第一話 明と過去
いつも聞いていた苛立たしげなインターホンの音は、今日は鳴らなかった。変わりに少し驚いた表情の薫が見られた。早起きも案外悪くないものだな、と今更気づく。もう少し早くに気づいていれば、と少しの後悔。でも毎朝早起きしたら、いつかはそれが普通になる。そうしたら薫は驚かないだろうから、やっぱり早起きしなくて良かったかもしれない、なんてことを考える。
おはよう、の挨拶のない会話。節目など必要がない、言葉のキャッチボール。それが今はたまらなく淋しい。いつもの他愛ない、という形容の相応しいお喋り。今日はただ言葉が虚空に放たれていくばかり。
「また明日がありそうだよな」
いつもの調子で言葉を紡ぐ友人は、やはりいつもの調子ではないのだろう。自分がいつもの調子でないから、客観的な意見かどうかはわからない。
隣にいる友人の顔を見る。特に幼馴染だとか親の仲がいいとかいうわけでもなく、家が近いわけでもない。ただ俺の家は薫の家と学校を繋ぐ通過地点だった、というだけ。薫にしてみればここまで来た、ということはやっと半分。俺の家と学校は徒歩で往復三十分弱だから、薫はその時間で片道やっとなのだろう。なんだか妙な付き合いだったな、とやはり今更ながら思う。
何故こんなにも感慨深いのか。分かりきったことを自問しながら、薫に気づかれないよう横目で見慣れた景色を見た。
「あとは帰りだけだな」
「微妙に雨、降りそうじゃないか?」
友人の言葉に顔を上げる。ブルーグレーの空。中途半端な色だ、と独り思う。思ったところで、何も変わらないのは承知している。
思えば、いつだって何も変わらなかった。小学校の運動会も、中学校の修学旅行も。神様はいない。そう思った方がいい。でなきゃ、神様を恨んでしまうから。でも神様からしてみれば、初詣に行って5円か50円か、多くても小銭の域を出ない賽銭を投げて言いたいだけ願い事をする人がよく言う、とかそう思っているのかもしれない。そう考えると俺らは呆れるほどに図々しい。そんな浅はかな人間共の願いなど一々叶えてやるか、そう反論されたらすぐに言葉は出ないだろう。基本的に、この国は神無月なのだ。
中途半端な色をもう一度見て、俺は心の中で溜め息を吐いた。
「こんな日にまでね。俺ら、本当に天気に恵まれなかったよなあ」
「過去形ねえ」
意味深に言って、薫は皮肉っぽい笑顔を作る。だが、その瞳は晴れ晴れとしていた。
どうやら薫は明日が気になって仕方ないらしい。変わったな、と思う。昔は、といっても三年足らずの付き合いだけど、薫は良くも悪くも現実的だった。
* * *
今でも鮮明に覚えているのは、クラスも部活も班も同じだったにも拘らず殆ど関わりのなかった時のことだ。体育の授業のバレーボールで、二人ペアを作ってトスの練習、とかいう時に、ペアを組むことになった。よくある、俗に言う「余り者同士」だ。
俺は本当に仲がいい絶対的な一人、というのに出会ったことはないからこの結末は見えていたけど、薫がそうなのは意外だった。あいつは俺よりも更に更に地味なやつだけど、地味に顔は広いイメージがあったし、他クラスにもよく行っていた。だからてっきりそういう一人がいるのかと思っていたが、違ったらしい。それともあの時は薫にとってのそれ…親友とでも呼ぶのだろうか、がたまたま休んでいたのか。今となっては知る由もないが、トス錬のペアになった事実だけは過去として残っている。
さあ、トスの練習になった。薫は特に体が鍛えられているとかいう訳じゃなかったから、上手くはないだろうな、とかいう予想を見事にひっくり返した。むしろ下手なのは俺の方だった。それはそれで事実として受け止めるとして、俺はそれが言いたい訳じゃない。薫が何をしたかって、体育館の壁飾りをぶっ壊した。
ボールが謎のオブジェのど真ん中に当たり、ゆっくりと落下し…。中々硬度のあるあれを壊したということは、かなり打ちどころが良かったというか悪かったというか。ボーリングだったらストライク確実だっただろう。俺の球が悪かったのも一因だから、俺にも非はあるとしても、まあ結構なことをした。
よくわからない物には計り知れないほどの価値と意味がある。よくあることだ。
破壊してから知ったことだが、謎のオブジェは何十年前の卒業記念制作だった。どうりで色褪せている訳だ。薫は…じゃなくて、俺もそうだな。俺らは、それを入学二ヶ月足らずの分際で粉々にした。
結局、俺らはさほど怒られなかった。元々何十年前の作品だったから脆くなっていたのも事実で、来年再来年には撤去して倉庫行にしようという話になっていたらしい。早めてくれてよかったよ、と数学の河野には笑いながら言われた。そういやあいつはバレー部の顧問だったから、本心もあったのかもしれない。教師がそう言うのはいささか問題なような気もするが。
年代ものだったから仕方なかった、怪我人がいないだけ幸いだった、等とは何百回と聞いたが、本題は、その何百回目かの時に薫が言った言葉だ。そんなに深く考える必要もない言葉なのだろうが、俺にとっては違った。特に理由はないが、強いて言うなれば”なんとなく”だ。
「今更なんだよな、全部」
入学早々、目をつけられたとまでは言わないものの、注目を浴びたことにうんざりして出た言葉か。はたまた図った訳でもないのに同じことを言う大人に対する皮肉か。薫にとってもそう深い意味ではなかったのかもしれないが、本音だったのは間違いない。
―――今更。その言葉が俺にはひどく虚しく思えた。
一応言っておくが、薫は至って普通に真面目だし、自分の非を認められる人間だ。少なくとも、言い訳はしない。少し皮肉屋な面もあるが陰口なんかは一切言わない。統合すると性格は温厚だ。
だが、あのポロリと漏らした本音の中に、今のみ肯定しているような、そんな冷たい印象が見受けられた、ような気がした。
改めて考えてみると、俺と薫が仲良くなったきっかけはこれの気がする。きっかけはきっかけに過ぎず、これでなくてもまた違うきっかけで仲良くなっていたのかもしれないが、きっかけはこれだろう。