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「そんな感じでさ、さくっとあたしの心を盗んだ窃盗犯!」
次の日、ラウンジで、民法演習の発表の話し合いの合間に、そんなことを告げる。
向かいで同じ班のメンバーがあきれたような顔をした。
「心は財物性ないから、窃盗罪成立しないでしょ」
「キョウの心に有価値性なさそうだしねー」
「そもそも、有体物じゃないし」
「うわー、なんかうざい! 寒いって言われた方がまだマシだった!」
かるーい冗談に真面目に刑法論持ちだされると凹む。
っていうか、そんなに刑法の話持ち出すなら、あんたら答案に書けよ? 論文式の答案で「甲は乙と恋愛関係にあったが、かくかくしかじかな事情から乙を刺し殺した。甲の罪責を答えよ」みたいな事例で、「この点、甲は乙の心を奪っているため、窃盗罪が成立するように思われる。しかし、心は財物ではないため、窃盗罪の客体とはならない」って書けよ? 絶対書けよ!
「そもそもさ、」
真面目、という言葉がぴったりの池田正秀君がさらに続けようとする。既修の二十六歳。真面目、といえば聞こえがいいけれども、正直ただ単に堅物なだけだとあたしは思っている。あと、ちょっと変。
「いいから、発表の話し合いしようよ!」
これ以上、わけのわからないことになりたくないので、自分で話をふって置きながら軌道修正を試みる。
話を邪魔されて池田君が不機嫌そうな顔をする。
「そうねー、正直キョウの恋愛とかどうでもいいし」
言うのは、三人一組の最後の一人。三日月郁子。この人も既修の二十六歳。長い髪の毛を無造作に後ろで束ねている。男まさりの人。スッピンだけど美人って分かる顔立ちで、だからこそスッピンなのがもったいないと常々思っている。
そうして皆でもう一度判例を読み直す。
池田君と郁さんの話を聞く。この二人の議論にはとてもじゃないがあたしは参加出来ない。
二人の話を聞き、わかっているような顔をしながら、ぱらぱらと六法をめくる。めくりすぎて民法のはずなのに一般社団法人及び一般財団法人に関する法律、とかいうのになってしまって慌てて戻る。
世の中、色々誤解があると思う。
よく「あの分厚い六法全書全部覚えるんでしょー」とか言われるが、全部覚えるならそもそも六法全書の存在必要ないんじゃなかろうか。
法学部で勉強するのは、条文の使い方だ。必要なときに必要な条文を使えるように、正しい条文を使えるように勉強する。中学生の英語の授業で、英和辞典のひきかたを教わるようなものかしら。
基本六法と呼ばれる、憲法、民法、刑法、商法、民事訴訟法、刑事訴訟法だけではあんなに分厚いものにはならない。さっきの一般社団法人なんちゃらとか、割とメジャーなところでは道路交通法とか、そういう小さい法律もあの中には入っている。
そして、法学部生は勿論、法科大学院生もそれら全部の法律に精通していない。恐らく、実務家である弁護士達も。
そもそも、新司法試験の試験科目は先ほどの基本六法に+行政法。それから、各々が選ぶ選択科目。
選択科目は知的財産法とか倒産法とかあるけど、あたしは労働法にした。理由は、学部時代の先生がかっこ良かったからっ! イギリス紳士を彷彿とさせる教授だった。イギリス紳士が何かはよくわかんないし、先生日本人だったけど。
選択科目は論文のみだけど、他の科目は択一と論文試験がある。面倒だなー。
当初、合格率八割! とか歌われていたこの制度も、実際のところ合格率三割程度。それでも、旧制度よりは高いんだけど。
ただ、急な合格者の増加で、弁護士はただいま就職難。受かっても、就職する法律事務所が見つからず、すぐに独り立ちすることになる即独や、雇用という形ではなく席だけ置かせてもらう軒弁などが増えている。
おまけに、合格後の研修制度ともいえる司法修習。身分は準公務員で、以前は給与制だったのに、今は貸与だ。奨学金もあるのに、修習時の生活費も貸与になって、借金が多くて、これ以上借りられないからと合格したけど修習に行かない人もいるらしい。
弁護士が儲かるとか、いつの時代の幻想なのでしょうか……。
「杏子、聞いてる?」
郁さんの言葉に、
「聞いてます!」
慌てて返事を返す。
「じゃあ、どう思う?」
……さあ? 聞いていなかったから答えられないんじゃない。多分、聞いていても答えられなかった。
あたしは、なんとなーく指定校推薦で法学部に進学して、親に「合格率あがるならローいけば?」とか言われてその気になって、もう少し学生でいられるならいっかーとローにきてしまったくちなので、将来についてはあまり考えていない。
合格率はこれからまたさがるだろうから、あたしが受ける頃にはどれぐらいなのか。それで就職も厳しいとなると、まさにお手上げだ。
あーあ、素直に就活しておけばよかった。と、高校や大学のころの友達が働いているのを見ると思う。そしたら、学生はいいなーっていわれなくてすむだろうし。
微妙に重い空気を抱えたまま、民法の話し合い終了。
みんなすごいよなー、としみじみ思う。サクちゃんだって、高校生のころからずっと検事になりたかったって言っているし、郁さんはそもそも社会人でSEやっていたのに法曹を目指して独学で既修に入ってくるんだもんなー。あたしは、法科大学院制度なかったら、法曹を目指そうとも思わなかったのに。
あたしの将来の夢は小さいころから、お嫁さん、なのだ。
それすらも遠い。
子供の頃はお嫁さん、なんて普通に生きていればなれるものだと思っていた。
小学生のころ思い描いていた二十二歳のあたしはもっと大人で。銀座とか丸ノ内とかのオフィスでOLやっていて。デートの約束があるのにはげ面の上司に残業命じられて、泣く泣く約束キャンセルしたら、カレシに怒られたりして。実家じゃなくて、一人暮らしで。そういう、少し古いドラマみたいなものを思い描いていたのに。
二十二歳なんてちっとも大人じゃなかった。
旦那どころか、カレシも出来ないし。
いつもよりも重い、腕の中の、蛙色の判例六法。
荷物を腕に抱えたまま、学生証を出してドアをあけようとすると、
「おつかれ」
中からヒロ君があけてくれた。
「あ、ありがとう」
「いいえ」
彼は笑うと、自分が出て行くわけでもなく立ち去る。わざわざあけてくれたなんて、優しい!
まあ、みんな開け合って持ちつ持たれつな気もするけれども、やっぱりヒロ君は優しい。
確かに就職しておけばよかったって思うけれども、そしたらヒロ君にも合えなかった訳で。
やっぱり、ロー来てよかった!
少しだけ足取りを軽くして、自分の机へともどった。




