第一部(5)
この日も氷室と蘇我は学校に姿を現さなかった。内心安心した明はバイクの中型免許を取るため家の近くの自動車学校に手続きをしに行った。
窓口で遥が取ってきてくれた住民表と受講料の16万5000円を払い、その場をあとにした。
背中越しに笑顔で
「ありがとうございました」と言う事務の女性には目もくれず明の視点はある方向に釘づけだった。
同じクラスの小林龍地がバイクのアクセルスロットルを絞るようにし
「ブン、ブン」と言いながら窓口に向かってくる。
明はかかわらないように見ないふりをしながらその場をあとにした。
自動車学校から直接夏川ジムに向かったはずなのに小林龍地はすでにジムでサンドバッグを打ちながら
「あとー」と叫んでいた。
「親父さん、なんか窶れてません?」
「当たり前じゃ、お前が来るまであいつのミット打ちの相手をさせられてたんじゃからな」
「そうなんですか。でも僕と一緒であいつも素人ですよね?」
「そうなんじゃが、恐ろしいほど飲み込みが早くてな、冗談で『この漫画からボクシングを学べ』って言って『はじめの一歩』って漫画を貸したんじゃが次の日、つまり今日、その漫画のキャラの全部の得意技をほぼ完璧にマスターしてしまったんじゃよ。ただパンチ力はあんまりないんじゃがスピードが早過ぎて老いぼれにはきついわ。」そう言って汗を拭い外に出る親父のあとを追い明もジムを出た。
今日も倒れるまで走り込みをさせられ、水をかけられ、起こされた。
明はカレンダー6月8日の所にバッテンをつける。もうカレンダーのバッテンも30個になっていた。
明はなる前の携帯電話のアラームを切り、ヘルメットを持って家を出た。
免許取得祝いで遥が買ってくれたビッグスクーターに跨がり、夏川ジムに向かう。
「おはようございます」ジムの扉を開き、挨拶する明に夏川茂次は
「体重計にのれ」と言い、明に体重計を渡す。
それを床に置き、ヘルメットなどをリング横のベンチに置く。
「70キロじゃな。178センチでその体重なら良いじゃろ。」
「はい。」明は体重を確認しながら返事をする。
「お前がここに初めて来た1ヶ月前は105キロだったからな。毎日の走り込みで35キロの減量に成功したわけじゃが、どうじゃ?最近体は軽くなった気はするか?」
「あんまり実感がわかないですね。正直。」
「そうかぁ。意外と人間は自分の事には気付かないもんじゃよ。お前は最初5キロ走っただけで倒れてたんじゃ、今では25キロくらいなら余裕で走れるじゃろ?それが変化じゃよ。」
「はぁ…。」
「今日はお前にジャブを教えてやる。」
「ありがとうございます。」
「御礼はジャブを出来るようになってから言え。」
「はい…。」
「それじゃ、着替えて外行くぞ!」
「は、はい…」明は困惑した表情をしながら着替えるために更衣室に向かった。
茂次に導かれ着いた場所は大きい木が真ん中にある閑散とした滑り台とブランコしかない公園だった。
「良く見てるんじゃぞ。」そう言うと茂次は大きい木を蹴った。
「カサカサ」と木葉が擦れ合う音が聞こえ、数秒後に葉が落ちてくる。その葉を茂次は左手で素早く何枚も掴んだ。
あまりの速さで明の目はそれをとらえる事が出来なかった。
「昔は50枚くらいは余裕で掴めたんじゃが今は30枚がやっとじゃ。まぁ〜お前はまだまだじゃから10枚掴めたら次にいかせてやるわい。とりあえず1週間以内で10枚掴めるようになれ。」
「は、はい…。」自信のない事を隠しきれない明はまた俯く。それを見た茂次は「困ったら『はじめの一歩』を読め!解ったな!!」と言い明の背中を叩いた。
「はい…」
結局その日は葉っぱ10枚なんてとれるわけもなく最高記録の3枚の葉を握りしめて夜中の2時に帰宅した。
家の周りは静けさが漂っていたので明はバイクのエンジンを切り、家の近くからは押して車庫に入れた。
明が帰るとやはり遥は寝ていて、いつものように置き手紙が置いてあった。
「今日も頑張って何かにあけくれてるみたいね。そんな事、若い時にしか出来ないから存分にやりなさい。ご飯、冷蔵庫にあるからチンして食べなさい。母さんは英雄が眠そうなので一緒に寝ます。」明は読み終わると冷蔵庫から麻婆豆腐を取りだしレンジに入れた。
レンジが麻婆豆腐を加熱している間にさっきの手紙を大切に自分の部屋の机の引き出しにしまった。
ちょうど電子レンジが「ピー」っと加熱終了を告げる。
明は欠伸をしながら居間に向かった。
遥の作った麻婆豆腐はやはり美味かった。
明はご飯を食べ終わるとシャワーを浴びてすぐに泥のように眠った。
次の日の日曜日もジムが平日と変わらず19時からなので明は古本屋に向かう事にした。
フルフェイスの真っ黒のヘルメットをかぶり、バイクに跨がる。
自転車で30分の道程をバイトは10分もかからないで走ってくれる。
明は店に入るなり店員に
「『はじめの一歩』ありますか?」と聞いた。
無愛想な眼鏡の身長が190センチくらいある店員は並べていた本を乱雑に床に置き歩きはじめた。
何だ?この店員は?
その大きい野比のび太みたいな店員に連れて来られたのはスクエアエニックスの漫画が置かれてる場所だった。
「この漫画面白いよ」のび太店員が差し出したのは『鋼の錬金術師』だった。
「確かに面白いけどさぁ…。俺の探してるのは『はじめの一歩』なんだけど」明は呆れ顔で渡された『鋼の錬金術師』を元の場所にしまう。
「『はじめの一歩』?そんな事言ってました?」
「あんた何、聞いてんの?」
「そんな事言わなくて良いじゃん。あんたら客は店員を何だと思ってるんだ?」そう言って泣き出したのび太に明は「ご、ごめん」と謝る。
「嘘だよ」顔を上げたのび太は確かに涙なんて微塵も浮かべてなかった。
「まぁ〜これにこりたら店員をいじめないように」
「解ったから早く『はじめの一歩』あるところまで案内してよ」
「はいはい」
のび太店員のせいで結局『はじめの一歩』にたどりつくまでに2時間もかかった。
結局『はじめの一歩』は人気があるためようやく1巻だけを買い古本屋をあとにした。
バイクに跨がり、ヘルメットを被る明に外までおくりにきたのび太店員は「また来てね」と笑っていた。
明は無言で手を振り、心の中で
「二度と来るか」と言った。
家で『はじめの一歩』を読んでから夏川ジムに向かう事にした。
ジムでは既に茂次が自転車に乗って待っていた。
「こんにちは。今日もあいつ来てるんですか?」
「あぁ。あずましくないから外でお前が来るのを待ってたんじゃよ。」
「はぁ…。」明は着替えて茂次と一緒に10キロの道程を走り、大きな木のある公園で休憩をする事になった。
「どうじゃ?10枚とれる自信があるか?」
「いや…。微妙です。」
「漫画は読んだのか?」
「はぁ…。読みましたが。」
「なら昨日よりはましじゃろ。それ飲み終わったら早速やってみろ」
「はい。」明は急いで持っていたスポーツ飲料を飲み干し、そのペットボトルを10メートルくらい先のごみ箱に投げた。
「パコーン」という間抜けな音を鳴らしながら吸い込まれるようにペットボトルはごみ箱に入った。
ベンチから立ち上がる明に茂次は「大丈夫だ」と呟いた。
茂次が後ろで見守る中で明は大きい木を蹴った。
木の悲鳴のように葉が擦れ合う音を出す。
明は『はじめの一歩』の主人公のように力まず軽く構えて、落ちてきた葉を左手で取る。
1、2、3。数を数えながら左手を必死に前に突き出す。
4。昨日より取れた。
5、6、7、8、9、10。10枚目を取ろうとした時1枚、葉が手から零れる。
また頭の中で10を数える。
今度は上手く10枚目を取ることが出来た。
明は左手を出したまま、まだ葉が落ちきらない木を見上げた。
さっきより木が小さく見えた。
ジムに戻るといつものように騒がしい声が聞こえる。
「ウチャー、アチャー、左ストレート、右ジャブ」明は一瞬呆れてそれを見ていた。
「どうじゃ?スパーリングでもしてみるか?」リングの横で腕組みをしながら小林龍地の動きから目線を明にむけた茂次が明に問う。
「スパーリングですかぁ?」明は突然の事に困惑した表情を浮かべるが決断したのか顔を上げて「やります」と茂次の目をしっかり見ながら答えた。
「では二人ともヘッドギアと16オンスのグローブをつけろ。10分後スパーリング開始じゃ」
初めて上がるリングは牢獄のようで、試合が終わるまで出られないと思うと逃げ出したくなる。
明は緊張か恐怖か解らないが体が微かに震えるのを感じた。
「3ラウンドだけだから最初からとばしていけよ。ではファイッ!!」
明は左手を軽く伸ばし、小林に挨拶を求める。
小林もそれにあわせて軽く左拳を明の拳に軽くつける。
それを合図にお互い左手を戻し、回りはじめる。
明はスパーリングの前に言われた茂次の言葉を思い出す。
「両方の拳を鼻の所で固定し、脇をしめろ。ボディーを打たれても絶対にガードを下げるな。取りあえずこのラウンドは様子見じゃ。次のラウンドまでもったら倒し方を教えてやる。解ったな」
明は一瞬茂次の方を向き、また小林の方に目をやる。そしてしっかり脇をしめ、ガードを固める。
小林は明のがら空きのボディーを右ジャブで打つ。
1回、2回、3回。
鈍い音を出しながら小林のジャブは確実に明の体を蝕む。
何度もガードが下がりそうになるのを堪えながら明は前に出る。
それに威圧されたのか小林はズルズル下がった。
ようやく小林をコーナーに追い込む。
「五十嵐、ジャブを出せ。」茂次の声が後ろから聞こえる。それと同時に左手を小林の顔に放つ。
一瞬の出来事で明には何が起こったか理解出来なかった。
一瞬真っ暗になったかと思ったらリングサイドから茂次の声が聞こえる。自分が倒れてる場所とは反対側に小林が立っている。
「ファイブ、シックス、セブン」困惑のなかカウントが続けられる。
足が動かない。
手も動かない。
立ちたいのに立てなかった。
明の願いとは裏腹に無情にも最後のテンカウントが茂次の口から放たれた。
その瞬間明はまた闇の中に吸い込まれた。
「カウンターじゃ」ようやく目を覚ました明に茂次はそういう。
「カ、カウンターですかぁ…。」困惑した表情の明に茂次が言う。
「カウンターとはな、相手のパンチにあわせてパンチを出す技でな、自分の力があまりなくても相手の力を利用する分ケーオーに出来るのじゃよ。」
「はぁ…。」リングサイドのベンチから起き上がり、明は軽く頭を振る。
「勝てるとは思ってなかったけどやっぱり倒されると悔しいですね。」
茂次も明の隣に座り「まぁ〜男ならみな倒されると悔しいもんじゃ。お前にもやっぱりそういう感情があって良かったわい。そういう負けん気という部分がお前には足りないと思うとたからな。」
「はぁ…。」
「今日はもう帰れ。明日、じっくりジャブの練習するぞ」
「は、はい。」明はそう言い、立ち上がり、更衣室に向かった。
明の背中越しに小林龍地の声がジムに響き渡っていた。
明は右頬を右手で確認し、その痛みでまた悔しさが込み上げていた。