9話 オレンジ色の空
先日と同じように、入り口で強面の黒服に出迎えられたが、案内されたのは、個室ではなくバーカウンターだった。
薄暗い店内は、カウンターやボトルを照らす間接照明が、艶めかしく光を放っている。壁際には革張りのソファ席が並び、時折、笑い声が聞こえる。
薄暗くて人の顔も認識しずらい。ケイタはどこだろう。
カウンターの端に座っていた男女が1組いた。女性が私に気づくと、にっこりと微笑み手招きした。
「ケイちゃん、いらしたわよ」
その声に振り向いたのは、ケイタだった。
「大変ね、子供のわがままで付き合わされて」
胸元の開いたロングドレスに、夜会巻きと言われるヘアスタイル。夜の蝶であることはすぐにわかった。
同性でもドキッとするような色気がある女性だ。
「うるさいなぁ、もう帰ってよ」
「言われなくても帰るわよ。でも、今度はうちの店にも来てよね。みんな喜ぶから」
ゆっくり余裕たっぷりな様子で椅子から立ち上がると、
「ふふ、あとはよろしくね。杏ちゃん」
むせるような華やかな香りを残し、ヒールの音をさせて去っていく。
「座りなよ」
「うん」
突っ立っているのも間抜けだしね。大人しく従う。
「何を飲む?」
ケイタが軽く手をあげると、バーテンダーがやって来る。
その横顔は、普段のきらびやかなアイドルではなく、夜の世界に染まった影のあるものだった。
「テキーラ・サンライズをお願いします」
「いいね。ボクも同じのを作ってくれる?」
「かしこまりました」
バーテンダーが手際よくカクテルを作る。シェイカーを振る音が響く。
「キレイなオレンジ色」
ガラス張りのテーブル、下からの照明に照らされている。
グラスの中、氷とオレンジ色のリキュールが混ざり、夕陽のようにキラキラと美しい。
「杏ちゃんの色だ」
「あんず色ってこと?」
「空がオレンジ色になると、杏ちゃんが学校から帰って来るからね」
公園で会うと、いつも笑顔で かけ寄ってきた少年は、大人になり、目の前で寂しそうに微笑んでいる。
「オレンジ色は、嬉しい時間が近づくサイン」
「それなら、テキーラ・サンライズじゃなくて、トワイライトだね」
私の言葉に、ケイタが頷く。
「乾杯」
静かにグラスを重ねた。
そして、ケイタは過去を振り返りながら、少しずつ話し始めた。
◆◆◆
ケイタは夜間保育園に行っていた。
普通の子供がおやつを食べている時間が朝ごはん。そのあと、夕方に母親が出勤するまでは公園で遊んでた。
保育園には色々な子供がいたが、みんな共通していたのは、母親が夜の仕事だということ。
深夜、もしくは明け方になると子供を迎えに来る。そんな生活に不満はなかった。
「あの男さえいなければ、人からどう思われても、ボクはそんなに不幸じゃなかった」
男が来ると、母が自分を見なくなることを、幼いながらに感じていた。
耳と目を塞ぎたくなるような光景が度々あった。
ケイタは淡々と語るが、その言葉の裏にある深い闇と痛みで胸がギュッと苦しくなる。あんなに近くにいたのに。
「死ねばいいのにって、毎日、神様にお願いしていたな」
あの日、私が襲われた日をケイタは振り返った。
「杏ちゃんが、殺されたらどうしよう。それだけ怖くて、必死に走ったよ。本気で走ったのは、あのときだけかもね」
圭太君は私の家のドアを何度も叩いた。声が枯れるまで『助けて』と叫んだ。家には母と弟がいた。母はすぐに事態を察して駆けつけ、弟が警察に連絡をした。
「杏ちゃんが無事で良かった。もしものことがあったら、ボクは今は生きてなかったはずだよ」
それから、しばらくは養護施設で暮らした。
その間、母親とは 数えるほどしか会えなかった。会いに来なかったという方が正しい。
中学時代は祖母と暮らしていた。高校には行かなかった。お金の問題より、気がなかったためだ。定職にもつかずにブラブラしていた。
幼い頃から可愛い顔だったが、 成長とともに磨きがかかる。助けてくれる女性がたくさんいた。衣食住にお小遣い。彼女たちは、ケイタが機嫌よく笑顔でいることを望んだ。
「可愛いだけのペットじゃ、夜の相手まではできないからね」
ヒモのような生活が何年か続いた。先ほどいた女性は、その頃に知り合ったという。
「つまらない毎日でも、夕焼け空を見ると杏ちゃんのことを思い出して、少し気持ちが温かくなったんだ」
18才の頃、渋谷の街で葉山さんに会った。アイドルにならないか?そうスカウトされた。
「その時、思い出したんだ。 杏ちゃんが、ボクにアイドルになればって言ったこと」
「お金持ちになる方法の話をした時のことね」
やってみようと思ったが、入所には親の同意が必要だった。母親に会うことも、何かを頼むことも煩わしく、縁が無かったと断った。
光るダイヤの原石だと確信していた葉山さんは、成人まで待つと言った。
20才の誕生日、事務所に入所した。
すぐにdulcis〈ドゥルキス〉 のメンバーに入れられ、デビューが決まった。そこからはあっという間だった。
気がつけば、信じられないお金を手にしていたが、幸せだとは思えなかった。
「軽蔑するかもしれないけど、半年前かな、興信所で杏ちゃんの居場所を調べたよ。人の情報なんて、簡単に手に入ること、知らなかったな」
「じゃあ、私が結婚したことも?」
「ショックだった。ボクが結婚するはずだったのに!って、子供の時の約束だよ?笑っちゃうよね」
調べられたことに対して、怒りよりも理解不能な衝撃が全身を駆け巡る。なぜ、そこまで?
「杏ちゃんが離婚したのは僕のせいだ」
「どういうこと?」
元夫の浮気相手は、会社に新しく入った派遣社員だった。
仕事の相談をされている内に彼女と親しくなった。そう聞いた。あのときは、夫と浮気相手の馴れ初めなんて、まるで興味がなかった。
「世の中には、色々なコネを使って、芸能人や著名人と繋がろとする人がいるんだよ。こんな店でやる飲み会なんて、ろくな集まりじゃない」
ケイタのファンだという女性は、偶然にも私の元夫の会社に入ったばかりだった。
いたずら心に火が着いた。上手くいくわけがない。それでも構わない。気づいたら、口から出ていた。
『財務部の田中って男を落とせたら、1度だけ寝てあげるよ』
仕掛けたケイタが驚くほど、とても簡単に話は進んだ。
元夫の言い訳が甦る。
『杏菜は楽しそうに仕事をするから、オレの気持ちなんて分からないよ。あの子は違うんだ。守ってあげたい。そう思わせるタイプの女性なんだ』
ケイタに抱かれたいがために、既婚者にハニートラップをしかけるような女だったのに、何をのぼせたことを言ったのだろうか。
「その女性は女優さん?」
「いや、違うよ。芸能人でもその関係者でもない」
かわそうな元夫。素人の演技にコロッと騙されたなんて。それとも、嘘を見抜けないほどに、癒しを求めていたのだろうか。
「ごめんなさい。杏ちゃんを、傷つけたかったわけじゃないんだ」
バーカウンターには重い沈黙が降りた。グラスの中で氷が溶ける音だけが、やけに大きく響いた。
バッグから電子タバコを取り出した。淡い光とともに、僅かに甘い水蒸気がゆらりと漂った。
「怒らないよ」
「え?」
これまで伏せていた目線を上げ、驚いた顔で私を見た。
「私が離婚した理由は、ケイタのせいじゃない」
どうせ結婚生活は長くは続かなかった。
理由は簡単。私は彼をそれほど愛していなかった。そして多分、元夫も同じだったと思う。
今は、それよりも気になっていることがある。
「ねぇ、絶対に嘘はつかないで答えて」
「なんでも答えるよ」
「約束よ」
電子タバコをカチッと音を立ててオフにした。
そして、まっすぐにケイタを捉えて尋ねる。
「今回の仕事、ゲンキライブ企画に決まったのも、あなたの計画通りなの?」