7話 小さな背中とランドセル
インターホンを3回押して、ようやく玄関のドアが開いた。
「だれ?」
会話をするのは初めてだったが、近くで見る圭太君のママは思った以上に若かった。相変わらず派手な化粧とたばこの匂い。
「あの、私、向かいの家に住んでいます」
「え、ああ、杏ちゃんって、あなたのこと?」
どうやら、圭太君は私のことを母親に話していたらしい。会話が無いわけじゃないんだ。なんだか少し嬉しい。
「あの、これ、もしよかったら」
昨日、ピカピカに磨いたランドセルを差し出した。
「圭太に?」
「はい、弟が一昨日、小学校を卒業したので」
少しの沈黙。
余計なことをするなって、怒られるだろうか。
私の両親も弟も、ランドセルを譲ることには何の反対もなかった。とくに母は保育士なので、近所に住む圭太君を前々から気にかけていたから、むしろ好意的だった。
ただ、私たちの善意が、そのまま受け入れてもらえるかは、正直分からなかった。
「ありがとう」
両手で受け取ると、少しだけ笑顔を見せた。
「圭太君いますか?」
「いや、いるんだけど、今はちょっと」
突然、表情が曇る。
その瞬間、部屋の中から鳴き声が響いた。ギャーーーーという、耳を突くような悲鳴だ。
「圭太君!」
「あ、ちょっと!」
身体が勝手に反応してしまい、部屋に上がり込んでしまった。
「だれだ?」
見るからに柄の悪そうな男が、うずくまる圭太君の前にいた。
なんだ、やっぱりそうなんだ。
驚くよりも落胆した。こんな小さな子に、手を上げるようなクソみたいな男が身近にいるなんて。
「杏ちゃん?」
目が真っ赤に腫れている。涙も出尽くしたのだろうか。いたたまれなくて、圭太君に手を伸ばしたとき、
「キャッ!」
ポニーテールにしていた髪を掴まれ、後ろに思いっきり吹き飛ばされた。
「杏ちゃん!」
「たーくん、やめなよ!」
親子の声。顔を上げると、目の前にいたのは人間じゃなかった。鬼か、獣か、どっちにしてもまともな目をしていない。身の危険を察するのが遅かった。
派手な音がした。
自分の頬を叩かれた音だと気付くのに、体感ではだいぶ時間がかかったが、きっと、数秒のことだったのだろう。
「ねぇ、やめてよ、未成年だよ!すぐに帰すから!」
圭太のママがしがみ付いている。私を助けようとしているのは分かった。
軽い脳震盪が起きている。目がチカチカする中で見えるのは、
「け、圭太君。走って、私の家、お母さんに、知らせて」
「杏ちゃん」
泣いている。ごめんね。本当は、もしかしたらって、ずっと気づいていたのに、知らないフリしていたね。
「なんだ、余計なことすんなよ」
鬼が来る。殺されるかもしれない。いや、犯されるの間違いか。ただでやられるのは嫌だ。
道連れだよ、あんたね。
「走れ!圭太‼」
陸上部の大会、先輩たちの応援を思い出す。腹の底から声を出したのは、去年の夏以来だ。
裸足で玄関を飛び出して行く、小さな背中が見えた。
圭太君、私ちゃんと知ってるよ。保育園の運動会、保護者じゃないから中には入れなかったけど、柵の外から見てたからね。
かけっこ、すごく早かったの知ってるからね。
「このガキッ!」
胸ぐらを掴まれ体が一瞬浮いた。爪先で床をひっかいた。
そして、男の右手がゆっくりと上がる。本当にスローモーションみたいに見えた。
◆◆◆
「ケイタが、あの、圭太君?」
押し倒されたまま、思わず目の前の顔に触れる。
「うそだ」
「うそじゃない」
「圭太君は、もっと、ちっちゃくてかわいい男の子だった」
「それ何年前の話?杏ちゃんだってもう30才だよね」
「今年、31才になるわね」
あの日以来、圭太君には会っていない。渡したランドセル姿を見ることも出来なかった。
「なんで、寝たら仕事をもらえる、 みたいなことを言ったのよ」
「 だって全然気づいてくれないから、少し意地悪したくなったんだ」
なんだそれ。 昔は素直でかわいかったのに。
「あの時、僕が杏ちゃんの家に走って帰った後のことも、ちゃんと覚えてるんだ」
ケイタの言葉に脳裏に断片的な記憶が蘇った。
パトカーのサイレン。アパートの階段を上がってくる、複数の足音。そして、玄関に転がったランドセル。
「ボクが玄関のドアが開いたとき、警察感に囲まれたアイツは、鼻血を垂らして伸びていた。杏ちゃんは泣いていて、お母さんに抱きしめられていた」
咄嗟に身体が反応して、空手の正拳突きが、相手の顔面に炸裂したことは、後から聞いた話だ。そのときは夢中で、記憶がない。
「圭太君、大丈夫?杏ちゃんとの会話は、それが最後だったよね」
後から知った話では、圭太君の母親の内縁の夫は、私への婦女暴行、幼児虐待、違法薬物、そのほかいくつもの罪で刑務所行き。圭太君は施設に入った。
狭い町だから、噂話はあっという間に広がった。
事実と異なる噂話を心配した母は、単身赴任をしていた父の元へ家族全員で引っ越すことを決断。弟は入学式から数週間で転校する羽目になった。
あの日のことは、家族間でも話さなくなった。私から圭太君に会いたいなんて、言えなかった。
ずっと気にはなっていたけれど、高校受験で忙しくなり、自然と考えないようになっていった。
私は、だけど。
「会いたかった」
ポタッ。
ケイタの目から涙が溢れて、私の頬に落ちてきた。
『杏ちゃん、ごめんね』
あの日、ランドセルを抱えて泣いていた小さな男の子。
「杏ちゃん、ずっと言いたかった」
長い年月を経て、イケメンと言われる男性に成長して、また私の前で泣いていた。
「ランドセル、嬉しかったよ」