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ガイダンス  作者: Say
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ガイダンス 本編

「宜しいですか?近頃南の公園で…」

 夏は終わり、今は秋も暮れようという季節。

 暦の上では遠く過ぎ去ったはずの焼け付く日差しも、未だ日中には勢いを取り戻し、人に汗をかかせる事もある。しかし大抵の者達が感じているであろうそれは、朝夕の冷たい空気であり、また冬の訪れであった。

 今日もそんな冬の始まりを告げる日。本格的な寒さとはいかないまでも、服の上から冷気が染みこんでくるかのように。そんな日だった。

 時に適度な寒さと言うものは気を張る助けとなり、学業を本分とする生徒達には、それこそ嫌われはするものの、良い結果を生む事もある。朝方には身を震わせつつも、懸命に走る生徒の姿も見られたし、それは校舎内でも同じ効果を得た。

 しかしながら、そんな勤勉さもそう長くは続かないものだ。昼を過ぎてから状況は一転した。

 締め切った教室の中では、差し込む西日が陽気を生み、気だるげな雰囲気を醸し出す。

 朝からの緊張に疲れきった彼等は、これ見よがしに机へとうつ伏せ、教師もその雰囲気に呑まれてダラダラと同じ事を繰返す始末。非生産的この上ない光景であった。

 だがしかし、唯一つの救いは、それがもう終わりを迎えつつあるという事だろうか。

 終業のベルまで後数分。

 校舎のとある一教室。授業それ自体は既に終わっていた。丁度このクラスの担任が今日の最後の授業を受け持っていたため、授業の終了に続けて、今は定例の連絡事項を述べている。所謂ホームルームといった所。


"from miki to eriko

 だから勇気出して言っちゃいなよ。私が見た所、まだ誰もツバはつけてないみたいだからさ。"


「ぅ…。唾って何よ、唾って…。」

 若干の振動音と共にやってきたのは携帯のメール。少々慌て気味に手の中の端末を操り、開封したメッセージを見て溜息をついた。

 先程から同じようなやり取りが続いている。もう10数回になろうか。言葉を変えようとも、言っている事は一つしかない。端末の先の二人に向かい、どうしよう、どうしよう、と相談していたのであった。

 彼女にとっては、事が深刻なだけに授業の内容も全く耳に入らない。更には加速する苦悩が湧き出て行動にすら訴える。

 頭を抱える。忙しなく手遊びをする。きょろきょろと落ち着き無く余所見をする。昼を過ぎてから彼女はずっとそんな調子である。気の抜けた静かな教室内でもさぞ目立ったことだろう。普段大人しいはずの彼女の印象も相まって、首を傾げている同級生も多い。

「はあ…。」

 彼女、erikoこと守氏衿子を此処まで困らせている事というのは、他人にとっては、それほど重要な事でもない。むしろ冷かす方が多い位だ。それ故に要らぬ御節介を焼き、実は本人の余裕を根こそぎ削り取っている事など知る由もない。

 即ち、その原因を作ったのは衿子の親友にあたる枝葉舞、枝葉美樹の二人だった。

 それは今日の昼休み、守氏衿子が舞・美樹の双子姉妹と一緒に昼食を取っていた時に遡る。

 三人で昼食を摂っている事自体は珍しくはない。親友同士ともいえる彼女達とは、クラスが違っても行動を共にする事はままあった。

 注目すべきはその時の話題。

「なあエリ。好きな人居るか?」

 言ったのは舞。校舎から少し離れた中庭、そこに備え付けられた椅子での井戸端会議である。周囲の耳も無いこの場所では、昼食中ということもあって不自然なほどに話が進んだ。そして衿子が口を滑らせたのだった。

「…た、高山君、かな…。」

 耳まで朱色に染めながらも、細々と口に出された名に、枝葉姉妹は顔を見合わせた。

 高山、高山俊一は衿子のクラスメイトである。特筆すべきは中学に入学して以来、3年間ずっと衿子とクラスが同じである事だろうか。縁だけを見るなら相当のものだ。

 彼女の言葉に嘘は無かった。急かされて、興味津々の枝葉姉妹に無理矢理聞き出されたとはいえ、彼女は嘘をつく人間ではない。その気持ちは間違う事無く本物。初めて顔を合わせた時から気になる…所謂一目惚れの類だったのである。

 しかし、今彼女は件の高山氏と付き合っているわけではない。…のにも関わらず、未だに彼の事を好いている。つまり単純に計算すると、3年間高山俊一を恋慕している、という事になる。

 曰く、何度か手紙を渡そうとした。

 曰く、何度も気を引こうとした。

 曰く、数え切れないほど話し掛けようとした。

 その言葉に、枝葉姉妹は溜息を吐いた。


「今日はこれで終わります。帰りは気をつけるように。警察でも見回りはするという話でしたが、くれぐれも近づかないようにして下さい。立入禁止にはなっていると思いますが…。」

 丁度チャイムが鳴り、目元に隈をぶら下げた担任は、そのままいそいそと出て行った。漸く訪れた放課後の時間に、生徒達は生き返ったように騒ぎはじめ、それは間も無く校舎全体をも包み込んだ。

 普段はそういったものとは無関係を装う玲子も、今日ばかりは枝葉姉妹が許さない。

「で、どうするの。直接渡したいんでしょう?」

 場所は廊下の片隅。教室を出た直ぐ傍である。戸惑う玲子を押さえつけ、二人は詰め寄っていた。

 枝葉舞と美樹は玲子とはクラスが違う。しかし授業が終わるや否や、すっ飛ぶように走ってきたのだ。そして、メールの返事を打っていた衿子を拉致するように無理矢理連れ出して今に至る。

「早く渡しちゃいな。高山、部活入ってるんだろ?急がないと行っちゃうぞ?」

「うん…それは…分かってるんだけど。でも、でも。」

「早く行きなさいよ。高山君が好きなんでしょう?」

「―――!!」

 好き、という美樹の言葉に衿子が反応した。

 ボンと爆発せんばかりの勢いで、真っ赤に頬を染めていく。

「すすすすすすす――!!す、す…好き…。そ、そう。そうだけど、だけどだけど!!う…むむっ。」

 はあ、と呆れる枝葉の姉妹。頭に手を当て、同じ顔が同じように揺れ動いた。

 彼女達を猫とするならば、玲子は子犬である。大人しい上に愚かなほどに無垢で清純。従順という訳ではないのが救いだが、しかし二人に言わせれば衿子はネンネ。こういった事にはとんと免疫が無いとの事。

 とはいえ、彼女のために今まで何かと世話を焼いてきた二人も、こういったパターンは初めてだった。恐らく想い人などは居ないだろうと踏んで、昼間衿子を突付いたのだが、その予想外の答えにまず驚いた。次いで衿子に、どうしたら良いのかと相談された時、二人とも顔を見合わせて冷や汗を流したのである。

 衿子の事をネンネとからかっている割に、実は二人にも色事の経験は無い。互いが互いを邪魔するのがその原因だった。兎も角、衿子に弱みを見せたくない枝葉姉妹は、眠る知識と想像の域を総動員して何とか回答を得た。即ち、

「告白しろ(しなさい)」

の一言だった。


 今、当の衿子は二人を前に、もじもじと俯いて手遊びをしている。何時もより更に小さく縮んでいる衿子を舞が叱咤した。

「だー!もう、ほら!早く行く!今なら教室にも人は少ないでしょ!直接言うのがどーしてもダメだって言うから手紙にしたんじゃないか。渡すだけ、渡すだけだろ?ほれ行け!ほれほれほれほれ!」

 もうどうにでもなれ、とばかりに衿子を押し出した。

「あ…。」

 不意に押し出された場所はドアの前。不意の不意は目的の彼が目の前にいた事だった。

「ん?」

 衿子の真意を知ってか知らずか、この少年は何時も通りの眠そうな顔で言う。

「あれ?守氏さん?どうかしたの?」

「え―――っと、た、た、高山君。」

 再び紅く燃え上がる。しかし、必死に言葉を繋ごうとしている所を見ると、彼女もその気はあるらしい。だが、惜しむらくは当の衿子が、絶滅危惧されるほどの純真な女の子である所か。

「えっと…て、て、てがっ!」

「手?手がどうしたって?」

 何事かと、自分の手を見て傾げる彼の様子を見て、衿子のボルテージは益々上がっていく。

「手!違っ―――。ててててて、手で―、て、手紙を!」

「へ?手紙?…メール?」

「そ、そうです。い、い、い…いいかな?な?な?」

 どうしたんだろうとばかりに、呂律の回らない衿子を見つめる。それだけで衿子の体温がさらに2℃上がった。

 何時もとは様子の違う彼女を不思議に思いながらも、彼はいいよ、と快諾した。

「じ―――。」

「じゃあアドレス。口で言うけどいい?」

 途端に携帯を取り出し始めた姿を見て、今度は衿子が驚いた。しかし、ん?と彼が顔を上げると、差し出しかけた両手を雷の速度で引っ込め、無意識にガクガクと顎を揺する。

「は、は、はい。御願いします?!」

「taka-syun@xxxzzz.ne.jpだから。たかしゅん。高山俊一だから、たかしゅんな。言ってなかったっけ。まあ、簡単でいいだろ?守氏さんのアドレスも教えて――ってもう時間無いんだった。

 …ご免守氏さん、もう部活行かなきゃ。夜にでもメールして。返信は直ぐに出せると思うから。んじゃー。」

「―――。」

 高山と言う名のクラスメイトは、挨拶代わりにシュタっと手を上げ、そのまま駆け去っていった。突然の事に声もかけれず、後に残されたのはポカンと立ち尽くす守氏衿子一人。

「えりぃぃぃ!何やってんだよ!」

 ぐわっと怒鳴り込んできたのは、外で様子をうかがっていた舞。

「な、ん、で!メルアドなんて聞いてんだ!そんなもん、誰からだって聞けるだろ?というか、何で今まで知らなかったんだ?!いやいや、問題はそこじゃない。そもそもメールじゃなくて手紙だろ?しかも渡してないし!」

 衿子の手には確かに手紙らしき物があった。

 可愛らしい猫柄の便箋にハートマークの封がしてある。最初はコンビニにでも売っていそうな茶色の封筒に入ってのだが、美樹に言われて急遽取り替えたものであった。中身に至っては、昼休み中、舞に叩かれながら何十回と書き直した力作である。

 即ち、衿子から高山俊一に充てたラブレターであった。

 ちなみに、この手紙の原書は常日頃から衿子が持ち歩いていた、渡せず仕舞いの手紙であった。宛ては勿論高山俊一。日付は三年前から始まって、最近のものでは先月。合計8通になるそうだ。

 何時でも渡せるように、と持ち歩いていた本人は言う。枝葉姉妹が絶句したのも想像に難くない。

「舞。衿子ばっかり攻めるのも酷よ。高山君にも責任はあるわ。なんで気付いてあげられないのかしら。」

 溜息混じりに敷居を跨いだのは、隣の教室に避難していた美樹。

「でもさあ。あれはありえないって。見ててこっちが照れてくる。」

「私としては、ドアに張り付いていた舞の方が恥ずかしかったわ。」

 ふっ、と鼻で笑った声に舞の眉間が際立った。ギロリと睨み、互いに火花を散らし始める。

 そんな何時もの双子の様子に、漸く衿子も我に返る。

「ちょっと。二人とも。喧嘩はやめてよ。私の事はいいから。」

「いいって…エリはあれでいいの?手紙を渡すんじゃなかったの?遠まわしだけど告白するっていったじゃない」

「ん…そ、そのつもりだったけど、まだいいよ。メールのアドレスも聞けたし…その…まだ早いかなって。」

 再びもじもじしだす。

「子供じゃあるまいし…。」

「いいの。こういうのは、もっとゆっくりとやっていくべきだと思うの。その…今まであんまり喋った事も無かったし。…まだ高山君の事殆ど知らないし…。」

 ぶつぶつと独り言のように呟きながら、自分の言葉に頬を赤らめていく衿子を見て舞は言う。

「これってあれかな…。」

 言葉足らずな舞の台詞は、しかし確実に伝わった。苦々しげに、美樹は頷くしかなかった。

「初心に惚気に…。どちらにしろ、このまま放っておいた方がいいのかも。今が一番幸せそうよ。」

「同感。私達…一体何やってたんだろ。」

 ぐったりとなる枝葉姉妹。

 衿子は衿子で、そんな二人の様子などお構い無しに

「…後でメール送らなきゃ。」

…と喜んでいた。

 あーあ、と頭に手を当て、同じ顔が同じように溜息を吐いた。



 何かに心を奪われる時、時間の流れというものは非常に早く感じるものだという。

 枝葉姉妹を唸らせた放課後も既に過ぎ、夕方を越え、今は既に夜の帳も降り始めている。とはいえ、時間にしてそう遅いという訳ではない。今は冬に近づく秋も暮れた季節故に。

 別段クラブ活動に勤しんでいる訳でもない衿子は、あれから直ぐに枝葉姉妹と別れ、家路についた。

「〜♪」

 途中、巡回中の警官に呼び止められる事数回。通りすがりのサラリーマン及び学生、その他に注意される事十数回。寄り道する事数十回。

 徒歩であれば30分余りという距離を、ありえないほどに時間をかけ、自宅に辿り着いた時には、既に空は深い夕暮れ。

「フンフ〜ン♪そろそろメールしてもいいかな。」

 衿子自信はは気付いていないが、生まれてこの方、彼女が鼻歌を歌ったのは、この時が正真正銘初めての事であった。

 上機嫌な理由は、高山俊一の「夜にでもメールして」という台詞。

 普段は殆ど口も聞かないし、聞く機会も無ければ、聞く勇気も無いという衿子だったが、それ故にメールとはいえ、普通の会話ができるという事に類稀なる喜びを感じるのも無理の無い話だった。帰宅までに費やした時間、ずっとこの事を考えていたのである。


 無造作に鞄を放り出し、ベッドに転がって携帯を取り出した。否、取り出そうとした。

 いざ、という意気込みでポケットに突っ込んだ右手は、しかし布切れにしか触れる事は無かった。

「え…。おかしいな。あれ・…?」

 ポケットを引っ繰り返し、鞄の中もぶちまける。しかしお目当ての物は見つからなかった。

「あ…。」

 しばしの間考え、そして思い起こしたのは学校の帰り際。丁度教えてもらったアドレスを携帯に登録した時であった。

 何時もの癖で携帯を机の中に仕舞ったのだ。極度に興奮していた衿子はそれを失念し、そのまま帰宅してしまったのである。

 しかし恋する乙女は強い。それは一途すぎるがためだ。衿子のような希少種であれば、さらに顕著であろう。高山俊一にメールをする。この事だけのために、衿子は寒い夕闇を跨いで家を出た。

 とはいえ、夕暮れを少し過ぎたばかりだ。運動部なら延長届を出し、未だ活動しているような頃合。校舎の鍵も開いているだろう。携帯を取りに戻ったとしても、不都合は何も無い。そんな事を頭の隅で考えながら、衿子は軽い足取りで歩き出した。


 ところで、衿子の済むこの街には大きな公園が存在する。時折話題としても取り上げられるこの公園は、しかし近隣の住人に言わせれば不気味そのものだという。

 まずはその巨大さ。南北に2キロ東西に1キロという莫大な面積。

 そして、自然との融合という名の元に、多くの木々が植えられているのだが、その合間を縫うように細く舗装された歩行路が、まるでヘビがのたくっているように見えるのだ。当然視界も悪い事この上ない。

 また、この公園には桜の木々や銀杏の林、広大な広場などといったものが存在し、見物客、スポーツ、時にはデートスポットで賑わう事もある。

 …しかしそれも昼間の話だ。

 夜ともなれば、その木々が逆に電灯を覆い隠し、一変して異様な景観に変貌する。人々はそれを恐れ、より一層の静けさがこの公園を支配する事になる。

 不自然な点を多く抱え、夜の深みを感じさせるこの場所には、それに誘われ集う夜の人間達が居る。それは近郊の若者であったり、社会への不満溢れる暴走族であったりもするが、この公園がそういった者達の溜まり場になっている事もむしろ当然とも言えた。

 衿子の通う学校もこの公園の夜は重々承知しており、形骸上とはいえ、校則にもこの公園を通学路に使う事を禁じている。しかし、人も馬鹿ではない。そんな事を定められずとも、好き好んで夜を、この公園を歩く者は居なかった。

 衿子もまた同じであった。

 学校はこの公園の北西に位置している。対して衿子の家はちょうど南東。つまり公園を挟んで、対称の位置にあった。彼女の通学路は、一旦北への進路を取り、道なりに北上した後に西へと向かう、いわば公園の外周に張り付くような経路を取っていた。当然ながら公園の中を通った方が圧倒的に早いが、衿子は今まで一度も中を通った事は無い。例え遅刻しそうになった時でも。

 しかし、今衿子は急いでいる。それこそ、人生で幾度も無いほどの焦燥感に駆られているのだ。本人にとって、それは生死を分けるほどの大問題。公園を斜めに横切るという選択肢を採るのも無理ならぬ事であった。


「…。」

 シンとした静けさが世界を覆う。風が吹きけばザワザワと世界が歌った。

 巨大な公園という領域は、それ自体が小さな世界ともなりえた。人の作った灯火の中、四角く切り取られた暗闇が、現代の異世界を形作るもの。

 違いという現実が、より一層の闇を増す理由となる。また、それを好み、暗がりに集まり来る者が居るのもある意味では自然な事。

「やっぱり止めといた方がよかった…。」

 衿子がその事実に気付いたのはつい先程の事。木々の彩る黒と空の黒に、漸くその熱も覚め、何時もの冷静さを取り戻した頃には、既に彼女はこの世界の中に居た。

 見回すと、どこも暗く染まっている。心細い街灯の光を頼りに衿子は歩を進めていた。

 しかし、その弱々しい歩みも遂に止まる。

「ぁ…。」

 境界線だった。心細いとはいえ衿子は光の存在する道に居る。しかし、其処から先。数歩先の空間。彼女の見ているものは真の闇であった。まるで其処から先が何かに切り取られたかのような深淵の黒。

 電灯が切れているだけなのかもしれない。もしかしたら、その奥では何の問題も無く道が続いているのかもしれない。

 しかし、そう考えても衿子の足は動かなかった。感じるのはこの先へ行ってはいけないという直感。戻れ、引き返せと心の奥底で何者かが叫ぶ。

 その時だった。

"It had the dream on the day of yesterday"

「え…何?」

 ほんの微かな、注意していなければ聞き取れないような小さなものであったが、それは間違いなく歌、であった。高らかな女性の、しかし悲しげな声が舞い踊る。

"Now will be seen on the day of tomorrow"

 まるで誘うような歌声に、衿子は後退去る。なぜならば、その歌が、目の前の暗闇の中から聞こえてきたから。まるで冥府に引きずり込むような、怨霊達が手招きしているような、そんなモノが衿子の脳裏を駆け抜けた。

 何か、来る。それが一体何かは分からないが、何かが此方に来る。此処にいてはいけない。

 ―――逃げろ!

 思うより早く、考えるよりも先に足が動いた。一刻も早くこの場所から離れなければならない。

 そうして振り返った矢先だった。

 ドスンと、何かにぶつかった。タバコ臭い匂いが衿子の鼻をつく。

「え…キャ!!…むむっ!」

 街灯を背にしていたため、黒い影にしか見えなかったが、衿子は直ぐに理解した。

 それは、何時の間に近寄ったのか、足音も無く自分の後ろに立っていた…間違いなく人であった。真後ろに立っていたため、振り返った拍子にぶつかったのだった。

 しかし、問題は其処ではない。

 背丈だけ見ても衿子よりも遥かに大きいその人間は、瞬く間に手で衿子を捕らえ、口を塞ぎ、声を奪っていたのだ。

「お嬢ちゃん。こんな所で何してるのかな。」

 上から聞こえる野太い声にゾクリと背筋が震えた。男。しかし声に歳を感じさせない所を見ると、まだ若いかと思われた。しかしこんな夜の公園をうろつき、さらに自分を女の子と知って、後ろから抱きつくような者は正常な人間とは言いがたい。

 突然の事に激しく動揺した衿子ではあったが、同時に抱きつかれた不快感から冷静さを取り戻す。

「んッ!!」

「つっ!!痛てえ!」

 ギリッと噛んだのは、口を抑えていた男の指。鉄錆びた血の味が口内に広がった。そして拘束の緩んだ隙を突いて、衿子は俊敏に男の手を振り解いた。

「くそっ!この…待て!」

 脱兎の如く駆け出した先は、目の前の暗闇。一筋の光も差さない黒い世界の中だった。先程感じた恐怖や聞こえた歌の事など、既に彼女の頭の中には無い。また、一目散に逃げる衿子を追って、男もその中へと駆け込んだ。舌打ちと罵声が飛び交う。

 どれほど走っていただろうか。衿子は暗闇を掻き分け、迫り来る草を踏み抜く音から必死に逃げていた。しかし、何処までも何処までも、それは粘り付くように自分の後を追い縋ってくる。

 助けを呼ぼうと思った。しかし昼間ならばまだしも、夜の公園に人の姿は一切無い。連絡をつけたくとも、公衆電話などは無く、携帯は学校に置き忘れている。衿子に出来るのは、唯ひたすらに走り、一刻も早く領域を抜ける事だけだった。

「あっ…。」

 そして気付いた。何時の間にか其処へ追い込まれている事に。足跡を辿るように聞こえてきた喧騒は、既に自分の周囲全体から気配を発していた。逃げ場は無い。

 少し開けた場所に出て、据え付けられた街灯を背にした時、囲みを絞るようにして彼等は現れた。その数十に及び、皆一様に同類である事を感じさせる雰囲気を放っていた。その中の一人が衿子に歩み寄る。

「鬼ごっこは終わりか?」

「な、なん――っ!!」

 ドス、と鈍い音が自分の腹で響いたと同時に衿子は膝をついた。彼等にすれば軽く殴っただけなのだろうが、それでも衿子にとっては咳き込み、戻しかけるほどの痛みであった。

「大人しくしてろ。でないともっと酷い目に遭わすぞ?」

「…ぁ…」

 怖い。最早声を上げる事も出来ず、卑猥な目を向けながら近寄ってくる者達を見ながら、衿子は心の中で叫んだ。

(誰か…助けて…!!!)

「そんなに叫ばなくても聞こえるわ。」

「な?!」

 その瞬間その場居る者、木々や風も含め、その全てが凍るように停止した。

 場違いな声だった。場にそぐわない、落ち着いた静かな、しかし良く透る澄んだ声。その主は女性。丁度衿子が通ってきた暗がりから、足音もなくその姿を現した。

 第一印象は黒。周囲の夜に溶け、腰まで届くかというほどの黒の髪。細々とした灯りに輝き、サラサラと靡く麗しい姿であった。そして、尚夜の闇に遮られても一目で分かるほどの美人。男達に加え、衿子までもが一瞬我を忘れ、息を呑むほどのものだった。

 一点に集中する視線を浴びながら、目立つ白磁の顔が周囲を見回し、呟くように言葉を投げかけた。

「あら?どうやら外れだったみたいね。今日は新月だから、宵の頃には動くかと思って来て見れば…野良猫の集まりだったようね。」

「…はあ?何言ってんだ?大体、何なんだお前は。…おい」

 軽い揶揄と受けて取ったのか、彼等の一人が反応した。指示を受た仲間が、彼女の背後へと回り込む。

 しかし、そんな様子を見ても、その女性は慌てる様子も無い。

「落ち着きなさい。貴方達と争うつもりは無いの。」

「お前に無くても、こっちにはあるんだよ!それに、良くみれば中々…。お前も一緒に遊んでやるよ。ハハ!」

 下品な笑いが伝播した。嘲り、蔑み、侮り。全ては吐き気すら催すほどのもの。これほどまで人は醜く笑えるのかというほどに。

 それを見て、黒の女は呆れたと言わんばかりに首を振る。ふう、と大げさに溜息を吐いたその態度に、彼等は気分を損ねたのか、眉間に皺を寄せて威嚇する。

「おい―――。」

 パチン、と。空にまで響く鮮やかな音色。彼等の言葉を遮ったのは、彼女が指を鳴らした音であった。

 その場に居た全員がピタリと動きを止めた。まるで時が止まったかのように、瞬きすらもしない。

 微動だにしなくなったのである。踏み出した足も不自然なまま中空で停止する。

「…っ!」

 その場に膝をついていた衿子は、そんな不可思議な様子に唖然としたが、次いで聞こえた声に、キンと頭の中を刺されるような痛みを感じた。

「去りなさい。貴方達は此処で何も見なった。そして、二度と此処へは近づかない。貴方達はこの場所を、この世界を、この夜を恐れるようになる。」

 厳かな祝詞のような言葉が終わると、衿子の痛みは消え、彼等もハッと我に返った。

 ただ、先程の威勢は何処へいったのか、きょろきょろと不安げに周りを見回し始め、稚拙な忍び足で歩き出した。彼女の言葉通り、周囲の夜を怖れているかのように。

 不思議と彼等の目には衿子達の姿が映っている様子はなかった。ただ、疑問や恐怖、焦り。そんな表情を各々が浮かべながら、我先にと姿を消していった。

 一体何が起こったのかは分からない。しかし目の前の女性が何かをした。呆気に捕われていた衿子にも、それだけは理解できた。

「とんだ無駄足…と言う訳でもないのね。大丈夫?何もされてない?」

「あ…はい。」

「そう。貴方も早く帰りなさい。夜に…この公園に入らない方がいいわ。」

「え…。」

「黒い夜は、良くないモノが彷徨うわ。ほら、其処にも。」

 スッと暗闇を指差された場所に目を向けると、そこで何かが光った。闇の中に浮かんだ二つの黄色い光点。あたかもそれは、夜の怪物のように。

「ひっ…!」

「ごめんなさい。驚かしてしまったわね。」

 怯えた衿子を余所に、彼女はしゃがみ、その光に向けて手を伸ばした。そして、少し揺れ動いたかと思うと、やがてトテトテと可愛らしい足音が響き、怪物が姿を現した。

「ニャー」

「ほら、この子よ。」

 怪物と見たのは、実は黒い猫だった。女性の髪とよく似た毛並を持つ、漆黒の黒猫である。

 その黒猫を抱え、ゴロゴロとあやしながら彼女は立ち上がった。

「さ、今みたいに怖い目に遭いたくなければ、直ぐに此処から出なさい。」

「あ、あの、有難う御座いました。」

「お礼なんていいわ。それより、急いだ方がいいんじゃないの?直に学校の門も閉まる。大切な用事があるのでしょう?」

「え…?」

 それだけ言うと、彼女は再び夜の闇の中へと消えていった。猫の鳴き声が微かに響き、辺りは漸く元の静けさを取り戻す。

 今度は静かな夜、当たり前な雰囲気へと戻っていた。

「あ…」

 暫くその女性を見送っていた衿子は、ふと自分の足元に落ちている物に気付いた。拾い上げてみると、どうやら生徒証の様子。

「風村…綾香さん?」



 翌日。

 時は既に夕方。ホームルームも終わり、衿子は一人図書室に来ていた。

 自分の好きな文庫本を取り出し、文字を眺め初めて2時間余り。夕日も落ちて下校時間が迫っている。その間ピクリとも動かず、じっと本を見つめていた彼女だが、眼が捕らえていたのは活字ではなかった。

 眼の裏に映るのものは即ち、昨日の事。

 大きく分けて二つ。高山俊一に関する事と、夜の公園での出来事について。特に後者に関してはどこか非現実的で、未だに衿子を悩ませていた。

 幾ら考えようとも思考が先へ進まない。堂堂巡りを繰返す中、例の光景だけが克明に再生される。そしてその度に、あの時の女性を思い起こす。

 会いたいと思った。昨日、自分を助けてくれた、あの黒髪の女性に会いたい。会って話をしてみたいと。理由は分からない。しかし勃然とそう感じるものがあった。

「…。」

 拾った生徒証を取り出す。名は風村綾香といった。

"綺麗な人…だったな。"

 生徒という地位では、守氏衿子も風村綾香も同じだが、その質は大きく違う。

 彼女の生徒証は大学のものだった。風村綾香は大学2回生、衿子は中学3年。

 同性とはいえ、姉妹以上に歳が離れている綾香に対して、少なからず大人の魅力を感じたのも無理ならぬ事だった。

 彼女と比べて自分はどうか、と否が応にも比較してしまうのだ。

 それだけに、衿子は自分自身を不甲斐なく思う。手紙の事にしても、上がり症の事にしても。

「はあ…。」

 高山俊一のメールに関しても、和気藹藹と楽しみにしていたものの、結局送らず仕舞いに終わった。公園での出来事が印象深すぎて、それ所ではなかったというのもあるが、いざ送ろうとしても何を書けばよいのか分からず、結局何もしないうちに朝が来ていたのである。

 その事を昼間枝葉姉妹に話すと、

「何やってんだよ。そんなのテキトーでいいよ、テキトーで。」

「そんな形式ばったものじゃなくてもいいのよ。普通に話す感じで、私達と同じようにね。」

 溜息を繰り返しついている二人にはそれ以上は聞けず、そのまま退散する事になった。

 しかし衿子には、男の子と普通に話す…という事自体が稀少であった。同性とはそれほどでもないのだが、一転して異性となると、話題すらも推測つかないという状態なのである。


「あれ?守氏さん?」

 唐突に聞こえた声は、図書室の入り口ドアの所から。

「あ…た、高山君。」

 呼ばれ気付いて其方を見ると、部活帰りらしい高山俊一が居た。彼が図書室の前の廊下を通って帰る事は衿子も知っていた。何度も通り過ぎる姿を見ている。しかし、声をかけられるのは初めて。

「何やってるの?…って、読書しかないな。」

「…。」

「何時も居るみたいだけど、何の本読んでるんだ?」

 ぐいっと近づいてきた彼の顔を見て、再びボンと頬を赤らめる。読んでいる本を見られる事が何処となく恥かしくなり、それもまた手で隠してしまった。

 そんな様子に気を悪くするでもなく、彼は笑顔のままで衿子を見る。

「えーっと。結局昨日は何だったのかな?ほら、枝葉さんが後ろに居たからさ。他に何か用事でもあったのかな、と思ってさ。」

「ん、ん。別に…そういうわけじゃ…。」

「そう?」

「…それよりごめんね。昨日メールするはずだったんだけど…。」

「ああ、気にしなくていいよ。昨日は俺も帰りが遅かったんだ。しかも直ぐ寝ちゃったし。」

 ははは、と笑う俊一につられ、衿子も頬をほころばせた。

 ドキドキしながらも、昨日とは違い随分普通に喋れる自分に驚く。また、なんとも言えないうれしさがあった。拙い内容の話ではあるが彼と話す事自体が、楽しく思えた。

 ああ、これが…。と衿子は嘆息する。

 しかし、そんな時間も数秒と持たなかった。ドアから顔を出した同級生…俊一と部活を共にしている男子が彼に催促したからだった。

「じゃあ守氏さん。また明日。」

「うん。じゃあ…。」

 ドア越しに手を上げた俊一に、衿子も手を振って答えた。そして形ばかり本に視線を落とし、次第に廊下を遠ざかる声に耳を傾けながら、衿子は眼を閉じた。

「…本の虫に何か用事でもあったのか?」

「ん…?別に。そうでもないけど?」

「俺、あいつと話した事ないわ。おまえもよく……」

 耳を塞いだ。微かな声も、それで聞こえなくなった。

 人の心は分からない。彼等が何を考えているのか分からない。だから、衿子は余り喋りたくないと思う。相手にどのように思われているかなど、一切気にする必要が無いから。逆に相手の事も別段知りたいとは思わなかった。

 だから本の虫などと言われても別に気にならなかったし、それ以上に何も言われる事は無かったから、気楽ではあった。

 しかし今、衿子は彼…高山俊一が、自分の事を一体どう思っているか知りたいと思った。彼に好意を寄せるが故に、彼の事をずっと傍から見てきたから、だから知りたい。自分が彼にどう思われているのかと。

 そう気付いても、衿子にはどうする事も出来なかった。何故ならば、それを知る事が怖かったから。

「…」

 耳から手を離した時には、既に彼は遠くへと立ち去った後だった。


 やがてチャイムが鳴り、下校の時刻へと時は移り行く。運動部の大半はこの後延長届けを出して夜まで活動を続ける。一方、文化部は割と早く終了し、下校のチャイムを聞く事は殆ど無いそうだ。

 つまり、下校時間ぴったりに学校を出る生徒は殆どいない。今は丁度台風の目のような時間にあたる。もう少し時間が経てば、再び下校する生徒の束が現れる事だろうが。

 故に今、衿子が歩いている場所に生徒の姿が少ないのも道理。既に夕日は沈み、一人紫紺の夕焼け空を眺めながら校門へと歩み行く。

 ふと。

「あ…。」

 さあっと流れた風に、その黒く長い髪を靡かせた。

 夜の、それも満足に灯りも無い中で、それでもはっきり憶えている。背の高い、腰まで届くほどの麗しい黒髪。白磁の佳人。

 少し離れた通りを歩き、自分の前を横切ったのは、昨日の公園の女性、風村綾香その人だった。衿子の足は、彼女の後を追っていた。



 綾香を追い始めた衿子は、しかし直ぐにその姿を見失った。あれほどの人ならば相当目立つはずだろうに、視界から途切れた途端、周りに溶け込むように気配が消えてしまったのだ。

 暫く探したが、見回せども見つからず、どうしようかと悩んでいた。

 このまま帰ろうかという気持ちも無い訳ではない。しかし、それよりも会って話がしたいという気持ちの方がずっと大きかった。

「…。」

 会いたい。あの女性に会いたい。そうすれば、何か分かる気がする、と。それば漠然とした予感であった。

 そうして再び彼女の姿を探し始めた衿子は、此処が公園に程近い事を思い出した。昨日の事もある。多少の危険はあるかも、と考えつつ思い切りよく踏み込んで探してみると、事の外すぐに見つかった。

 少し公園に入った所、広場に据え付けられた椅子に彼女は腰掛けていた。膝の上の黒いものに手をやり、まるで眠っているかのように。

 近づくと、それは昨日の黒猫であると分かった。さらさらと背を擦られ、気持ち良さそうに眠っている。一方綾香は、手が動いている所を見ると寝てはいないらしい。

 何か考え事をしているのだろうか。

「あ…あの!」

 直ぐ傍まで寄っても衿子に気付く様子は無く、少し憮然とした気分になり、思い切って声をかけた。黒猫の耳がピクッと動く。

「ん…?」

 ゆっくりと眼を開き、その顔は衿子仰いだ。

 近くで見ると、圧倒的なほどに綺麗な人だった。モデルなどの華やかな美しさとは違い、自然に任せるままに為し得た美しさである。異性は勿論、同性をも魅せるもの。女として、そしてなにより人間としても彼女は美しくあった。

「えっと、憶えてらっしゃいますか?昨日助けて頂いた…。」

「ええ。憶えているわ。」

「あの、本当にありがとう御座いました。」

 ぺこりと頭を下げた衿子だったが、綾香はじっと睨むようにして衿子を見た。衿子が首をかしげると、漸く口を開く。

「…どうして来たの。此処はもう夜よ?またあんな目に遭いたい?帰ったほうがいいわ。また襲われたくないのならね。」

 乾いた態度で突き放されそうになった衿子だったが、しかし今日は綾香本人に用事があって来ている。少々たじたじとなりながらも、ポケットから生徒証を取り出した。

「あの、これ…。昨日落としてました。」

「私の…。そう。有難う。」

 差し出された生徒証を受け取ると、綾香の表情が少し緩んだ。今が好機とばかりに衿子は言葉を投げかける。

「綾香さん…は、どうして此処に来るんですか?」

「…その前に、貴方の名前、教えてくれる?貴方が知ってて私が知らないんじゃ、少し不公平。」

「あ、はい。ごめんなさい。気付かないで…。私、衿子です。守氏衿子。」

 そう、と呟いて綾香は頷いた。

「いい名前ね。」

「え、そうですか?珍しい名前とはよく言われるんですけど…。いい名前かどうかははっきり言って自分では分からないです。名前に良い悪いというのも失礼だと思いますし…。」

「そういう事じゃないわ。良く似合ってるって事よ。貴方の雰囲気とその名前がね。」

 ふと真剣な表情に戻ると、衿子に向かって言った。

「何度も言うけど、用事が無いのなら、こんな所には来ない方が良いわ。私も用事が無ければ来たりはしない。昨日も偶然通りかかったようなものよ。」

「用事…?」

「耳障りなほどにしつこい人がいてね。まあ、待ち人という所かしら。」

「待ち人…ですか。」

 衿子はその珍しい物言いに首を傾げた。女が待ち人在りと言うと、恋人を連想させるものだが…。しかしそれを尋ねる前に、恋人じゃないわよ、と釘を刺された。

「…貴方は何か悩み事がありそうね。顔に出てる。」

「えっ…。そうですか…?」

 わたわたと自分の顔を撫でまわし始めた衿子を見て、思わず綾香は破顔した。口に手を当て、淑やかに笑う様子は、何処ぞの令嬢と思えるほどに麗しかった。

「そうね。これを届けてくれたお礼に、一つアドバイスをあげましょうか。貴方、好きな人が居るわね?そして、それについて何か悩み事がある。」

「え…はい。その通りです。…でも、なんで分かったんですか?」

「年頃の女の子…特に貴方みたいな人は、そういう時には皆同じ顔をするものよ。…それに、恋の悩みは女の方が深いわ。声に出さなくても、葛藤は自然と相手に伝わるものよ。」

「葛藤…ですか。」

「貴方は何がしたいの?その人と何がしたい?一緒に居たいと思うの?それとも…今までと同じように、遠くから見ているだけで貴方は満足なのかしら?」

 細く切れた眼はまるで全てを見通すかのように、衿子を射竦めていた。

 まるでこの人は、全てを知っているかのように話す。いや、事実知っているのかもしれない。それほどまでに的確に、そして具体的に彼女の想いを的当てていた。

「…風村さんは人の心が読めるんですか?」

「まさか。」

 と綾香は首を振った。

「人の心なんてモノ、そう簡単に分かるものじゃないのよ。超能力がある訳でもないし、心理学を習ってる訳でもないわ。ただ、そういう気がしただけよ。」

「顔…ですか?」

「フフ…。そうね。そうかもしれない。でも、同じ女だから分かるという部分もあるわ。貴方の想い人にそれは理解できないかもしれない。

 だから思い切って自分の気持ちを相手に伝えなければだめよ。…言葉にしてね。」

「でも…そういうの、怖くありませんか?もし私が嫌われていたらと思うと…。」

「…貴方は少し内気すぎるようね。心の中に溜め込むタイプ。たまには自分の正直になりなさいな。そうでないと、そのうち爆発するわよ。そして、その時にはもう…遅いのだから。」

「え…。」

 なにか、毛羽立った気配を感じ、衿子はそれ以上何も聞けなくなった。

「おーい。エリー!」

 丁度話が途切れた合間に、公園の入り口から聞きなれた声が飛んできた。振り向くと舞が声を張り上げて此方に近づいてくる様子。美樹もその後ろにいた。

「さあ、話は終わり。私は少しやる事があるの。ここでお別れね。」

「あ…。」

 言うが早いか、綾香は直ぐに立ち上がり、枝葉姉妹と入れ替わりに広場から出て行った。その後を黒猫が追いかける。チラリと此方を見られた気がして、衿子は2.3度瞬いた。

「エリ。こんな所で何してるんだ?…誰?」

 駆け寄ってきた二人は揃って不審な顔をしている。目線は綾香の後姿へ。

 そんな二人に彼女の事、そして昨夜の事を話す訳にもいかず手を振って誤魔化した。

「ううん。なんでもない。でもどうしたの?二人揃って。」

 少々慌て気味の様子に顔を見合わせた枝葉姉妹は、やれやれと肩をすくめながら言う。

「公園内は暫く立ち入り禁止になってるのよ。知らなかった?」

「立ち入り…?何?」

「何でも夜の公園で変質者が出たとかなんとか。警察が来るほどだからな。一応事件って事になってる。詳しくは教えてくれないけど被害者も出たらしいんだ。噂じゃ、こう…血がビッシャリと。」

 身震いする舞の代わりに美樹が続けた。

「それで暫く夜は立ち入り禁止になったのよ。…昨日も今日も連絡されてたでしょう?」

 衿子は首を傾げたが、二人はそんな衿子をもどかしがった。

 既に時も夕暮れを過ぎている。良く分からないが、何か事件があったという場所には長居したくないのだろう。

 早く他に行こうと、無理矢理に腕を引かれ、公園から連れ出されてしまった。遠巻きに見えていた綾香の姿も既に無かった。



"珍しいじゃないか"

「…。」

 私にしか聞こえない声が、毛むくじゃらの黒猫から生じた。

 脳を直接揺さぶるこの声には、幾ら時間を経たとしても決して慣れる事は無い。しかしコイツの発するそれは、まだ随分とマシな方だ。特に昨日のものと比べると、心地よくすら感じる。

"随分優しかったな。普段の御前とは比較にすらならん。何か心境の変化でも?"

「馬鹿な事言ってないで…準備は出来てるの?何時、何処から来るのか分からないのでしょう?」

 息を絞り、喉を使わずに口だけで会話する。人であれば相応に近づかなければ分からないほどの音量だが、猫の耳にとっては十分過ぎるほどのもの。尻尾を振りながら私の言葉に答えた。

"それは此方の台詞だ。今日も私の出る幕は無い。御前こそ大丈夫なのか?…ま、其方の都合で出てきたのだから、私の心配する事では無いのかもしれないが…。"

「そうね。私の都合…その通りよ。慈善事業なんて柄にも無い事、したくも無いし、これから先もする事は無いでしょうね。人の為なんて言葉は偽善この上ない。」

 私の言葉にふと目元を緩ませる黒猫。慣れていないと分からないが、これはの彼の…猫面の笑みである。それも趣味の悪そうな…必死に笑いを堪えているような表情だ。

 少々の不快感に眉間へ皺寄せた私に彼は問うた。

"では、あの娘とのやり取りも、自分の為なのか?"

「…勿論。騒音は低いほど良いでしょう?」

"ク。私の主殿も随分と不器用な事だ。彼女が御前と同じ事で損をするのを見てはいられなかったのだろう?この似た者同士め。"

「なんですって?」

 からかわれた事に気付いて怒気を発したが、しかしミルケは事も無げにそれを避け、怒るな怒るな、と笑う声を放ちながら、トテトテと林の中へ入っていった。

「…あの子の声は痛すぎるのよ。」

 二日続きの新月夜に、私は祈るように呟いた。



「ちょっと寄って行きなよ。」

 枝葉姉妹の家は学校から程近い場所にある。大通りに面した一級地で、この公園と道路を挟んで向かい側に位置している。

 どーのこーの、一昨日から休んでいる担任の大今先生が、実は行方不明らしいとか、その先生と衿子のクラス担任との仲が噂に…、などという他愛も無い話で盛り上がり、直ぐに枝葉邸の前まで来てしまった。

 その豪邸には数え切れないほどお邪魔していた衿子だったが、今日は門前までで、中には入ろうとしない。そんな衿子を見て、美樹が仕方ないなとばかりに問い掛けた。

「ねえ、高山君の事どうするの?手紙まだ渡せてないんでしょ?」

「うん…。でも、今はまだ…。」

「はっきり言っちゃえばいいじゃない。断られないとは思うんだけどね。」

「ん…。」

 もじもじと俯き、衿子は口を噤む。

「まあ頑張りなさいよ。応援するからさ。」

「…ありがとう。私…今日は帰るね。」

「あ…公園には近づくなよな!」

 分かってると言うと、いそいそと二人に挨拶をしてその場を去った。そんな衿子を見ながら、

「エリ…不器用なのよね。言ってしまえばいいのに。」

「私達の親友は、勢いに任せる、って事を知らないからな。」

 ヤレヤレ、と溜息をつく姉妹。

 そんな二人の隣を、ピュウと風が吹き抜けた。再び世界は宵闇へと移り行く。


 その後の帰り道。何時もの通り、衿子は公園沿いに家路を急いでいた。

 ザワザワと風が吹き、黒い世界が再びその姿を現していく。

 右を見れば鮮やかに夜を彩るビル街。しかし左には全てを飲み込むかというほどの深く、濃い暗闇が広がっている。夜を照らすはずの月も無く、雲ひとつ無い闇空へ街明かりも吸い込まれていく。

 昨日と同じ気配が彼女の胸中を騒がせる。

 一寸先の暗闇を見て、衿子は確信した。彼女が…風村綾香が、今この中に居る。

 足は自然と公園へ向いていた。風が吹き、黒い木々が脅すように揺れ囁く。

 何時にも増して風が強い日だった。足音さえも大樹のざわめきに掻き消され、砂利を踏む音も聞こえない。

 ヒュウと生温い風が頬を掠った。肌寒い夜の中、その不気味さに肌はそそけ立ち、足も竦む。引き返せと理性が叫ぶ。

「…。」

 先程の枝葉姉妹との会話を思い出す。

 …公園に変質者?

 否、そんな者が居た位では、この夜は凍りはしない。此処まで黒い雰囲気には染まらない。何かもっと、別なモノが居る。警察が来るほどの事。単なる変質者ではないのだろう。最悪…殺人。いや、むしろそれ以上のものが彷徨っているのかもしれない。

 となれば綾香が危険だ。昨日の事もある。夜に此処で人と待ち合わせしているというのなら、格好の餌食になるだろう、と。

 伝えなければいけない。今すぐに――。

「は…。」

 思い立ってからは早かった。その足で、立ち入り禁止の札が下がったポールを越えてから数十分。右へ左へ、時に巡回の警官を避け、時に木々のざわめきに驚き、時に目前の暗闇に怯えながら衿子は歩き回っていた。そして、それも無駄ではなかったようで、とある場所で一つの発見をする。

 それはあの猫だった。昨日は衿子を脅かし、今日は綾香の膝の上に丸まっていた黒猫である。公園の中心部、舗装路の真中を歩いていたのを偶然見つけたのであった。

 それで、間違いなく綾香がまだ此処に居る事を確信した。

 あの黒猫はおそらく綾香のペットで、一緒に居れば彼女も来るに違いないと踏んだ衿子だったが、しかし当の猫は近づく間も無く駆け出した。

 唯でさえ街灯も少ない場所。見失ったら一大事だと思い、今懸命に追っている所であった。

「待って!綾香さんは何処?!」

 しかし人の脚速が猫のそれに敵う道理は無い。

 場所も悪かった。

 舗装路を外れ、木々の合間を走るうちに引き離され、見る見るうちに夜へと溶けていく猫を見て、知らず知らずのうちに衿子は叫んでいた。

 猫に言葉を理解する能力は無い。例え理解できるのだとしても、人間の言葉を発することは出来ない。だから人は猫、いや猫に限らず人以外の生物に理性があるとは認めないのだろう。

 しかしこの黒猫は答えた。その眼で、はっきりとした意思を持った瞳で衿子に語る。

 来るな、と。

「え…。」

 その黒猫は言った。否、まるで言ったかのように思えた。この先に来れば死ぬ。私の後を追えば死ぬぞ、と。

「何なの…?あ…。」

 突然の事に驚き、我に返った時には既に黒猫の姿は無かった。それでも微かな草音を聞き、其方の方へと衿子は歩く。

「あ…。」

 黒猫が消えた先は、少し開けた場所に続いていた。円状に配置された木々が作った、小さな小さな芝生の広場である。薄暗い電灯が一つだけ中央に設置されており、周囲をほの明るく照らしていた。

 衿子も長年公園の近くに住んでいたが、このような場所があるとは知らなかった。もし月が出ていれば、綺麗に開いた吹き抜けから美しい月が見えていただろう。幻想という名が相応しい場所でもあった。

「居ない…。」

 しかし今の彼女には、そんな感慨に身を任せる余裕は無い。黒猫の姿は何処にも無かった。今まで続いていた足音も今は途絶え、進退窮まった形だ。

「どうしよう…。」

 その時だった。

 後ろから通り過ぎた風にゾクリと背筋が凍った。

 振り返る。人影のようなものが見えた。ザリザリと何かを引き摺るような音を立てながら、次第に近づいてくる。

「え…。」

 瞬時に理解した。あれは良くないモノだ。人じゃない。決して人であるはずが無い。体はそれを俊敏に悟っていた。全身が総毛立つ感覚に衿子は硬直する。

 そんな衿子を目に留めたのか、ソレは急に足を速めた。醜い唸り声を上げながら走り出す。

 人型である筈なのに、何処か不自然な動きに悪寒を感じた。急速に接近するその姿を見て、それは怯えへと変わっていく。

 確かに人を為していたと思われるソレは、至る所が奇怪であった。

 衣服は所々破れ、隙間から見える指はあらぬ方向に曲がっている。腕自体もありえない所でひん曲がっていた。片足を引き摺りながらも、しかしまるで棒切れのように使いながら無理矢理走っている。

 どう贔屓目に見ても、人のそれには見えない。まるで生きた屍。むしろゾンビを彷彿とさせる姿だった。

「ひっ…」

 一息のうちに衿子に迫ったソレは、身動きできない彼女に向かって飛んだ。文字通り飛行を思わせる信じられない跳躍。空から降ってくるように飛び掛ってきたソレを衿子は唖然と見ていた。

(伏せなさい!)

 今にも、という状況の中で、直接彼女の頭に響く声があった。綾香の声。

 茫然自失の中、はっと正気を取り戻し、頭を抱えてしゃがみ込んだ。

「ギッ?!」

 バキッと割れ物ような音。ソレの額に減り込んだのは、拳大の礫。飛来した石を真正面から受け、ソレは無様に叩き落された。

「早く離れなさい。」

 身震いする衿子に手を貸しながら、風村綾香は声を掛けた。少々怒気が篭っている。

「困った子ね。仏の顔も三度まで、という言葉も知らないの?…まあいいわ。退きなさい。危険よ。」

「こ…この人…?は、一体何なんですか?」

「私にも分からないわ。貴方も知る必要はないものよ。さあ、離れて。」

 その途端、ガバッと跳ね起きた。

「っ!」

 そしてそのまま衿子に掴みかかろうとして…しかしその手は空を切った。綾香が衿子を突き飛ばし、ソレの顔を強かに打ち据えたからだ。

 潰れた足では踏ん張りも効かないのか、そのまま倒れ伏す。しかしまた直ぐに飛び起きて、今度は標的を綾香に変えた。

 手を伸ばし、綾香に掴みかかろうとする。恐らく捕まればそのまま食い殺される。そんな殺し手を、綾香は身を軽やかに避けた。



「…。」

 チッと軽く舌打ちをする。予想外の事が重なり、感極まった時にやってしまう癖だ。

 道外れた林の中、消えかけの電灯、妙に生温い割には風の強い夜。気に食わないといえばその通りだった。しかも連絡が来た時には正反対な場所に居たし、先導していたはずのミルケも居ない。おかげで細かい場所が分からなくて手間取る事になった。

 そして何より…。

「あ、あ…」

 衿子。苗字は何と言ったか…そう、守氏だ。守氏衿子と言った。

 目の前のゾンビっぽい物体を見て、恐れ慄いている女の子だ。私の見る限りではまだ中学は出ていないと思う。まだまだ子供。肉体的にも、精神的にも。

 そんな子が後ろにいるものだから、私も表立って怖がる事が出来ない。正直な所、私も頭を抱えて逃げ出したい気分だった。何しろ、目の前の物は人ではなかったのだから。

 形は人。性別身長体つき。多少不具はあっても、それは間違いなく人の体だった。しかし、それでもそれは人ではなかった。

「んっ!」

 突き出された手を叩いてやりすごす。一瞬でも遅れればそれで終わり。そんな予感の中で、しかし私の四肢は躊躇いがちにしか動かない。

 ビリビリと頭の奥が痛い。それが私の動きを鈍らせる。原因は二つあった。一つは後ろの女の子。もう一つは目の前の物体Aだ。

 彼女…衿子の事はまだ良い。おそらく見かけとは違い、意志の強い子なんだろう。必死に恐怖を抑えようとしているのが分かる。そのおかげで少し気になる、そんな程度で済んでいる。

 だが、問題はこの目の前の男である。私が、これは人ではないとした訳が此処にある。

「痛っ…!」

 言葉通り、痛かった。出切る事なら膝を尽き、楽になってしまいたいほどの痛み。

 痛いほど、という程度の声ならば数え限りなく耳にして、そしてその度にそれを飲み込んできた。しかし、実際に痛い意思を感じるのは珍しい。私の経験した中でも、彼の声は比較にならないほど強かった。発狂した人間でも、これほどのものは出せはしない。

「グ…ルゥ……ガァ!!」

 人に有らざる唸り、声。私の脳を焼いていくそれは、ある一つの事だけを訴えていた。

"死にたくない"

「何、ですって?」

 痛みを抑え、漸く理解できた彼の声に少なからず動揺した。

 彼の言葉に従うのなら、今この男は死に瀕している。でなければこんな声を…意思を一つに集中する事など出来はしまい。

 しかし彼の動きを見る限り、どう見ても瀕死とは思えない。精神状態はいざ知らず、五体満足ではないにしろ、少なくとも体は動いている。

 となれば。

「まさか?…そんな馬鹿な事」

 本物のゾンビ?いや、アンデッド?

 実はこの男は既に死んでいて、それでも何らかの力に支えられて動いている。死者が動くというのなら、それは矢張りアンデッドと言っても差し支えないだろうが…。

「…。」

 そんな非科学的な事、あるはずがない思う。しかし、それを全く有り得ないとして吐き捨てる事も出来なかった。何故なら、非科学的というのなら、この私も彼と同類であるだろうから。

「成る程、ね。人外か。」

 私の内なる声も聞こえている様子は無い。ただ、私を捕らえようと腕を振り回すだけだ。ただ本能的に獲物を捕らえようとしている。そんな行動。

 この男の心は動いていないのだろう。

 薬を使っている訳でもない。気が触れているというわけでもない。

 社会不適応者に対してよく言われる…歯車が狂っている、という意味じゃない。文字通り、思考が停止しているのだ。動いていないものを、態々狂っているとは言わない。

「なんて…厄介。」

 本当にそう思う。

 昨夜、この声を遠巻きに聞いてから、早々に片付けようと思った。こんなのを聞き続ければ自分が正気ではいられなくなると思ったから。

 出かける前にミルケが言った。人の手に負えるものではない、と。本当にそう思う。まさか化け物を相手にする事になろうとは。

 確信した。

 彼は既に死んでいる。私の、生ある者の声が届かないのだから。



「…。」

 何だろう。さっきから何が起こっているのだろう。一体と一人。美女と野獣…という訳ではないが、当にその言葉が相応しいと思った。

 捕まえようとする男の手を避け、逆に足をかけて倒す。時に拳を奮い、ソレを叩き伏す。

 力があるようには思えない。鍛錬を積んでいるようにも見えない。しかし、無様とはいえ形振り構わぬソレの攻撃の全てを避け、時に受け流している。

 何か非現実的なものを心の隅で感じながら、私はその光景を見蕩れていた。

「あっ…」

 頭を抑える。

 キンとした頭痛が襲ってきたからだ。昨日綾香さんに助けられた時と同じ、頭を刺すような頭痛。

 綾香さんが男に手を向けている姿を見て、この頭痛が彼女の手によるものなんだと分かった。理屈はわからないが、彼女は何かをしている。昨日と、昨日の男達を追い払ったのと同じように。

 しかし、昨日と違うのはその痛みが段違いに強い事と、ソレに何の変化も見られない事だった。止まるどころか、その動きが鈍る気配すらも無い。

「何をやってるの?!早く…逃げなさい!」

 少し荒げた声が聞こえた。

 綾香さんのの言う通り逃げるべきだと思った。ソレを見る限り、普通の人間ではありえない。昨日の事件もきっとコレが原因なんだろう。捕まれば殺される。それも確実に。そんな予感があった。

 でも自分を庇った綾香さんを置いて逃げるというのも気が引けた。何のために戦っているのかは分からない。一緒に逃げればいいのだとも思う。しかし…。

「あっ!」

 それは一瞬だった。芝生に足を取られ、僅かに姿勢を逸らした瞬間だった。ソレの手が彼女に向かい、一直線に伸びた。首に手がかかる。

「ッ…」

「危ないっ!」

 考えている暇も無かった。むしろ足が勝手に動いたのかもしれない。

 気が付いた時にはソレの足にしがみ付いていた。我ながら無茶な事をしていると思う。不思議と恐怖は無かった。

 ソレは既に綾香さんのの首を捕らえていて、私が足元に掴みかかったのを見ると、すぐさま矛先を変えた。

 綾香さんを突き飛ばし、しがみ付いた私を掴むとグイと引き剥がす。

「…ぁ…ぁ」

 物凄い力だった。相手が大の男というのを差し引いても余りある怪力。掴まれた肩がキシキシと悲鳴をあげ、激痛が背筋まで奮わせる。

「な…!貴方何を!」

「あ…。」

 その男の顔を間近で見た。見知った顔だった。何でこの人が、とも思った。

 …最初に思ったゾンビ、というのも案外間違いではないらしい。その眼には生命の輝きは無かった。虚ろな表情で、口からはだらしなく涎が垂れ、何よりも不気味であった。恐らく陽の下で見れば、その顔は薄気味悪いほどに青白いと思う。

 そして、その人は私を見ていた。正確には、私の体を見ていた。まるで品定めをするように、私は人として観られている訳ではなかった。何も映さない目が私に見るのは、おそらくは食料、肉として。

「グ…」

 平らな牙が迫る。食べられる、とそう思った。

 その直前、動けない私の前を黒い影横切った。

「ニャ!!」

 あの黒猫だった。飛び掛かり、喉元に噛み付く。流石にたまらないのか、私を突き放し、今度は黒猫を引き剥がしにかかった。

"It had the dream on the day of yesterday."

「え…?」

 その時唐突に響き始めたのは、真夜に透き通る歌声。振り返ると、其処に綾香さんの姿があった。眼を閉じ、胸に手を当て、まるで歌姫のように謡っている。

"Now will be seen on the day of tomorrow."

 それは昨日、闇の中から聞こえてきた歌だった。と何処なく悲しげで、哀愁を感じさせる歌声。

 そうか、矢張り綾香さんが、と私は思った。

"Lonely every day without the returning place."

「ガァぁぁぁ!!」

 見ると、ソレは地面に倒れ伏していた。先程までとは様子が変わり、今は頭を抱えて唸り声を上げている。苦しんでいるというのも直ぐに分かった。

 あまりにも不可思議な事で動揺したが、それが、この唄によるものだと気付くのにも、そう時間はかからなかった。

"The wing in the abyss held in the body."

 歌は続く。悲哀と苦悶の混じる歌声が夜の世界を奏でている。

「…。」

 何故だろう、と思う。

 今、目の前の男はまるで泣きじゃくっているように見える。玩具を取り上げられた子供のように、離れ行く其れを必死に取り戻そうとしているかのように。

"Let's go. Let's return to mother's origin."

「これはね、死者を送る歌。」

 不思議と歌は途切れず、心に直接綾香さんの声が響いた。

「神父や牧師、お坊さん達が葬式の時とか、口で念仏を唱えている時に、心の中で歌っている唄。

 その人を悼んで、自分の命を削ってまで捧げる、そんな強くて悲しい歌よ。貴方が迷い無く逝けますように、来世での幸せを願う、ってね。

 貴方も冥福してあげて。元有るべき所に還るのよ。その方が彼にとっても幸せだと思うわ。…彼はもう既に死んでいるのだから。」

「…。」

 昨日と今日。私がこの歌から感じたもの、冥府からの誘いに思えたあの感覚。あれは私にではなくこの人へと向けられたものだったんだ。

 そう考えると、この歌が淡い優しさを含んでいる事も感じ取れた。無理矢理連れて行くという感覚はない。むしろ自ずと現世からの旅立ちを誘うような、そんな慈愛に満ちた歌だった。

 綾香さんの言う通り、この目の前の人が死者だというのなら、この歌で導かれる魂は、決して其れを拒んでいる訳では無いのだろう。もしそうなら、歌には何の意味も無い。歌自体には強制力はないのだから。

 彼の苦痛は、魂が離れゆく肉体の断末魔なのだろう。本能的に危機を察し、必死に魂を体に留め置こうとしている。

 涙を流し、欠けた腕を体に纏わせて、その人は迫り来る己の死を慟哭していた。

"The vast desert is exceeded.A high mountain is exceeded.A far sea is exceeded."

 歌は続く。魂は冥府へと旅立っていく。

 逃れようの無い死。終わり。

 なぜ死者となっても現世に残ろうとしたのかは分からない。それでも、その人はきっと生きたかったんだ、と。そのために人を襲う事になっても、其れに代えられない、その罪を背負ってでもやりたい事があったんだ。

 そんな執念を私は感じた。

「あ…ぅあ…」

 塵へと還りつつある彼を見て、私はその人の元へと駆け寄っていた。

 危ない!と、綾香さんの声がしたけど、それは聞こえない振りをした。せめて彼に、もう休んでいいよと言いたかったから…。

"They come surely."

 崩れ行くその手を握った。その人の体は恐ろしいほどに冷たかった。その頼りない体を抱える寂しさを思うと、自然と涙が溢れ出た。

"Therefore, let's return. Let's go both."

 それはほんの一瞬だったのだろう。

 その人の、白く濁った眼に輝きが戻った。

 私の心に語りかける声がした。それは弱々しく途切れ途切れだったけど、強い意思が込められていた。恐らくこれが、彼の理由。

「うん…伝えます。だから安心して。」

 そういうと、彼は安心したように目を閉じた。彼の顔が微かに笑ったように見えた。まるで安らかな寝顔のようだった。

 思った。ああ、自分は何て小さな事で悩んでいたんだろう、と。この人と比べれば、私は塵芥のようなものだった。自分が馬鹿馬鹿しいとまで思った。

"Mother goes to the origin in the becoming it world."

 魂を載せて、命を導いて、その歌は空へと上っていった。

 そうして密やかな宴は終わりを迎えた。彼の魂は世界へ還り、脱け殻となった肉体も灰色の塵となって消えていく。

 もう其処には何も無かった。

「あ…あれ…?」

 突然急激な眠気に襲われ、薄れ行く意識の中で私は微かに声を聞く。

「呆れた。大人しい子だと思ってたけど、認識違いだったようね。随分大胆な真似ができるじゃない。

 最も、誉められた事じゃないけど…。ま、道連れにされなかっただけでも良しとしましょうか。」

 ザッと草を踏む音が響く。私の頬に、やわらかな手が触れた。

「今は休みなさい。明日はきっと忙しいでしょうから。」

 スッと手が離れ、それと同時に私の意識も沈んでいった。



「失礼します。」

 ガラガラと職員室の扉を開けた。まだ朝も早く、先生達もちらほらと見えるだけだ。一度見回し、直ぐに目当ての場所を見つけた。

 近寄ると、逆に先生の方も此方に来た。普段きりっとした様子の顔が若干やつれている。思えば、一昨日からずっとそうだった。

「守氏さん。もう大丈夫なの?」

「ええ。迷惑かけてすみません。」

 あの後、私は公園近くの派出所で寝かされていた。ちょっとびっくりしたが、御巡りさんの言う事を聞いている内に、大体の状況は掴めた。

 私は貧血で倒れた…という事になっているらしい。此処まで運んできた綺麗な友人というのは、おそらく綾香さんの事だろう。本人は用事があると言って先に帰ったという。いかにもあの人らしいと思った。

 それから自宅まで送ってもらい、まず親にこっぴどく怒られる事になった。学校にも連絡が行っていたようで、担任の先生と電話で話し、翌朝職員室へ顔を見せるようにと念を押され漸く事無きを得たのだった。

「本当に何も無かったの?」

「実は…大今先生に会ったんですよ。」

「な、大今先せ…ど、何処で?!何時会ったの?あの人は何処?!」

 私の肩を掴み、ゆさゆさと揺すっていた先生はハッとした様子で、

「あ…ごめんなさい。…噂にもなってるかもしれないけど、大今先生と連絡がとれなくて困ってるの。何か言ってなかった?」

「すいません。挨拶した位で別れましたから…。」

 そうですか、と気落ちする先生に向かい、私は言った。

「あ、でも伝言を預かってるんです。」

「…伝言?」

「『篠野先生、貴方を愛している。』…だそうですよ。確かに伝えましたから」

 え…と首を傾げた先生を残して、私は職員室を出た。不謹慎ながら、自然と顔が綻んでいた。

 昨日の人は…大今先生だった。数学を担当していた、少し老け気味顔の先生だ。教え方の上手い先生だったから、私も良く覚えていた。それでもあの変貌ぶりからは想像もつかず、確信したのは最後の最期だったけど。

 あの一瞬に私は色々な事を聞いた。今までの生い立ち、先生になった理由。私個人への評価なんてものもあった。…大いに参考になったと思う。

 そして…一昨日、篠野先生に逢いに行く途中で、車に跳ねられた事も。

 詳しい説明は出来ないが、舞と美樹に話しても良いかもしれない。とてもロマンチックな話でもある。あの二人の事だ。きっと興味を引かれるに違いない。…身の毛も弥立つほどに。

 しかし、それも用事が終わってからだ。このまま教室へ向かうわけではない。

 今日は忙しい。確かに大忙しだ。

 体育館の方に向かう。しかし目当ての場所は其処ではない、そのちょっと手前の建物。その二階。

 ドンドンドンと朝から騒がしい太鼓の音を奏でているのは、文化系運動部などと言われる和太鼓部だった。

 吸音性が良い壁で囲まれたこの部屋からの太鼓音は、ごく近いはずの図書室でも全く聞こえない。私としては少々悔しい事なのだけれど。

 ドアの近くから窓を見ると、その図書室が見えた。何時も私の座っている机がはっきりと眼に留まる。私は何時もあそこに居た。

「ふう…。」

 ドアの前で一旦深呼吸。窓からそっと覗いて中を確認してから、心機一転、バッと勢い良く開け放った。

 途端に心臓を揺るがすほどの大響音が漏れ出た。それに怯む事無く、私はドアに一番近い太鼓を鳴らしている人の肩を叩く。

 何時も私は図書室から見ていた。少し斜め上の窓から見える彼の姿を。

 ん?と振り向いた顔は高山俊一。

 顔に血が集まってくるのを感じた。心の臓も其れに合わせて鼓動が脈打つ。しかし此処で慌ててはいけない。この前の繰り返しだ。

 すうと息を吸うと、湧き立った心は素直に落ち着いてくれた。自分の変化に驚きつつ、気を取り直して彼の方を見る。

 意外な来客に叩く手を止めた彼だったが、皆の演奏は止まらない。しかし興味津々でこちらの様子を伺うのが私にも良く分かった。

「―!―!」

 何か喋っている高山君だったが、この騒音の中では何も聞こえない。彼もそれは良く分かっているようで、何時にも増して口を大きく開けて私に何か伝えようとしている。

 そんな姿を微笑ましく感じながら、私は手の中の便箋を差し出した。

 反射的にそれを受け取り、何だろう、と首を傾げている。これは何?と言いたげな表情だ。そんな彼の眼をじっと見ながら私は告げた。 

「―――――」

 彼の反応を見る前に私は扉の外に出た。

 後ろから聞こえる音に耳を傾けながら、私は廊下を歩いていく。朝靄の校舎の中で、冷えた空気が心地よかった。


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