と笑いながら言う。
「今日車の納車の日だからね。」
「もう?」
「そうよ。」
明が居間の白いテーブルの前に胡座をかいて座ると英雄も前足と後ろ足を折って座る犬座りをして明の顔を眺めて首を傾げる。
「何時に車来るの?」
「14時くらいかしら?」「なんかアバウトだね。母さんは。」台所からは水を出す音が聞こえる。
「大丈夫。ちゃんと車屋さんが着いたらうちに尋ねてくれるから。」水の流れる音が止まって、まな板と包丁がぶつかる小気味よい音が聞こえる。
「母さん今日ご飯何?」
「サラダと納豆にしようかと思うんだけど。」
「あぁ良いよ。てか俺ご飯食べたら出かけるからおにぎり2個作ってくんない?」
「良いわよ。」
「ありがとう」昼食を食べてバイクで出かける明を見送り、遥は心配する気持ちを吐き出すようにため息を小さくはいた。
「おはようございます」
「おぅ。今日も19時からって言ってなかったか?」
「やっぱり昨日の負け悔しくて早く来てサンドバッグでも叩こうと思いまして。」
「そうかぁ。良い心掛けじゃ。わしがサンドバッグおさえといてやるか?」
「いや、良いです。ただ気ままに打ちたいだけなんで」
「そうかぁ。」そういうと茂次はまたシャドーボクシングに熱中する。
明は更衣室に向かった。
初めて対峙するサンドバッグは恐怖すら感じる不気味さを放っていた。
先ず軽く左を出してみる。
「パン」と乾いた音がなる。
また左を出す。今度は少し力を入れてみる。
「パン」と音がしてさっきよりサンドバッグが動く。
体があたたまるまで明は軽くジャブをだし続ける。
それを見ていた茂次は
「出すのより引くのを意識してみろ。ジャブは相手との距離を計ったりするパンチじゃ倒すパンチではない。だから力まず、力より速さを意識しろ。」
「はい。」明は言われた通りにやってみる。
「あとな、モーションが読まれやすいから肩口から真っ直ぐジャブを出してみろ。サンドバッグは体があたたまったらいったんやめて、鏡の前でジャブのフォームを矯正するのじゃ。うまいボクサーのジャブは急にパンチが飛んできたように見えるんじゃ。昨日みたいにジャブにカウンターあわせられないようなパンチを生み出すのじゃ」
「はい。」体中から汗が吹き出してきた明はサンドバッグを打つのをやめた。
鏡の前に立ち、軽くジャブを1回出す。
35キロ痩せた自分の姿が鏡に映る。
昔の自分は嫌いだった。
凄く自分の身なりが嫌いだった。
顔も、体も、鏡に映る自分の全てが嫌いだった。
努力というものを初めてやり、今の体を手に入れる事が出来た。カッコイイとかそういう事ではなく努力に耐えた自分の姿が少し好きになれた気がする。
明は茂次が見守る中、左拳を鏡の自分に向かって突き出す。
鏡の自分も自分に向かって拳を突き出す。
ただ何気なく出した拳だったが鏡の自分の拳をかわそうとしてしまった。
「どうした?」手を止める明に茂次が問う。
「鏡の自分の拳が怖くて…」
「お前だけが怖いわけじゃない。鏡の中の自分もお前の拳が怖いんじゃ。恐怖に打ち勝たなければその先は見えてこないぞ。」
「はい。」
夏川茂次の助言は的確だった。
2、3回のアドヴァイスで明のジャブはみるみる上達した。
「ではまた明日お願いします。」茂次に頭を下げて夏川ジムをあとにした。
バイクに跨がる前に軽く左拳を突き出し、明は
「よしっ」と言って家に向かう。
「良いだろ?」
「やめてください」
「良いだろ?」
「やめてください」清楚な服装の華奢な女性が左手を出した。
「パシッ」と乾いた音が響く。
「いてぇーな。殺すぞ。」女性に手をあげる。
「きゃっ」女性は路上に倒れた。
バイクを止めて、家の近くの公園で星を眺めていた明にその綺麗な星空とは不釣り合いの悲鳴が聞こえた。
明は回りを見渡す。
街灯もない暗い公園だったが微かに何かが動くのが見えた。
恐る恐る近づく。
まだ声の主達は明に気付いてないようすだった。近づいて解ったがやくざ風の男に清楚な身なりの女性が襲われそうになっていた。
明は恐怖で足が震えていた。
幸にも女性は明に気付いていない。
明は一瞬逃げ出しそうになったがジムでの茂次の言葉を思い出した。
震える足を無理矢理黙らせて明は男に近づいた。
「おい、おっさん。嫌がってるだろ?やめろよ」
「あん?」清楚な女性に抱き着こうとしているのをやめ男は振り返る。
腕には入れ墨が入っている。明は逃げ出したくなったが、女性は助けを求めるかのような目を明に向けたので引くに引けなくなってしまった。
「だからやめろっていってんだろ?」間髪入れず親父が殴り掛かってくる。
小林の方が速かったなぁ。
そう思いながらやくざ風の男の右拳を受け止める。男の動きがあまりにも遅すぎて少し気がぬけた。
受け止められた手をとろうとする男の右拳を握り潰す。
「ヒィー」男は悲鳴をあげる。
明は男の拳をはなし、ジャブを男の腹に5発くらわせた。規則正しく
「グチャ」という音が5回なり、男はその場に倒れた。
「ありがとうございます」ビッグスクーターの後座席から降りた女性は深々と明に頭を下げた。
「いや、良いですって」明はフルフェイスのヘルメットをぬいで答える。
「本当に助かりました。連絡先教えていただいてもよろしいですか?何かお礼したくて。」
「はぁ…」明は携帯電話を右ポケットから取り出す。
「まだテスト終わってないんでいつお礼出来るか解りませんが必ずお礼しますので。」
「いいですよ。気にしないでください。」そういうと明はヘルメットを被り、その場を立ち去る。
明の背中に女性は
「ありがとうございます」と体に似合わない大きさの声で言った。
帰宅し、ご飯を食べ、シャワーに入り、すぐに自分の部屋のベッドで横になる。
天井に向かって拳を突き出してみる。なんだか今までの自分の拳より大きく見えた。
その日はぐっすり寝る事が出来た。
携帯電話のアラームが重い瞼を無理矢理こじ開けてくる。
必死で鉛のような瞼に力を入れ、明はベッドから出た。
カーテンからは光が漏れだしベッドから出た明を照らしている。
左手にはまだ昨日の感触が残ってる気がした。
居間は遥の姿はなかった。
居間の奥の出窓でひなたぼっこをしながら寝ていた英雄が目を覚まし、後ろ脚で赤い首輪の周りをかく。
それから出窓から飛び降り、冷蔵庫から麦茶を探す明の足に擦り寄る。
明は左手に麦茶を持ち、右手で冷蔵庫の扉を閉じ、その手で足元の英雄の頭を撫でてやる。
英雄はうれしそうに
「クゥーン」と鳴いて目を閉じた。
土曜日、日曜日と連休の次の日の月曜日はクラス全体がボーッとした感じがする。
授業中でもどこか上の空の生徒が目立つ。明は今日も氷室と蘇我がいないのに疑問を覚えながらも4時限目の早乙女の現代文の授業に没頭する事は出来なかった。
気付くと上の空で左手をにぎりしめていた。
チャイムが鳴り、生徒がいっせいに立ち上がる。
明もそのうちの一人だった。
うまいもん、食べてぇ〜なぁ…。
明の足は自然と学食へと向けられていた。
「おー。また来たか。」
「はぁ…。」むさ苦しい顔面凶器を近づけてくる早乙女に困りながらも食べたかった
「オムライス」を頼み明は席についた。
10分くらいしてドスのきいた早乙女の声が学食の中に響く。
明はオムライスをとりに向かう。
やっぱり早乙女の手から作り出された料理は完璧だった。
明は夢中で平らげ精算をするために入口近くのレジに向かう。
「3150円な」
「あのさ、前から聞こうと思ってたんだけど何でこんなたけぇ〜の?」「教師に向かってタメ口か?まぁ〜その度胸に免じて教えてやるわ。」
「基本的に材料費がかかるんだよ。俺は妥協出来ない性格だかんな。だからどんな料理でも最高の食材を使ってるんだ。だから高くなんの。」
「なんかたいした理由じゃないんだね。」
「まぁ〜当たり前の事だからな。」明はお金を払いその場をあとにした。
ジムに着くと茂次が
「今日もスパーリングじゃ」と言って明を出迎えた。
着替えて軽くウォーミングアップをし、リングに上がる。
目の前には昨日負けた小林が見下した目を向けてきた。
明はそれを睨み返した。
「カーン」とゴングがなり、茂次の
「ファイッ」と言う掛け声とともに明と小林は拳を突き出し挨拶をし、また周り始めた。
茂次がスパーリングをとめたのは1ラウンドから数えて6回目のダウンを奪った時だった。
「もう無理じゃな。」茂次はタオルを投げてそう言った。
「いや、まだ出来ます。」小林は必死に立ち上がろうとするが足が言う事を聞いてくれず、尻餅をつく。
「もう今日は無理じゃよ。既にテンカウントで立ててないじゃろが。」茂次は小林の腕をとり、自分の肩をかしてリングから小林を下ろし、リングサイドのベンチで横にした。
「五十嵐、お前、いつものランニングコース走ってこい。」
「は、はい」明は16オンスのグローブを脱ぎ、ジムを出た。
明の姿が見えなくなると茂次は小林に向かって
「今日の敗因は解るか?」と言う。
濡れたタオルを目に当てた小林が答える。
「昨日勝ったからなめてました。」悔しそうに答える小林に茂次は
「それは1ラウンドの最初のダウンまでじゃろ?お前の敗因は自分から攻めに行かずにカウンターばかりを狙ってた事じゃよ。それとあいつのジャブの凄さじゃな」
「はぁ…」そう言った小林の体は悔しさで震えていた。
神社の境内の階段を全力で登る。合計2782段ある階段を駆け上がるのは一苦労だった。
明は左拳を突き出し小さく
「シュッ」と言う。
サウナスーツを着込んだ体は汗で大雨の中を傘をささないままの状態のように濡れていた。
神社の階段を登り終え、最後の階段で座り
「フーッ」と小さなため息をつく。
自分の拳が昨日よりまた大きく感じた。
ジムに戻ると小林の姿は見えなかった。
茂次に聞くと帰ったらしい。明もその日はランニングを終えて帰宅した。
昨日のスパーリングで小林に勝った事で明の頭の中から氷室と蘇我の事は消えていた。
次の日帰宅しようとした時、明の携帯電話に着信があった。
「はい」バイクに跨がり、ヘルメットを左手に持ち右手で電話に出る。
「五十嵐さんですか?」
「はい。そうだけど。」
「この前助けていただいた椎名志保といいます」
「あぁ。で、どうしたんですか?」「テスト余裕なんでお礼をしたいなと…」電話の相手の椎名はなんだか恐る恐る話してるのか声が小さかった。
「良いですよ。そんなの」
「いや。それは出来ません。助けていただいたんですから。」
「解りました。ではお礼していただきます。」
電話ごしに椎名の小さな笑い声が聞こえる。
「今日とか大丈夫ですか?」
「ずいぶん唐突ですね。」
「すいません。今日20時に江別駅で待ち合わせしませんか?」「はぁ…。良いですよ。」明は小さい声の電話相手におされてる自分が笑えた。
「では20時に江別駅で。」
「了解」
急に用事が出来たため自宅に帰らずにすぐにジムに向かう事にした。
「おはようございます。」
「どうした?まだ時間じゃないぞ」
「はぁ…。解ってるんですが急に20時から予定が入りまして。」
「女性は大切にしなきゃじゃぞ」
「女となんて言ってないじゃないですか」慌てる明に茂次は
「顔に書いてるぞ」と言い、笑う。
やっぱり親父さんには勝てねぇ〜な。
この日の明のメニューは25キロを走った後、ジャブのフォームチェックを8ラウンド(1ラウンド3分)と縄跳び8ラウンド、腹筋300回、腕立て伏せ300回、背筋300回、スクワット300回とストレッチだった。
江別駅に着き、ヘルメットを脱ごうとした時後から声が聞こえた。
「五十嵐さん」明は声の主を探す。
駅から出て来る椎名の姿が明の瞳に映る。
「お久しぶりです」どうしていいか解らない明に椎名は
「またバイクの後ろに乗っていいですか?」と言い笑う。
椎名を乗せた明のバイクは街中に向かう。
左ウィンカーを出して曲がり、また右に曲がる。
街中のはずなのに明には見慣れない景色が広がる。
信号で止まった時、明の後から椎名が話しかけてきた。
「次の信号右に曲がったら目的地です。」明は返事の代わりに右手を軽く上げる。
信号が変わりはしりだす。
明と椎名が着いた場所は美容室のような場所だった。
「ここって美容室ですよね?」ヘルメットをぬいだ明が椎名に問う。
「そうですよ。」椎名はバイクの後からおりてそういう。
「なんで美容室?」明はバイクのエンジンを切り、首をかしげる。
「五十嵐さんかっこいいのに髪の毛とか服装とか適当でもったいないから今日はうちのお兄ちゃんの美容室で変身してもらおうかな?って思いまして」小さく自信のない声はみるかげもなくなっていた。
「はぁ…」明はそう答えるしかなかった。
椎名の兄の美容室
「椎名組」はネーミングセンスとは裏腹に白を基調とした店内は洗練され綺麗だった。
「いらっしゃいませ」明と椎名が入店すると活気に溢れた声が聞こえる。
「田中さん、お兄ちゃんいます?」椎名は出入口の近くのレジにいた若い今風の男性に声をかけた。
「社長かい?今2階の事務所にいるからちょっと内線で呼ぶから椅子にかけてて」田中と呼ばれた男はレジの向かいの椅子を指差し、すぐにその右手で電話のボタンを押し始めた。
5分くらいして奥からどっからどうみてもジャニーズかモデルにしか見えない男が現れた。
「お?どうした志保」男は立ち上がる志保に向かってそう言った。
「前、助けてくれた五十嵐さんをかっこ良くしてほしいから連れてきた。」明を見る椎名楓の目に悪意が感じられた。
「先日はうちの妹を助けていただきありがとうございます」深々と明に頭をさげる楓に明は戸惑いながら
「良いですよ。そんな…。」と言う。
「今日は俺があなたを超かっこよくしてあげるから」ポーズをしながらウィンクをしても楓はかっこよかった。「よろしくお願いします」はにかみながらそういう明に楓は
「まかせなさい」と言いまたウィンクをした。