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セイレーン

嵐の夜に必死に歩を進める夫婦、彼等の願いは娘の命。

 その屋敷は、断崖絶壁の上にひっそりと建っていた。一番近い村から歩いて半日という、辺鄙な場所にひっそりと暮らしているのはとある尊い方とその従者。


 その夜は嵐だった。

 昼過ぎまでは雨も降っていなかったのにいつのまにか風が出たかと思うと、黒い雲が空に流れ始め。雨が降り出すにはさして時間も掛からなかった。日が傾く頃には風も強まり、いっそう荒れてゆく。こんな夜は、夜行性の獣達も出歩かず獲物を求める魔物達も滅多に姿を見せることはない。

 けれど、その嵐の中で。必死に歩を進める、旅人の姿があった。

「あなた、これ以上は……!」

「頑張るんだ! ここで、足を止めてはあの子が……!」

 夫婦らしい二人は、くじけそうな女性を男の方が励ましてどうにか前に進んでいる。その足下さえふらつくほどの風に度々足を取られそうになりながら、それでも少しずつ目的地へ近づいていると、そう信じて歩くしかない。空には雲が流れているのだろうが、暗くてそれは見えない。雨具を着てはいるが二人とも全身濡れ鼠だ。もう、教えられた道のりを正しく歩んでいる自信も無い、けれどただひたすら歩き続けるしかなかった。

 頼りなく揺らぐ灯りでは辺りは殆ど見えない。足探りで辛うじて道から外れないのが精一杯だ。それでも道標として教えられた道端の岩を認め、その角を曲がる。途端、今まで以上の風が叩きつけてきて男の足取りもふらついた。妻がその腕にしがみついて悲鳴を上げる。

「ぐ、ううっ……!」

「あ、あなたっ!」

 その、刹那。不意に痛いほど叩きつけてきた雨粒が途絶えた。踏み止まってそれに気づいた夫婦が顔をあげるとそこに、人影が立っていた。

「……いかがされましたか」

 まるで当たり前のように声を掛ける。


「……ずいぶん濡れて。温かいものをお持ちしましょう」

 その影が出てきてからは幻だったかのように雨は止み、風こそ収まらないもののずっと楽に進めるようになった。そうして誘われたのは、断崖の上に佇む古い屋敷。

 この辺りを治める領主の別荘として建てられたその屋敷は、古くこぢんまりしているものの手入れされた居心地のいい場所だった。赤々と火を焚いた暖炉の前に二人を招き寄せたのは小柄な女性。明らかにここまで彼等を導いた人物ではない。

「……ありがとうございます……」

 凍える唇を動かしてどうにかそう告げる夫に妻も震えながら寄り添う。手も足も冷え切ってなかなか上手く動かせなかったが、暖まるにつれどうにか血が通い始めたようだった。そこへ、湯気の立つカップが差し出される。

「あ、どうも……」

 受け取ってからはっとする。それはフードのついたマントを羽織った、長身の青年だった。これがおそらくは彼等をここまで連れてきた人物だろう。

 渡されたカップの中身は熱いスープだった。吹き冷ましながら啜ると体の内側に熱が灯ってじんわりと凍り付きそうだった全身が暖まっていく。

 その様子を見ながら女性の方が口を開いた。

「こんな嵐の中、一体どんなご用でこんなところまでおいでなのでしょうか」

 堅い口調に夫婦は顔を見合わせた。どちらの瞳にもいったんは忘れかけていた恐怖がにじむ。

「……お願いがあってお伺いいたしました」

 おそるおそる夫は口を開いた。

 身に付けているものや物腰からして女性は明らかにそれなりの身分だ。年はまだ若く、二十代半ばの妻よりも上と言うことはないだろう。ごく小柄で長い髪を結わずに背に下ろしているが、その髪は艶やかで肌もきめ細かく、手入れが十分に行き届いていることが判る。

「お願い?」

 女性は不審そうに呟いたが、それより妻の行動が早かった。

「お願いです、この子を助けてください……!」

 差し出した腕の中には、嵐の中でもしっかりと抱きしめて守っていたおくるみに包まれた赤子の姿がある。ふわふわと柔らかい茶色の髪、けれど本来ふっくらと血色良く膨らんでいるはずの頬はどす黒い奇妙な文様めいた痣に覆われていた。小さく口を動かし瞬きする、けれどそれ以上動かない、動けないのは体力が損なわれているから。

 それを見て取ったのだろう、女性は細い眉を顰めた。そっと伸ばした指をその頬に触れさせる。

「……『呪い』……?」

「そ、そのとおりでございます……」

 力なく応じて夫は妻を抱き寄せ、項垂れた。

 彼等はここから離れた街に住む夫婦者だ。貴族ではないがそこそこ成功した商売人同士の婚姻である。結婚して三年目に生まれた一粒種の娘に、この奇妙な痣が出来たのは十日ほど前。娘が生後三ヶ月になった頃だ。見た目だけでなく乳も飲めないほど弱った赤ん坊に二人はあちこちの医者を訪ねたり知恵者と言われる人を頼ったりしたが誰も直しようがない。ただ老いた薬師がこれは何かの呪いであろうと言い出した。子どもと言うよりその親か、或いは先祖に掛けた呪いが現れたのではないかと。恐れおののいて二人は何とかそれを解ける者はいないかと探し回った挙げ句、ここの領主に辿り着いた。この辺りを治める領主はこの手のまじないごとや魔法にも詳しい、一縷の望みを掛けて訪ねてきた彼等に、この館へ行くよう指示を出した。そこに住む領主の身内が、何か助けになれるかもしれないと。早く手を打たねば手遅れになるやもしれぬとも脅かされて、二人は嵐をついてここまで辿り着いたのだ。

 話を聞いた女性は難しい顔で黙り込んだ。彼女の前に湯気を立てる飲み物を置いたマントの男が同じものを夫婦の前にもそっと置く。戸惑うようにそれを見上げた二人と視線さえ合わせず彼は女性の一歩後ろに控えた。その存在に不審を覚えるより早く、女性が口を開いた。

「確かに……これは呪いの一種でしょうね。こんな小さな子は抵抗力もない、下手をすれば命に関わる」

 薄々感じていたことを告げられてさっと青ざめるが、それでも夫婦は一心に彼女を見つめた。それに彼女は淡々と言葉を継ぐ。

「とは言え、今この場でどうにかせねば命を落とすと言うほど重篤なものではない。とりあえず今夜は休みなさい、部屋は空いているから。食事は取った?」

「い、いえ……」

「では何か、用意しましょう。……大丈夫、子どもを守るためには親がしっかりしていなくては。きちんと食べて少し眠りなさい。湯も用意させましょう。話はそれから」

 見た目だけなら少女のような女性だが、言葉には不思議な重みがある。聞く者を捕らえ、その意を素直に受け入れさせる説得力。


 通された客室はひんやりと静まっていたが、食事を取り湯を使って再度通されるとすっかり暖められていた。赤子の襁褓はさすがにないが使ってくれと出された晒し布で娘の世話もしてやる。

 気のせいかもしれないが、ここに着いてからは娘も少し楽そうに見える。乳を含ませると吸う力もここのところの弱まっていたものより良くなっている気がした。

「……少しは、落ち着いている気がしますわ」

「それならば何よりだ……だがまあ、詳しいことは明日また、相談しよう」

「ええ……いい子ね、もう少し我慢してね」

 そっと柔らかな頬を撫でて囁く母親に赤子は小さく声をあげる。

 広い、立派な寝台に親子三人で並んで横たわる。窓の外にはまだ風の音が響いているが、それでもかなり静まってきているようだった。

 眠りの淵で、その夫婦は……おそらくは赤ん坊も、微かな歌声を聞いた。それは甘く澄んだ美しい歌。言葉の意味も判らないくらい遠く微かな、けれどどこかひどく懐かしく切ないそんな歌だった。

 そのせいかこのところの浅い眠りも常になく安らかな深いもので、夜中に起きて乳を飲ませるのもひどく落ち着いた心持ちだった。素直に含ませた乳を飲むのも力強く思われ、眠りをいっそう健やかなものにする。

 そして朝の光が窓から差す頃。

「あ、あなた……見て、この子……!」

「これは……何と」

 明るい光の下で見れば、柔らかな皮膚に禍々しく焼き付いていた痣は消えていた。赤んぼうはきわめて機嫌良く、声をあげながら短い手を母に伸べている、そのふっくらした手のどこにも呪いの痣はない。


「お目覚めですか。よくお休みになられましたか」

 慌てて部屋を出ると居間には昨夜の女性が座っていた。落ち着いた様子で、彼等の腕に抱かれている赤子に目を向ける。

「ああ、綺麗になりましたね。もう大丈夫です」

「あの、これは……一体、どういうことが……」

「どう、と言われると困るのですが」

 小首を傾げ、それから彼女は夫婦に向かいのソファを勧めた。大人しくそこへ腰を下ろす二人に穏やかにほほえみかける。

「歌が効いたのでしょう。本来この子に向ける呪いではなかったのかもしれません、定着する力が弱いうちで良かった」

 よく事情が飲み込めないなりに、彼等が理解したのは娘の身に降りかかった災難がどうやら除かれたらしいこと、そしてそれは明け方の歌声のおかげらしいことくらいだった。


 幼子を抱きかかえて自分達の家へ戻る夫婦は、歌声で呪いを解くその希有な力について誰彼なく語らずにいられないだろう。せめて何らかの報酬を払うと言う彼等にそれは領主と相談するように勧めたがそれについてはあまり心配していない。

「問題は話に尾鰭がつくことだわね」

「何を今更」

 嘆息する女性に茶器を片付けながら青年が言う。それを横目で睨んで彼女は険悪な声を出した。

「今更も何も、後で困るのは自分でしょう?」

「まあそれはね。……小さい子どもが苦しんでるのは可哀相だろ」

 あっさり流され鼻を鳴らしてソファに沈む。この、二人でいる時だけ減らず口をたたく男が普段は無口で、訪問者にも殆ど口を開かないのは何だか理不尽に思える。更に言えば、彼が奇蹟の歌声を持つことも。

「いいじゃないか、叔父上だって判ってて客を寄越してるんだろ」

「それはそうだけども……ああもう、父様も丸投げなんだから」

 彼女は領主の娘だ。もっともその存在を知る人は少ない。ましてや、生まれながらにして至高の歌声を持つと囁かれる歌う魔物(セイレーン)がここにいることなど、殆ど誰も知らない。領主館で暮らしている彼女の両親と弟、そして消息の知れない彼自身の父親だけだろう。母親であるセイレーンは既にこの世の者ではない。


ふと思い立って書いたのでプロローグっぽい話になった。余裕が出来ればまた書くかもしれませんが。

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