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公爵が何気なく手を伸ばし、シェリーの手に触れた。
「!」
シェリーはびくっとした。静電気どころか強い電流が流れたかのように体をこわばらせる。
公爵ははっとしてすぐに手を離した。
「すまない、私に触れられるのは嫌だろうな。男に対して嫌な思いをしてきたようでもあるし」
「いえ、その……すみません、失礼いたしました!」
シェリーは動揺したまま謝罪を口にした。
確かにいろいろと嫌な思いをしてきたし、とうとうラグロフ伯爵邸から逃げ出す羽目になってしまったのもその手のことが原因だったのだが。
だが、公爵のことを嫌と思ったことはなかった。ただ動揺しただけだ。
(そういえば、天馬に同乗させていただいたときも……)
あれほど密着していながら、ヒルドリスに対するような嫌悪感は湧かなかった。比較対象があれすぎてあれなのだが。非日常すぎて非現実的すぎる状況だったとはいえ、今思えば、もっと嫌悪感があっても驚かなかった。むしろ、嫌悪感の薄さに今更ながら驚く。
「……あの、その、閣下こそ!」
「なんだ?」
「閣下こそ、私に触れるのはお嫌ではないのですか? 人間嫌いでいらっしゃるとか……」
言いかけて、シェリーは慌てて口をつぐんだ。
本人に確かめたわけでもない、ただの噂だ。噂を真に受けるような物言いは失礼だった。
気を悪くするだろうか。こうした行き違いから関係がこじれ、この城から出ていけと言われる展開にならないだろうか。
シェリーはびくびくしていたが、しかし公爵は怒らなかった。「人間嫌い、か」と苦笑しただけだった。
思わぬ反応に、思わず瞬く。
(閣下は幻獣が好きで人間が嫌いなのだという噂だけど……違うのかしら? 嫌いというよりも遠ざけているような感じだとは確かに思ったけれど。でも、人間嫌いでないなら、なぜこの城にはこんな人間がいないの……? 知られて困るような秘密があるようにもあまり思えないのだけれど……)
公爵の城には門外不出の幻獣がいる云々と噂を聞いたことがあるが、シェリーがここへ来てから、それらしき幻獣は見かけていない。こうした城にありがちな、この部屋にだけは絶対に入るなとか、そうしたことも言われていない。
それはもちろん、シェリーが使用人の分を超えないように弁えているため、というのもある。子供みたいに冒険してみたくはあるが、それよりも下手なことをして追い出されては敵わないという打算が働いた。
いくら自分を有能に見せたいからといって、公爵の執務室に押しかけて書類の整理をするようなことはやりすぎだ。幻獣の世話も、必要そうなら申し出て、言いつけられたことをこなすだけに留めている。専門家でもない部外者が自分の裁量で動くとろくなことにならないのが目に見えているからだ。
忙しそうだと思ったら手伝いを申し出、言いつけられたら嫌な顔をせずに喜んで引き受ける。それだけを心掛けている。必要以外のところには立ち入らないし、掃除の範囲を広げたいときは事前に許可を得るようにもしている。
シェリーがローグと一緒にこの城に居続けたいからというのももちろんあるが、それだけではなく、自分を雇ってくれた公爵に恩があるからでもある。住環境を快適にしてさしあげたいし、自分に出来ることがあればする。
(ラグロフ伯爵邸での掃除では、あれほど心が沈んだのにね……)
自分を好色な目で見てくるヒルドリスをはじめ、尊敬できるどころか関わりたくない人間ばかりだった。その彼ら彼女らが住まうところの掃除を命じられたとて、気分が乗らない。まして伯爵邸では給金が出なかった。名目上は行儀見習いであることをうまく利用され、無給でこき使われていた。
それが、今はどうだ。伯爵邸とは比較にならないだだっ広さの城に、場所によって数年どころか十年や二十年を疑うような埃が積もっている。掃除の大変さが段違いだ。
だが、やりがいがある。きれいになっていく城を、その様子を見て驚く公爵を、もっと見たいと思う。お給金がいいことを措いておいても、働くのが楽しい。
つまるところシェリーは、公爵を嫌ってはいないのだ。若い男性なのに。体格がよくて、強面で、いろいろな噂があって、怯える理由などいくらでも挙げられるというのに。
自覚すると、それは結構な驚きだった。
無意識に考え込んでいたシェリーの沈黙に耐えかねたのか、公爵が取り繕うように言った。
「とにかく、あまり無理をするな。しもやけになったら辛いだろう」
「痛痒いのは確かにつらいですが……それよりもあかぎれの方が厄介です。水仕事をするなら包帯は巻けませんが、それだといつまでも治らなくて……」
「あかぎれ……!?」
公爵が驚いている。まあ確かに、貴族令嬢があかぎれの心配をすることなどまずないことだろう。労働の合間に薬を塗り込み、眠る前にクリームを塗り込み、などとすることなんて想像しないだろう。
(やっぱり、伯爵の馬鹿息子とは全然違うわ……)
ヒルドリスはシェリーの容姿を賞していたが、ドレス姿だと手袋で隠れる手のことなど何も気にしなかった。冬の水仕事も気軽に言いつけてくれたが、もしかするとあかぎれの存在すら知らなかったのでは、と疑う。




