真 迷イ路〜マヨイミチ〜
ねえ、転校生ちゃん。知ってる? 迷イ路の噂。
夜中、暗い時間にね、街を一人で歩いていると、黒い影みたいなものに、引き摺り込まれちゃうの。
それが、迷イ路。
迷イ路にはね、沢山、影みたいなものが潜んでいるんだよ。
それで、迷い込んだ人間を、ひっそりと、食べちゃうんだって。
影に捕まったら、食べられちゃうんだって。
だから、迷イ路に迷い込んだら、もう、出てこられないんだよ。
でも、一つだけ出てこられる方法があって
それはね————、
* * *
……酷い頭痛だ。今まで、これほどの頭痛に悩まされたことがあっただろうか。
痛む頭を押さえ、ポケットから取り出した携帯を開いた。普段ならば時間やその他情報が表示されるはずのその画面は、ノイズがかったようになり、壊れたのかと疑うほどだった。
やはり、今時ガラケーというのは古いか。
早々にスマートフォンへと乗り換えなかった自分を恨み、私は、今の状況を確認しようと、ライトを点灯させた。他の機能はいかれていたが、ライト機能はちゃんと作動するようで、携帯の裏側から弱い光が発される。
「……ここは……」
見知らぬ光景に、記憶の糸を手繰ろうとするが、一部の記憶は欠落してしまったように思い出せない。
私は確か、あの夜道で……。
そうだ。学校で遥に聞いた怪談話が妙に気になって、それを実際に確かめてみようと、その通りの行動をとったのだ。
つい先日引っ越してきたばかりのこの町には、七不思議というものがあるらしい。その一つ、『迷イ路』。私が遥に聞いた噂は、それだった。
——夜中、暗い時間にね、街を一人で歩いていると、黒い影みたいなものに、引き摺り込まれちゃうの。
昔から怪談や噂、七不思議というようなオカルトに弱かった私は、それを確かめずにはいられなかった。一つ前に聞いた噂には、いまいち惹かれなかったが、こちらには妙に心惹かれた。
だから、それを確かめるべく、実際に一人で夜道を歩いていたのだ。学校からの帰り、家には帰らず、制服のままファーストフード店で時間を潰し、そのあと、暗い夜道を一人で歩いていたはずだった。
そして……そう。黒い影のようなものを見た。
輪郭はぼやけ、細長い人型の、真っ暗な影。それを見たあと、私は一瞬意識を持っていかれ、気付けばここにいた。
鞄、服、全てそのままに、私は、見知らぬ暗い路地に立っていたのだ。
「迷イ路の噂、本当だったんだ……」
さっきから、心臓がドクドクと五月蝿い。期待半分、それから、もう半分は——恐怖。そう、私は恐れている。この迷イ路に来てしまったことで、自分が、どうなるのかを考えて。
遥はこの迷イ路のことを、なんと言っていただろうか。
確かここには……『影』が、沢山潜んでいるのだ。その影に捕まれば、食べられ、死に、ここから出られなくなる。
影、というのが何なのか、具体的には分からない。ぼんやりとイメージはつく。恐らく、ここに来る前に見た、あの人型の黒い何かのようなものだろう。あれもちょうど、影と呼ぶのにふさわしい姿をしていた。
あんなものが、ここには無数に存在している。そしてそれは、私を食べるために、捕まえようとしてくる。
——でも、一つだけ出てこられる方法があって。
……遥は、その後に何と言っていただろうか?
その先を思い出そうとすると、頭痛が一層酷くなる。思い出そうとすればするほど、思い出すな、思い出させまいと、何かの意思が働いているかのように、私の思考を邪魔してくる。
遥の言葉を思い出さぬ限りは、この『迷イ路』から脱出することは叶わない。
「そうだ、電話かメール……」
分からないのなら聞けばいい。そう考え、私は携帯を開き、遥へと連絡を取ろうと試みた。
しかし、忘れていた。携帯が機能しないことを。それに、ここは圏外だ。機能したところで、メールも電話も繋がるまい。
詰んだ、というのは、こういう状況のことを指すのだろうか。私に思い出せることはないし、かといって、頼みの綱の遥と、連絡を取り合う手段もない。
ここでじっと、来ないであろう助けが来るのを待つべきか。そうも考えた。だが、それも、不可能だと悟った。
ソレが、視界に映ったからだ。
「……ぁ」
黒く揺らめく人型の何か。遥が言うところの『影』だ。少し先にある、切れかけの街灯の下。チカチカと点滅するオレンジの光に照らされ、ソレは、そこにいた。
少しずつだが、その影は、こちらに向かって近付いてきているように見えた。このままここにいれば、間違いなく、捕まってしまうだろう。
……逃げなくては。
振り返れば、幸いにも後ろにも道は続いている。影は見当たらず、そちらへ逃げるのが得策なように思えた。
私は振り返り、そのまま、影の方を見ることもなく走り、逃げた。
……はっ、はっ……
息が切れる。体力には自信がある方だが、捕まれば死、という危機的状況で逃げることには慣れていない。慣れないことをすれば、普段よりも多く体力を持っていかれる。温存しながら走らなければ、そう長くは保たないだろう。
「体操着っ、着てて良かった……!」
影が来ていないことを確認した私は、あまりの走りづらさに、スカートを脱ぎ捨てた。体育の授業があったおかげで、その下には体操着のズボンを履いていた。同じ理由で、ローファーではなくスポーツ向けのスニーカー。噂を聞いたのが今日で、本当に良かったと思う。
影は来ていない。遥の話では、この迷イ路には大量の影が潜んでいるらしいが、その気配はない。走りながら確認したのも、あの場にいた一つだけ。それは偶然、運が良かっただけなのか、それとも、陰から獲物を狙っているのか。この場合の獲物というのは、当然、私のことだ。
私は体力を回復するため、一時、足を止めた。肩で息をし、呼吸を整える。薄暗いここは少し肌寒いが、走ってきたおかげで、身体は火照っている。
「はぁ……案外、逃げられるかな……」
逃げていて、そんなことを思った。
あの影は、足が遅い。精々、私が歩いている時と同じ程度の速度だろう。ならば、走れば追いつかれない。ああして遭遇したならば、逃げるのは、想像していたよりも簡単なのかもしれない。
——影に捕まったら、食べられちゃうんだって。
火照っていた身体が、急激に冷える。
駄目だ。逃げられるのかもしれない。でも、そうやって楽観視して、もし捕まったらどうする? 捕まったら、私は死ぬ。逃げられるから良いのだと、そう簡単な話ではないはずだ。
先ほどの光景が、脳裏から離れてくれない。あの影には……一切の光がなかった。あんなものが、もし、目前に迫った時、私はその闇に呑み込まれないだろうか?
そう考えると、感情の半分を占めていた期待が、一気に薄れていく。それ程余裕ぶってもいられない。死なないために、私は逃げて、逃げ続けて、ここから出る方法を思い出さなくてはならない。
オカルトが好きだという性格が、ここまで仇になるとは思わなかった。好きではあるが、心のどこかで、そんなものは存在しない、あり得ないと否定し続けていたからだ。
実際に遭遇してみれば、それは、私たちの『常識』という尺度では測れないくらい恐ろしいもので、人が容易く触れてはならない領域だった。
「遥……助けて……」
ここにはいない、転校して初めて出来た友人に、助けを求める。その声は、虚空に消えた。
——ズル、ズルル、ズル……
否。
それを聞き届けていたものは、確かにいた。しかし、それは遥ではなく、人間でもなかった。
二度見た影とは違う、大きな影が、気付けば私から数メートル離れた後ろにいた。肥大化した足を引き摺る音が、迷イ路に、不気味に響き渡っている。
……ドクン
……ドクン
……ドクン
光を宿さないその影を、私の本能が恐れている。いや、理性も。私自身、それを恐ろしいと思っている。だから、逃げなければならない。
なのに……足が動かない。
私をここに迷い込ませたあの影も、その次に出会った影も、まだ人の形をしていた。随分と痩せ細ってはいたが。
でも、こいつは違う。辛うじて人型をとどめてはいるが、ただの塊といったほうが理解は早い。異形のそれを目の前にして、私は、恐怖のあまり動けなくなっていたのだ。
こんなものが、無数に存在するって、いうのか。
「……嫌」
自らの理解の範疇を越えた現実を受け入れた時、私は、咄嗟に拒絶していた。
こんな化け物に、捕まりたくないと。食べられたくないと。
恐怖で足は動かなくなっていた。と同時に、その恐怖が、足を動かそうとしていた。
「私、こんなところで、死にたくない……!」
気が付いた時には、自身の出せる最高の速さで駆け出していた。死にたくない。ただそれだけを考えながら、迷イ路の中を、ただひたすらに走った。
そして、その大きな影から逃げていた時、ポケットの中で携帯が鳴った。『ピロロン』という古びた音声は、メールの受信を知らせるものだった。
こんな時に、誰からメールが来るというのだ。
いや、そもそも。
メールなど、来るはずもないのに。
ここは圏外で、迷イ路の力か、携帯もおかしくなっていた。メールなんて、出すことも、受け取ることもできなかったはずなのに。
確認したい気持ちはあったが、それよりも、あの大きな影から早く遠ざかりたいという気持ちの方が大きかった。 できる限り遠くへ。あいつが見えなくて、あいつから見えないくらい、遠くへ。
数分程度走っただろうか。焦りと不安からフォームはガタガタで、最初に走った時よりも疲労は大きかった。塀に背中を預け、私は、右ポケットから携帯を取り出した。
確かに、そこにはメールが届いていた。届くはずのないメールだ。送り主も潰れて確認することができない。しかし、その中身を見て、私は確信した。
『転校生ちゃん、今、迷イ路にいるの?』
私のことを転校生ちゃんと呼ぶのはたった一人。
遥だ。このメールは、遥からだ。
「遥っ……!」
あまりの嬉しさに、私はすぐに返信ボタンを押し、遥へとメールを送った。この状況を説明し、そして、ここから脱出するための方法が分からない旨を綴って。
メールは、すぐに返ってきた。
『転校生ちゃん。落ち着いて。周りに影がいないことを確認してから、この先を読んで』
メールはかなりの長さで、迷イ路からの脱出方法がこと細やかに綴られていた。私は遥の忠告通り、周りに影がいないことを確認してから、下キーでスクロールしていった。
・迷イ路には、たった一つだけ、『白いポスト』が存在する。まずはそれを見つけること。
・白いポストを見つけたら、自分の髪を切って束ね、入れること。
・必ず『白いポスト』に入れること。赤いポストに入れると、二度と出られなくなる。
『転校生ちゃんは私の話を聞いて、鞄にカッターナイフを入れていたから、髪を切る時にはそれを使うといいよ。束ねるのにはヘアゴムを使って』
『でも、気を付けて。影には絶対に捕まらないこと。影はどこから現れるか、分からないから』
鞄を漁れば、確かにカッターナイフが入っていた。普段は忍ばせていないことを考えると、遥から脱出方法を聞いた時に仕舞ったのだろう。今は、忘れてしまったが。
メール本文はそれで終わり。かと思われたが、どうやら、スクロールバーはまだ下へと続いているらしい。私は気になって、そのまま下キーを押し続けた。
『それから』
遥の言葉が続いていた。
『嘘吐きの影には、決して惑わされないこと』
「嘘吐きの……影?」
言葉通りに捉えるとするなら、言葉を発する影がいて、その影は嘘を吐くということだろうか。だが、そんなことがあるのだろうか?
あの影たちが、言葉を発するとは思えない。光さえも呑み込み、黒一色の化け物のようなアレが。そのような知性を有しているとは、到底思えないのだ。
だが……遥は、恐らく、誰よりも噂に詳しい。その理由は私も知らない。だけど、その遥が言うのだ。その『嘘吐きの影』とやらは、相当危険なのだろう。
分かったよ、遥。
心の中でそう呟き、遥に感謝した。その頃にはもう、何故メールが届くのか、そんな疑問は忘れ去っていた。
影から逃げつつ、白いポストを探す。
噂に対する期待は、とうに全て失われていた。代わりに、先ほどまでは恐怖がその殆どを占めていた。
けど、今は違う。今は、『希望』が現れた。遥のおかげだ。ここから抜け出す方法が分かったことで、体力も戻り、元気になったような気がする。
絶望、恐怖。そういった負の感情が、遥のメールのおかげで、正の感情に塗り潰されていく。まるで、絵の具のように。
私はもう、大丈夫だ。影に対する恐怖は、まだ、当然残っている。
けれど、逃げ切ってみせる。必ず。こんなところで、死んでたまるか。
大いなる希望。それを胸にしまい込んで、少しずつ、歩みを進める。切れかけの街灯が、チカチカと、私を照らした。
……ケラケラ
——ケラ、ケラ
——ケラケラケラ……
あちこちから、奇妙な笑い声が聞こえる。勿論、私の笑い声ではない。この場にいる私以外の存在など、もう、一つしかない。
影だ。
痩せ細った人型の影。肥大化した足を持つ巨大な影。その他にも、無数の影が存在するのだろう。彼らはいつも、何処かから私を狙っているのだろう。そして、捕まえて、食べてしまうのだ。
遥のメールにあった白いポスト。それは一体、どこにあるのだろう? 赤いポストは駄目だ、とあったけど、その赤いポストさえも見つからない。ここには街灯と私、そして影たちしかいない。
体力は既に限界を迎えていた。今は根気というもので何とか乗り切ってはいるが、それも長くは続かないと思う。私は一刻も早く、この迷イ路から抜け出さなくてはならない。
……その時だ。目の前に影が見えた。先程までの声の主は、この影だろうか?
それは、見たこともない姿をしていた。人型ではあるけれど、小さい。幼稚園児ほどの大きさの影が、四体、通路の先に群がっている。
あれから逃げ切ることは……不可能じゃないか。大体のパターンも分かってきた。あの影は、恐らく素早いのだろう。それが四体もいれば、逃げ切ることなど到底不可能。
引き返すべきか。或いは、賭けに出て進むべきか。引き返したところで、どこに行けると言うんだ。ここまでは殆ど一本道。引き返しても、結局はこの道に戻らなければならない。
私よりあいつらが速いか、あいつらより私が速いか。幸いにも、横の道幅は広い。四体の影がいても埋まるのは半分ほど。どうにかして端の方に固まることができれば、その横を抜けることは可能かもしれない。
……試すしかない。私は生きて、ここから抜け出すんだ。
私は、足下に落ちていた手頃なサイズの石を拾った。もし失敗した時は、直ぐに引き返して逃げる。
「……いけ」
その石を、私から見て左側の通路の壁付近に目掛けて投げた。その石は四体の影の遥か頭上を飛び越し、その少し先で落下した。大きめの音が響いて、影たちは、それにつられて壁際に固まりだした。
今だ。
「はっ……!」
屈み、全身をバネのようにして、その右側を走り抜けた。影たちは直ぐに私に気がついたようだったけれど、私は止まらない。予想通り速い影たちは、四体群がって走り、私を追いかけてきたが、追いつけない。私はそのまま四体の影を突き放し、通路の奥へ走り抜けた。
息が切れる。心臓が痛い。極度の緊張状態と幾度の全力疾走。体力は限界を越え、支えが無くてはまともに歩くことすらままならない状態。そんな状態でも私は、希望を胸に、前へ前へと進んでいた。
「遥……」
私を救うべく、脱出の手掛かりをくれた友人。今すぐ、彼女に会いたい。会って、泣きつきたい。そんな想いを抱えながら、私は白いポストを探していた。
しかし……遥の言う白いポストどころか、罠であるはずの赤いポストすら、周囲には見当たらなかった。これまでの道で見落としたというわけでもない。ただただ、不気味な暗い夜道だけが続いていた。
「いったい、どこに……」
全神経を耳と目に集中させ、ポストを探しつつ、影の奇襲への警戒も怠らない。少しでも音がすれば、反射的に走り出すように、意識を作り変えていく。
そうして、どれくらい歩いただろう——大きな交差点に差し掛かり、どの方向へ向かうか、周囲の状況を確かめている時だった。
「……あれはっ……!」
すぐさま、それに駆け寄る。そこにあったのは、紛れもない、赤いポストであった。
これが、遥のメールにあった赤いポストだ。間違ってここに髪の束を投函すると、私は二度と、この迷イ路から出られなくなる。
まるで血で染め上げたような不気味なポスト。触れることすら憚られるそれを横目に見ながら、私は、通路の先へと進もうとした。
——ごとん
……後方から、何か鈍い音がした。まるで、それなりに重量のあるものが、高いところから転がり落ちたような。
慌てて振り返ると、そこには影がいたわけでも、他の何かがいたわけでもない。ましてや、地面に何か、重たいものが落ちているわけでもない。ただ、そこには……ポストの前には、先ほどまでは確実になかった、赤い封筒が落ちていた。
「これは……」
思わず拾い上げようとして、止まる。赤いポストは罠だ。この封筒も、きっと、罠に違いない。そんなことは分かっていながらも……気付けば、それを拾い上げていた。
何か、脱出の手掛かりになるものが入っているかもしれない。遥からのメールで希望は持てたものの、度重なる逃走劇で、私の心は既に折れかけていた。少しの手掛かりでも逃したくないと、弱気になっていたのかもしれない。
——結果として、それは間違いではなかった。恐る恐る封筒の中を改めると、そこには一枚の便箋が封入されていた。
表面には、鉛筆で塗り潰したような、黒い塊が描かれている。それはまるで、この世界にいる『影』のような何かだった。
裏面には……何か、文章が記されていた。周囲の様子を窺い、影が近くにいないことを確認すると、私はそれに目を通した。
『うそつきのかげは しょうじきもので うそつきもの』
『うそつきのかげは まどわしてくる』
『うそつきのかげは いつもちかくにいる』
『うそつきのかげは ことばをつかう』
そこから先は、掠れて読み取ることができなかった。
「……どういうこと……?」
嘘吐きの影は、正直者で、嘘吐き者。
嘘吐きの影は、惑わしてくる。
嘘吐きの影は、いつも近くにいる。
嘘吐きの影は、言葉を使う。
書いてあることをそのまま読み取るならば……嘘吐きの影は嘘だけではなく『本当のこと』も言う。奴はいつも近くにいて、私を惑わしてくる。そして、言葉を使う。
嘘つきの影といえば、遥のメールにもあった名前だ。遥も、嘘吐きの影には惑わされるなと言っていた。
となると……この手紙は、遥からのものなのだろうか。困っている私に対してのアドバイスなのだろうか。いや、だとしたら……わざわざ警戒するように言っていた、赤いポストから吐き出させるようなことをするだろうか? また、メールを送れば済む話だろう。
「遥……これって、いったい……」
どういうことなの。そこにはいないはずの友人にそう問おうとして、私はおもむろに、視線を下に向けた。そして、そこにいたそれと目が合った。
——生首だ。私によく似た顔の生首が、地面に転がっていた。私のことを、じっと、魚のような目で見つめている。
「ひっ……!?」
思わず腰を抜かし、後退る。私によく似た顔のそれの視線が、私を追いかけて動いていた。
……そういえば、先ほど聞いたあの音。ごとんという、何か重たいものが転がり落ちたような音。どう考えても、あれは手紙がポストから舞い落ちた時の音ではない。それこそ、丁度、生首くらいの何かが地面に転がり落ちたような音だった。
先ほどまでは確実になかったそれ。明らかに異常なものであるものから逃げるように、私は急いで起き上がると、真っ直ぐに走り出した。
音は聞こえない。何も聞こえない。あの生首は追いかけてはこないようだった。これまでの影とは違う、明らかに異質なもの。まるで、影に捕まったあとの自分の未来を見ているかのような、不安感。
その全てを振り切るように、私は駆けた。駆けて駆けて駆けて——そうして、あの赤いポストが見えなくなるほど遠くまで走って、立ち止まった。
「はっ……はっ……!」
膝に手をつき、肩で息をする。もう限界だ。もう、一歩たりとも動けそうにない。思いもよらぬ異物のせいで、余計な体力を使ってしまった。
壁にもたれかかり、その場に崩れ落ちる。周囲に影の姿はない。私は膝を抱え、頭を埋め……ここに来て、初めて涙を流した。
もう、どうにもならないかもしれない。死んでしまうかもしれない。酷く弱気になって、ヤケになった。
——ピロン
そんな時、ポケットの中の携帯から、メールの受信音が鳴る。
急いで取り出して見れば、やはり、送信者は潰れて見えないものの……遥らしき人物から送られてきたメールが届いていた。
『転校生ちゃん、諦めないで』
『転校生ちゃんなら出られるよ』
『だから、白いポストを探して』
それは、励ましの言葉だった。一人心細い私に寄り添ってくれる、ただ一人の味方。きっと、外の世界で待ってくれている友人。
「遥……」
そうだ。弱気になっている場合ではない。私はここから出るんだ。必ず。助けてくれている遥のためにも。
脚を叩き、壁を支えにして立ち上がる。そして、ゆっくりと歩き出した。影がいない間は走らなくてもいい。極力歩いて体力を温存する。そうして影が現れたら、残った体力で逃げるんだ。
——ケラケラケラ
——ケラケラケラケラ
——ズル、ズル、ズル
どこから聞こえているのか分からない不気味な音が、辺り一面から聞こえる。影だろう。私を喰らうために、血眼になって私を探しているのだ。
そうして、何かを探しているのは私も同じだった。ここから脱出するための鍵である白いポスト。暗いこの世界では、それはさぞ目立つものだろう。見落とさないよう注意しながら、分岐路に立てば、目を凝らして全ての路の先を確認する。
「——あった」
そうして、見つけた。三叉路の先、真ん中の道の先にある、この世界に似つかわしくない白い何かを。
体力が限界を迎えていることなど忘れ、私は小走りになった。何度か躓いて転びそうになりながら走って、そうして、それの前に立つ。
……白い、ポストだ。あの不気味な赤いポストとは違う、どこか暖かさを感じる綺麗なポスト。
「これ、だ……これで、ここから……!」
こういう時こそ、冷静にならなくてはならない。まずは遥のメールをもう一度確認した。私がここから脱出するためには、切った髪の束を、この白いポストに入れなければならない。赤いポストに入れれば、二度とここから出られなくなる。
……間違いない。これで、正しいはずだ。
私は鞄からカッターナイフを取り出し、自身の髪に当てた。念の為に長めに切り取ると、それをヘアゴムで束ね、ポストの前に立つ。
あとはこれを、ポストに入れれば……ここから、出られる。
「これで、やっと……」
高揚した気分を抑えることができない。何せ、ようやく死と隣り合わせの状況から抜け出すことができるのだから。
落ち着くために一度、二度と深呼吸をする。冷静になれ、冷静になるんだ。こういう時こそ冷静に、間違えないようにしなくてはならない。
私は、束ねた髪をポストに入れようと、手を伸ばし。
——そうして、深呼吸をして落ち着いたからだろうか。伸ばした手を、ぴたりと、止めた。
「……そういえば」
脳内に、一つの疑問がよぎる。
『嘘吐きの影とは、なんだったのか』
単純に考えれば、私に嘘を吐く影だ。確証はないが、あの時見た生首がそれだったのかもしれない。しかし……冷静になって考えてみると、遥のメールも、あの手紙も、嘘吐きの影の特徴について気になる書き方をしているのだ。
『嘘吐きの影に、惑わされるな』
『嘘吐きの影は、惑わしてくる』
細かいようだが……この書き方に、妙な違和感を覚えた。
「……普通、『騙す』だよね?」
嘘吐きに騙されるな。嘘吐きは騙してくる。私なら、わかりやすくそう書くだろう。単に、遥の性格上、こういう書き方をしたのかもしれないが……どうにも、『騙す』ではなく『惑わす』という書き方に、違和感があった。
それに、あの赤い封筒の中に入っていた便箋に書かれていたこと。嘘吐きの影は正直者で嘘吐き者。いつも近くにいて、惑わしてくる。つまり、嘘吐きの影は時折、本当のことも言うらしい。
だからこそ、騙されるな、ではなく、惑わされるな、なのだろうか。本当と嘘を見極めろと、そういう意味で。
だとしたら——、
「……近くにいる、っていうのは……?」
遥のメールには、そんなことは書いていなかった。もしかすると、あの手紙自体が嘘吐きの影だったのかもしれない。けれど、わざわざ『近くにいる』と書いてあったことには、何か意味があるような気がしてならない。
私は不意に、周囲を見渡した。近くに、そのような影はいない。近くにいるという文章そのものが嘘であった、ということだろうか。
私はもう一度、遥のメールを開いた。やはり内容に変わりはなく、白いポストに髪の束を入れろと、そう綴られている。
「……よし」
頷き、決意を固める。携帯を閉じて、再びポストへと手を伸ばし——そして、再び、止めた。
「……いや、嘘でしょ」
ある一つの可能性に、辿り着いたからだ。慌ててポストから離れ、髪の束を鞄に仕舞う。そして携帯を取り出して、画面を確認した。
やはり、圏外だ。画面はノイズが掛かったように、文字は文字化けしてまともに読むことができない。うっすらと周囲を照らすライトだけが、まともに機能していた。
——そうだ。確かに、最初は疑問に思ったんだ。何故、『遥からのメールだけが届くのか』、と。
この携帯はまともに動く状態ではない。メールを送ることもできなければ、電話をかけることもできない。遥からのメールだって、送信者の部分は潰れて読むことができない。だからこそ、私は疑問に思ったんだ。彼女からのメールが届いた時、『この携帯は使えないはずだ』と。
それが、メールの中身を見て、希望を抱いた瞬間に、その疑問を放り投げた。どこかへ。綺麗さっぱり、忘れてしまった。
『嘘吐きの影は、いつも近くにいる』
そうだ。嘘吐きの影はいつも近くにいる。でも、私は嘘吐きの影がどんなものかを知らない。たとえばそれは、影のような形ではなく、もっと何か別の形を……そう、機械の形をしていてもおかしくはないのではないか?
「……まさか、ね。いや、まさか……そんなわけが……」
この携帯が、嘘吐きの影か?
一度抱いた疑念は膨れ上がり、萎むこともなく、膨らみ続けた。何度も遥のメールを読み、それに返信しようと試みるものの、成功しない。
『惑わされるな』
私のこの疑念は正しいのか? それとも……惑わされているのか?
ポストから一歩後退り、二歩後退り……何も信じられなくなって、壁に背中がついた。その時だ。
——ピロン
——ピロン、ピロン
——ピロン、ピロン、ピロンピロンピロンピロンピロン
鳴り止まない通知が、携帯から鳴り響いた。
『転校生ちゃん、惑わされないで』
『早くポストに髪を入れて』
『早くしないと手遅れになる』
『早くして』
『ハヤク』
『ハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤク』
「ひっ……!」
私は思わず、携帯を放り投げた。壁に当たって転がった携帯が、うぞうぞと、一人でに動き出す。暗闇から触手のようなものが現れると、携帯を呑み込んで……やがてそれは、大地を揺るがすほど、大きな影になった。
通路の幅いっぱいに広がる、影。それは、明らかに、私に狙いを定めているようだった。
……逃げなければ。
少しずつ後退り、私は……バネのように跳ね上がり、来た道を引き返した。全速力で疾走し、目的地もなく、ただ道の先へと。
影は私を追いかけてきているようだった。ようだった、と仮定形にしているのは、振り返る余裕すらないからだ。ただ、今までの影と違って、どれだけ全力で走っても、音が大きく離れることはない。
それどころか、時折、小さな瓦礫のようなものが飛んでくる。恐らく、道を破壊しながら突き進んできているのだろう。嘘吐きの影……奴がここの、親玉的存在なのかもしれない。
「はっ……はっ……あれはっ……!?」
ずっと走っていると、通路の先に赤いポストが見えた。あの手紙を拾った場所だ。生首は既にそこにはなく、ポストだけがポツンと立っている状況だった。
「っ、そうだ……白いポストに入れるのが嘘なら、赤いポストに入れるのが……!」
ポストの前で急停止する。影は少し後方を走っているようで、ほんの少し余裕はある。
嘘吐きの影は嘘を吐いて惑わす。奴のメールに、赤いポストではなく白いポストに入れろ、と書いてあったということは、つまり正解は——。
鞄の中から髪の束を取り出そうとして、指先に、くしゃりと、紙のようなものが触れる感触があった。それは、あの手紙だ。
『嘘吐きの影は、正直者で、嘘吐き者』
「……違う」
嘘吐きの影は、嘘を吐いて惑わしてくる。あの影の反応を見る限り、白いポストとはすなわち嘘だったのだろう。
だとしたら……正直者、とはなんのことだ? 一体、どこが本当の部分だったんだ?
嘘吐きの影は惑わしてくる、というような内容が真実だった可能性はある。ただ、もう一つ……明確に、奴が断言していたことがある。
『赤いポストに入れると、二度と出られなくなる』
もし、それが真実なら……ここに髪を入れるのは駄目だ。白いポスト同様、出られなくなる。あの影が追ってきているのは私を憔悴させ、考える余裕を無くし、この赤いポストに髪を入れることこそが正しいと思わせるためかもしれない。
——いや、だとしたら。
「いったい……ここから出る方法って……!?」
あの手紙も、もしかしたら嘘吐きの影なのかもしれない。ただ、この状況では、遥からのメールよりもあの手紙の方が信用できる。ならば、この赤いポストも偽物だと仮定して、ここから脱出する本当の方法は何なのだ?
考えろ。考えろ、考えろ。惑わされるんじゃない。状況から考えるんだ。
私は確実に、遥から脱出するための方法を聞いている。であるならば、何か私に、いつもと違う何かがあるはずだ。それは一体、何か。
「……カッターナイフ」
私は鞄からカッターナイフを取り出した。いつもは鞄に入っていないものだ。遥から脱出方法を聞いてこれを忍ばせたとするなら、脱出には必ず、このカッターナイフを使うはず。
では……こう仮定しよう。カッターナイフの使い方が違うのだと。髪を切ることは正解なのではなく、何か他の使い方があるのだと。
「……分からないっ……カッターなんて、何かを切るとか刺すとか、そのくらいしかっ……!」
銀色に輝くカッターナイフを見つめ、思考を張り巡らせた。そして——ふと、あることを思い出した。
鞄の中の手紙を取り出し、その最後の行を読む。
『嘘吐きの影は、言葉を使う』
つまるところ、メールの文章然り、手紙の文章然り、そういったもので嘘を吐くということだろう。仮に、この手紙が信用できるとするなら……裏を返せば、『言葉を使わないものは信用できる』ということではないだろうか。
一つ、思い当たるものがある。この暗闇の世界で、真っ黒な影に塗れたこの世界で、唯一『異質』だったもの。
「……生首」
それは、私によく似た顔の、あの生首だ。影とは違い、人間の頭部そのもののような見た目だったそれは、明らかに、この世界から浮いていた。
そしてあの生首は、言葉を発することもなく、ただそこに落ちているだけだった。この手紙と同時に落ちていたということは……つまり、そういうことなのではないか?
「……いやいやいやっ、そんなの、もし違ってたらどうなるかっ……!?」
影はすぐそこまで迫っている。あまり、考えている時間はない。躊躇っている時間もない。
あの生首がもし、嘘吐きの影ではなく、何か別の意味があるとするなら。そして、普段は持っていないはずのカッターナイフを持ち合わせていた理由とは。
「……く、うっ……」
私は躊躇しながら、カッターナイフを首に当てる。嘘吐きの影を直視しながら、その場に立ち尽くし、足を震わせていた。
心なしか、嘘吐きの影が吠えているような、そんな気がした。言葉にならない呻き声のようなものを、私に向けて放っている。
……嫌がっているように見えた。まるで、私の選択が、奴にとって不都合であるかのような。
「……どうせ、もうお前から逃げられないなら、私はっ……!!」
私はカッターナイフを持つ手に力を込めた。そして、ゆっくりと首筋に刃を食い込ませ。
……思い切り、引き切った。
——目が覚めると、目の前には綺麗な夜空が広がっていた。体をゆっくりと起こすと、私はどうやら、公園のベンチに寝かされているようだった。
「こ、こは……」
まだ、迷イ路の中なのだろうか。私は選択を間違えたのか? それにしては、あの空間特有の緊張感のようなものが無いように感じる。
「……あ、起きた?」
どこからか、そんな声が聞こえる。
「……遥?」
「うん。私だよ、転校生ちゃん」
近くで伸びをしていたのは、遥だった。どこからどう見ても、遥だった。
私は慌てて立ち上がり、遥に抱き着いた。その場に押し倒すような形になって、遥が情けない声をあげる。
「て、転校生ちゃん、痛いなぁ」
「わ、私っ……私はっ……!」
「分かってる分かってる。迷い込んじゃったんでしょ? あの路に」
私の背中を摩るように、遥が腕を回す。一気に不安から解き放たれた私の目からは、大粒の涙が溢れ出ていた。遥の服を濡らすことさえ厭わずに、私は思い切り泣いた。
「よく無事に帰ってきたね、偉い偉い」
「は、遥ぁ……!」
しばらく泣いて……それから、私は遥に、あの路で起きたことを話した。
「ふぅん……確かに、転校生ちゃんの携帯は嘘吐きの影だったみたいだね」
「やっぱり?」
遥に事情を説明しているうちに、私は、あの時遥に聞いていた話の全てを思い出していった。
迷イ路に関すること。嘘吐きの影に関すること。脱出方法に関すること。
記憶を失ったのは、恐らく、迷イ路にそういう作用があるからということで……遥も、詳しくは知らないようだった。
「私からメール届いたんでしょ? 迷イ路の中じゃ携帯は使えないからなぁ」
「それにもっと早く気づいていれば……」
携帯が使えないことに気づいていながら、遥からのメールということで安堵して、その疑念を放り投げた。あまりにも阿呆な私の行動を叱責したいくらいだ。
「あ、じゃあ、あの手紙は? あれも嘘吐きの影なの?」
「それは違うと思う。転校生ちゃんは路に迷い込んだ時に記憶を失くしたみたいだけど……多分、その記憶が、手紙っていう形で現れたんじゃないかな」
「記憶が?」
こくりと、遥は頷いた。
「路の中だとよくあるみたい、そういうの。実際問題、転校生ちゃんは私が話してた内容、半分くらい忘れてたんでしょ? 嘘吐きの影のことも、脱出する方法のことも」
「うん……」
失った私の記憶は、失われつつも、あの路に干渉していた。以前遥が、迷イ路は『悪夢』のようなものだと言っていた。本質としては夢の中だから、記憶がヒントとして現れた……ということかもしれない。
私が頷くと、遥はベンチに座ったまま、感心したように手を叩いた。
「でも、記憶がないのによく脱出できたね。カッターナイフと生首を見て思いついたって……思いついても普通やらないよ、自殺なんて」
そう。迷イ路からの本当の脱出方法。それは、自分で自分の命を断つこと。自殺方法は問わない。最も手頃なのは、刃物のようなもので、体の太い血管を切ることだろう。首だとか。
だからあの時、生首が落ちていたのかもしれない。あれは私の記憶が生み出したヒントだった。元々、路の中ではカッターナイフで首を切って死ぬ予定だったために、あの生首が現れたのだろう。
そのことを考えると、途端に背筋が冷たくなる。夢の中とはいえ、一度は自殺しているのだ……思うところがないわけがない。
「今考えるとゾッとするよ……追い込まれてたとはいえ、よくやったなって思う」
「あはは。間違って影に切り掛かったりしてたら、一瞬でお陀仏だったね」
「笑い事じゃないんだけど」
そう文句を言うと、遥は意味ありげに微笑んだ
「……夢から覚めるために、自分で自分の命を断つ……ありがちな話だけど、実際にやるのって、すごく難しいと思うよ」
「それは本当にそう」
もう一度大きな声で笑った遥は、ベンチから立ち上がる。スカートについた埃を払うと、私の方を見て言った。
「……で、どう? これでちょっとは懲りた? オカルト探しとか」
「十分……当分、本とかも読みたくない……」
「懲りてるねぇ」
事実だ。事実でしかない。もうしばらくは……怪談話だとか、オカルトだとか、そういうものとは無縁の生活でありたい。
遥に倣って立ち上がると、私もスカートの埃を払った。遥は夜空の星を眺め、一瞬、物思いに耽ったかと思うと……私に、手を差し伸べた。
「さて……じゃあ、もう暗いし、帰ろうか」
「うん……」
私はその手を取って、一緒に、家へと向かって歩き出した。
二人の家まで向かう分岐路に差し掛かって、手を離す。結局、迷イ路での出来事がトラウマになって、公園から数十分、手を繋いだままだった。
私は右へ。遥は左へ。分岐路をそれぞれの家に向けて歩き出そうとして……思い出したように、遥を呼び止めた。
「……そういえば、遥さ。一つ聞きたかったんだけど」
「ん? どうしたの?」
遥は振り返り、きょとんとした表情で聞き返した。私はここに来るまで気になっていたことを、彼女に問うた。
「遥、なんで私がいる場所が分かったの?」
路の中での遥のメールは、嘘吐きの影が作り出した偽物だった。そして、私が今日路に迷い込んでいたことは遥も知らなかったはずだ。
時刻は深夜一時。高校生が理由も無しに出歩いていい時間ではない。そもそも遥は、あの場所で何をしていたのだろうか?
遥は私の問いに、少し驚いたような表情を見せ……そして、どこか怪しげな笑みを浮かべながら言った。
「さあ……勘、かな」
「ふぅん……まあいいや」
気になったとはいえ、今は疲れと眠気の方が勝っている。本当に少し気になっただけだった。遥が勘というなら、勘なのだろう。
今度こそ別れを告げ、私は帰路に立つ。家に帰るとすぐに、心配をした両親に抱きつかれ、こてんぱんに叱られたけど……まあ、これも良い思い出だろう。
迷イ路。次、また同じように迷い込んだ時、私は今回と同じ選択を取ることができるだろうか。自分で自分の命を断つ……そんな、生物の本能に抗う方法を取らなければ抜け出せない怪異。
「……ま、もう二度と……試すこともない、か……」
睡魔に抗えず、私は……眠りに落ちた。長い長い一日が、ようやく、終わりを迎えた。




