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(噂はおどろおどろしいし、噂を聞いただけだと、どんな狂人なんだと思ってしまうけれど……実際の閣下はぜんぜんそんなふうではなかったわ。ちゃんと常識的というか……いえ、ある意味では思い切り常識外れでいらっしゃるのだけど……)

「……何か?」

 シェリーの意味ありげな視線に公爵が片眉を上げた。シェリーは笑ってごまかした。

「いえ、閣下に雇っていただけてよかったなあと。お仕事も楽しいですし、人間関係の苦労がなくて。閣下も若い男性でいらっしゃるので余計な心配をしてしまっていましたが、失礼なことでした」

 シェリーの言葉に、公爵は少し顔をそむけた。

「……その警戒心は持っておいた方がいい。それにしても……だいぶ苦労してきたようだな。そもそも、若い娘が修道院に入りたがるというのを初めて見た。規律に縛られて労働と奉仕と祈祷に明け暮れ、楽しみの一つもないというのが一般的な認識だと思うのだが」

「労働と奉仕と祈祷に明け暮れるのは望むところです。それよりも、人間関係のあれこれが苦痛でした。食べるものも眠るところもあって、苦労だなどと言うのはおこがましいかもしれませんが……肉体面ではなく精神面のつらさというものも、命を脅かすものだと思っています」

 気の持ちようだ、などと訳知り顔で講釈を垂れる人は蹴飛ばしたくなる。そうのたまう人は実際に体験してみればいいのだ。親から売られるようにしてよその家に放り込まれ、主家の人々から好色な目で見られる……十歳のシェリーにとって、その状況はあまりに過酷だった。頼れる保護者という存在もなく、許されるぎりぎりの範囲で地味さを装い、武器としての知識と敬虔さを身につける。とくに支配者層たる貴族階級にとっては信心深さというものも一種の義務のようなところがあり、教会に寄付したり、慈善活動に参加したりすることが尊ばれる。

(普段の享楽的な生活を糊塗するためとしか思えないのだけどね……)

 シェリーはどうしてもそのように冷ややかな見方をしてしまうのだが、ともかくも、敬虔で信心深い娘という立場はそれなりにシェリーの身を守ってくれた。まだ幼かったということもあったが、神に依り頼む者に手出しをするということは、ダルージア王国の者にとっては気が引けることなのだ。

 こんな話もある。幻獣や家畜や愛玩動物の排泄物を置き去りにされることに辟易した地主が、教会で祈祷をしてもらった像を問題の場所に置いて祀ると、それまでの不心得者がきれいにいなくなったという。信仰を粗末にすると罰が当たる、という感覚は王国民であれば大なり小なり誰しもが持っているものだ。

 シェリーは最初、計算高く信心深さを身につけたのだが、いつしか信仰が拠りどころになっていた。褒められない経緯であると自覚しているが、神はそんな不出来な人間であっても認めてくださる。許してくださる。

 シェリーのそうした信心ゆえの潔癖さが、一方でシェリーの身を守ることになり、他方でシェリーの精神的苦痛を増し加えた。信心深い娘にとって、貴族階級の猥りがわしい色恋沙汰に巻き込まれそうになるのはひどく心に来ることだった。

 そうした十代前半ではあったが、まだ成長途中のその年頃であっても、ただれた交友関係を持つ者は少なくない。恵まれた容姿を持つシェリーがそうしたことにかろうじて巻き込まれずに済んだのは、信仰心と用心深さ、そして仲の良いローグのおかげだった。立派な体格の翼狼に睨まれれば、よこしまな思いでシェリーに近づこうとする者は老若の別を問わず委縮するのが常だった。

 それで済んだのも十六歳になるまでだったのだが、ローグは結局、伯爵家から逃げ出すことになる最後の最後までシェリーを守ってくれたのだ。

 ……というようなことを、シェリーは公爵に全部は説明しなかった。シェリーの信仰心のありようを少し言葉にしただけだ。だが、私的な交友関係が皆無に近いとはいえ幻獣を通して貴族間のことを知る公爵は、だいたいのところを察したようだった。なるほどな、と言葉少なに相槌を打った。

「きちんと理解したと言うのはおこがましいが、なんとなく分かったとは思う。だからあなたは幻獣に忌避感がないのだな。幻獣とともに暮らしながら、ある種内発的に信仰心を育ててきたから。教会で系統だった教えを受けた者であればもっと違った見方をするだろうと思うが」

「そういえば仰っていましたね。幻獣は聖典に記されていない異形の生き物であると……」

 幻獣公爵にとって、幻獣は家族のようなものなのだろう。自虐的な物言いが印象に残っている。

「そうだ。聖典を厳格に解釈する者は、幻獣の存在を世界に許されざるものと見る。…………その主張にも、理がないわけではない」

「…………?」

 付け加えるように口の中で呟かれた言葉は、シェリーの耳にはほとんど聞こえなかった。何か言ったようだというのは分かったが、公爵は説明する気がないようなので聞き返さずにおく。

 ただ、悲しそうな、諦めたような、やるせないような表情だけが、シェリーの心に強く印象を残した。

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