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少女――シェリーは、息を荒げながら必死に走っていた。
暗い中で避けきれなかった茂みの小枝が髪に絡まり、手足はひっかき傷だらけ。しかしそんなことに構ってはいられない。
(逃げなければ!)
その一心で足を動かす。
シェリーを先導して走る翼狼のローグが、ちらりとこちらを振り返る。美しい銀灰の毛並と立派な翼が、月光のもとで白く輝いて見える。
夜目のきかない人間であるシェリーがラグロフ伯爵家の追手を辛くも躱して逃げ続けていられるのは、ひとえにこの忠実な友のおかげだった。
ローグの賢そうな金色の瞳が、励ますように、あるいは遅いと叱咤するようにシェリーに向けられる。
こんな時だというのに、少しだけ心が軽くなった。走りながら、ほんのわずか唇の端を緩ませる。
シェリーはローグのことを友達だと思っているが、ローグの方はこちらのことを、手のかかる妹か、下手をすれば娘のようにさえ思っているふしがあった。
それも故のないことではない。
シェリーが十歳で行儀見習いとして伯爵家に上がったとき、ローグはすでに成体で、下手な使用人以上に弁えた振る舞いをしていた。
実年齢は同じくらい――シェリーは今年で十六歳――なのだが、翼狼の年齢をどう換算するのかはよく分からない。成長速度は狼と同じくらい早いのだが、翼狼と狼とは全く別の種だ。
ローグは、翼狼。幻獣の一種だ。
動物と幻獣との間には深い断絶がある。異種の動物を掛け合わせたような外見をしている幻獣は、決して食用にはならず、ほとんど家畜にもされない。もっぱら愛玩用で、貴族のステータスを示す存在だ。
しかしそんなことは、シェリーにとってはどうでもいいことだった。確かなのは、周りの人々から冷遇されていたシェリーの唯一の味方になってくれたのが、このローグだということだけだ。
シェリーはローグが大好きだし、ローグの方も同じくらい――もしかしたら、それ以上に――シェリーを気に掛けてくれていた。
当主の次男から無理強いをされかけたシェリーを庇って、ともに追われることになるくらいに。
シェリーは走りながら、顔にかかって鬱陶しく視界を遮る髪を払った。髪を縛るものを悠長に探している時間もない。
ふわりと風をはらむ髪は銀色で、白い肌も、ライラックのような紫の瞳も、称賛され羨望の的になるものだが、シェリーにとっては身の危険を増やす厄介物でしかない。シェリーがそれなりの貴族の娘であれば政略結婚に役立つのだろうが、あいにく末端も末端、政略どころか結婚さえ難しい立ち位置だ。そこそこの貴族と正式な縁を結ぶにも立場が弱すぎるが、かといって平民と結婚するのも面子が立たないと周囲が反対するだろう。
残る道はいくつも無いが……たとえば、有力な貴族の愛人の座に収まることとか。
幼い頃から端正な顔立ちをしていたシェリーは、行儀見習いという名目で――厄介払いも兼ねて――伯爵家の誰かの目に留まり、愛人になることを期待されて送り出されたのだ。
だが、それを理解しているからといって、受け容れたわけではない。伯爵家の次男という大物を釣り上げたと聞けば実家は喜ぶだろうが、当人としては堪ったものではない。伯爵家の次男ヒルドリスが最低の男だというからというのもあるし、そもそも誰かの愛人になることもまっぴらだ。聖典にあるように一夫一妻を守るか、そうでなければ生涯独身でいたい。行儀見習いとして過ごせる期間を過ぎたら、どこかの修道院に入ろうと考えていたのに。
(……外見だけを見て寄ってくるような男なんて大嫌い。女なら誰でもいい、若くて見目が良ければ尚更いい、連れ歩けば自慢できる……そんな魂胆を隠しもせずに近付いてくるなんて、本当に信じられない)
そんな奴とどうこうなるなんて絶対に御免だ。とにかく、隣の地域にある修道院に逃げ込むのだ。神の家なら、いかな伯爵家とて手出しは出来まい。
街道を行けばすぐに見つかって捕まってしまうから、夜の森を抜けるしかない。人里に近く、木々があまり密に生えていない森だ。それに今夜は満月、木々の合間から明るい月光が降ってくる。心強い味方のローグもいる。好条件が揃っているのだから、夜目が利かないなどと泣き言を言っている場合ではないのだ。
「……っ!」
どれほど走った頃だろうか。隆起した木の根に足を引っ掛けて、シェリーは勢いよく倒れ込んだ。走れるくらいには木々がまばらだが、こうしたものも当然ある。気を取り直してすぐに立とうとするが、足首に激痛が走って力が入らない。ひどく捻ったか、悪くすれば折れてしまったかもしれない。
「っく……」
木の幹に縋って立とうとするシェリーのところに、ローグが駆け戻ってきた。急かすように服の裾を咥えて引っ張ろうとする。
「ローグ……あなたは逃げて。戻るのでもいいから、私のことは放っておいて。巻き込んで、ごめんね……」




