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シェリーの拒絶に、ローグの唸り声が重なった。ヒルドリスは自身の後ろの方に向かって声をかける。
「ローグを押さえろ。怪我させても、最悪の場合は死なせても構わないから。ああ、シェリーには掠り傷もつけないように」
伯爵家の次男ともなれば、当然ひとりで出てくることなど有り得ない。まして場所は夜の森だ。従者だの護衛だのを連れているはずで、双頭蛇以外の幻獣も伴っているはずだ。
「ローグ、逃げて! お願いだから!」
ローグを蔑ろにするヒルドリスの発言に、シェリーは必死に叫んだ。しかしローグはシェリーの傍を離れない。
動いたのは、紳士だった。
「死なせても構わない……? 翼狼を?」
低い声で呟いたと思うと、一歩前に踏み出す。双頭蛇が鎌首を擡げているというのに、まったくお構いなしだ。双頭蛇は一方が頭を高く、他方が頭を低くして攻撃の姿勢を取る。
「退け」
たった一言。しかし双頭蛇は戸惑ったように動きを止めた。紳士がなおも前に進むと、そのぶん蛇は後ろに下がった。
「何をしているんだ! 行け! お前たちも!」
ヒルドリスは双頭蛇と、背後にも向かって怒鳴った。ばらばらと人や幻獣たちが現れる。しかしそれ以上のことはなく、双頭蛇も縫い止められたように動きを止めていた。
「いったい――」
ヒルドリスは再び前を向き、言葉を途切れさせてひっと息を呑んだ。何があるのかとシェリーは背後を振り返り、同じように息を呑んだ。
ざわりと辺りの闇が蠢き、ふつ、ふつと宝石のような輝きが灯っていく。その数は二十を下らないだろう。よく見てみればそれらは、
「幻獣の目……!?」
「幻獣公爵――!?」
シェリーの声に、ヒルドリスの悲鳴が重なる。シェリーは目を見開いた。
幻獣公爵。それは、ヘイズ公爵――ここダルージア王国の国境地帯を統べる大領主――を指す言葉だ。山脈を擁する公爵領は国防の要であり、稀少な幻獣を数多く飼育している一大産地であり、小さな国にも匹敵するような規模と資金力がある。
そして、その主である公爵は、さまざまな噂のある人物だ。
いわく、人間嫌いで社交界に姿を見せないのに国王の信頼が篤く、国の機密に触れることができる。
いわく、人里離れた城に住むのは国防のためではなく人を寄せ付けないため。城内に使用人はおらず、彼の城に行った人間は戻らない。
いわく、扱いの難しい幻獣をいとも容易く手懐け、従える。幻獣に目のない幻獣狂いで、彼の城には門外不出の幻獣が生息している。
ついたあだ名が、幻獣公爵。面白おかしく語られ、しかしその一方では畏怖を以て忌避される存在。幻獣という上流貴族の趣味的な悪徳、その象徴になるような人物。幻獣を愛し、人間を嫌う、謎めいた公爵。
シェリーも噂で聞いたことはあったが、この人が、その幻獣公爵なのだろうか。
「いかにも。自分からそう名乗ったことは無いのだが」
紳士が肯定する。ヒルドリスはたじろいだ様子で身を固くした。公爵という身分だけでも手を出せないのに、背後には少なく見積もっても十を超える幻獣を従えている。その相手の不興を買ったのだ。どんな咎めを受けるか知れない。
しかし幻獣公爵は興味もなさそうに言った。
「退け。翼狼には手を出すな」
「…………分かった。だが、そっちの女は連れ帰る」
「駄目だ。翼狼が主と定めた相手だ。引き離せん」
「……っ!」
ヒルドリスは悔しそうに拳を握りしめたが、それだけだった。シェリーに未練がましい目を向けながらも、背後に合図をして渋々と立ち去る。
(助かったの……?)
緊張が切れて、シェリーはその場にへたり込んだ。ローグが尾を振り回しながらシェリーの胸に前足をかけ、顔を嘗め回す。ふかふかしたその体を抱きしめながら、シェリーは深く息をついた。
落ち葉のこすれる足音に、シェリーはこの場に人がいたことを思い出した。ローグを離し、公爵に向き直って深く頭を下げる。
「助けてくださって、本当にありがとうございます。足を痛めて立てず、座ったままで失礼いたします」
「礼には及ばん。あなたを助けたわけでもない」
「言い直します。ローグを助けてくださって、本当にありがとうございます」
「…………ああ」
シェリーもローグも、本当に危ないところだったのだ。助けがなければ、シェリーは連れ戻されてヒルドリスの慰み者になり、ローグは傷つけられるか殺されるかしてしまったかもしれない。
(怖かった…………)
座り込んだまま、もう一度ローグを抱きしめて、シェリーは震えを抑えようとした。
「……ローグ、巻き込んでごめんね。でも、修道院に入れれば……」
「……待て」
上から声がかけられて、シェリーは瞬いて見上げた。
「はい?」
「修道院に幻獣は入れんぞ?」
「え!?」




