イチバン星
ケイタはソファの下にうずくまって唸っている。
押し倒されて、襲われる!そう思ったら、咄嗟に体が動いてしまった。
ケイタの左手首をひねり上げ、横腹に膝蹴りを入れると、ケイタはソファから転がり落ちた。顔は狙ってないけど、さすがアイドルなのだろうか、咄嗟に顔をかばいながら落ちて行った。
「私、空手の有段者なんです」
近所に道場があったので、小学生のころから、護身術として習っていたのだ。今でも時々、実家に帰ると恩師に会いに行く。手合わせをかねて。
「クライアントに手を上げていいの?」
「う、それは」
「おなか痛い」
「まぁ、その、自己防衛とはいえ、すみません」
「明日のダンスレッスン、さぼれるかな」
知らんがな。
「あの、パンプス取ってもいいですか?」
膝蹴りした弾みで、右足からパンプスが脱げてしまった。ケイタの足元に片方が転がっている。
「うーーん、、反対も脱いじゃいなよ」
「ちょっと!」
左足のパンプスを奪われ、ポイッと投げ捨てられた。
去年の冬のボーナスで買ったのパンプス。
dulcis〈ドゥルキス〉のコウキがアンバサダーを務めるBELTAという、ハイブランドのものだ。大事にしてるのに!
「じゃ、もういっかいね」
そんなこともお構い無しで、ケイタが近づいてくる。
「は?」
「こっちは負傷者だから、上に乗ってもらえばいいよ」
よっこいしょ、なんて言いながらソファに上がる。
「ケイタさん?」
「それさ、ボクの方が年下なんだから、呼び捨てでいいよ。敬語も好きじゃない」
「そういう話ではなく、何してるんです?」
何で、ベルトを外しているのか分かりません。
「仕切り直しだよ。もう、手を上げるのはなしだからね」
「いやいや。待って。その手を止めてください!」
パンツまで脱ごうとしないで。
個人的には、靴と靴下は先に脱いでおいてほしい。いや、そういうことじゃない。思わず自分で自分につっこんでしまう。
「体を売って仕事を取るみたいなこと、しませんよ」
「なんで?ボクのことキライ?」
そんな馬鹿なと言わんばかりに、驚いた顔をする。
「自信があります。そんなことをしなくても」
「へえ」
今度は楽しそうに目を輝かせる。ころころと表情が変わるのは、画面の中でもそうだった。
「女を抱きたいなら、さっきみたいなキレイなお姉さんたちにしたらどうですか?」
「すぐに足を開くような女はキライだよ。プライドばっかり高いしね」
なるほど、彼女たちとはすでにそういう関係っていうことか。
「そういう意味なら、私も同じです」
「杏菜ちゃんが?全然違うと思うけど」
女優さんと同列にするなと?
失礼な。これでも、そこそこ現役でモテてます。小山君以外にも。
「私、プライドが高いんです。仕事に対しては」
妥協しません。どんな小さい仕事でも。
目の前のクライアントが望むなら、望んだ以上を出してやりたい。こりゃやられた!と、思わせるくらいがいい。
もっと賢くできれば、楽に稼げるのかもしれないが、そうはできない性分の人間が集まっているのが、ゲンキライブ企画。
大学卒業後、新卒で入社した企業は大手広告代理店だ。
友人たちの羨望もあったが、仕事自体はおもしろくなかった。小さな会社へ転職するとなったときは、家族にも大反対された。
結局のところ、今の仕事が好きなんだろう。結婚相手を大事にできないくらい。離婚したのも納得な結果だと思う。
「仕事やお金のために、誰かと寝るなんてありえないってことだよね?」
「そうです」
「ボクだって顔には自信はあるんだ。華奢に見られるけど、ちゃんとの鍛えてるから、身体も悪くないと思う」
「確かに、テレビで拝見したときと、イメージは違いますね。もちろん、いい意味でです」
私が同意すると、嬉しそうに頷いた。
「だったら、どうしたら、エッチしたいって思ってくれるのかな?」
「年上をからかうのが趣味ですか?」
「そんなことないよ。とっても真剣な質問」
一度外したベルトを渋々と戻すと、空になったグラスにまたシャンパンを注いだ。
「もう、いったい何なんですか?」
「もう、なんで覚えてないのさ?」
ケイタは、高いであろうシャンパンをスポーツドリンクでも飲むかのように、ごくごくと飲み干すと、少しだけ声を荒げた。
「え?」
「ひどいよ、杏ちゃん。ボクはすぐに気が付いたのに」
杏ちゃん?
「杏ちゃんは、変わっていないね。まじめで、まっすぐで、キラキラしてる」
「どこかで、会った?」
さっきの話じゃないけど、まさかケイタのホスト時代に会ってるとか?いや、こんなにかわいくてイケメンなホストはいなかった。いたら忘れない。
じゃあ、大学時代の家庭教師の教え子?そんなわけないか。
「ボクのお嫁さんになるって約束したのに」
「なっ!」
突然、奪われた唇。
考えに集中していて反応が遅れてしまった。私の拳が空を切る。
「杏ちゃん、本当に覚えてないんだね」
◆◆◆
「じゃあね。ばいばーい」
「また、あしたね」
公園から子供たちが出てくる。自転車の小学生や、ママに手をひかれる幼児まで。
3月初旬の夕方5時。少しずつ日が伸びてきて春を感じるけれど、この時間はまたまだ寒い。
空はオレンジ色に染まっている。
さっきまではたくさんの子供で賑やかだったはずの公園。ブランコにはひとりの少年。まだしっかりと足が届かないため、つま先が不安げにブラブラと空を切っている。
ほっとけるわけもなく、私はガードレールを飛ぶように越える。ヒラリと制服のスカートが舞う。陸上部だもの、こんなの朝飯前だ。
「押してあげようか?」
隣のブランコに座り声をかけた。
「杏ちゃん」
幼い少年は顔を上げると、パッも明るい顔になった。
「うん!おして」
「手を離しちゃダメだよ」
「わーーい」
高く上がるブランコ。オレンジ色の西の空に、小さな背中が吸い込まれるように登って行く。
「一緒に帰ろうか?」
「うん」
「圭太君は、もうすぐ小学生だね」
「うん……」
浮かない顔は、どうやらそこにあるらしい。
「ママがね、ランドセル買ってくれないんだ」
「え、そうなの?」
返す言葉に困る。かといって、まだ中学生の自分には、経済的にも精神的にも、どうにもしてあげられない。
近所のアパートに住む圭太君のママは、どこからどう見ても夜のお仕事。時々、おばあちゃんが来て、孫の面倒を見ているが、パパらしき人は見たことがない。
お金が無いような身なりではないけれど、お金を使うときに、親が必ず子供を優先するとは限らない、そういうことだろうか。
複雑な家庭環境なんて珍しくもないだろう。
でもそれは、目の前にそういった境遇の子供がいても、同じように言えるのだろうか。
公園からの帰り道、川沿いにはたくさんの桜の木がある。つぼみは固そうだけど、色づきはじめている。
「桜が咲いたら1年生」
つぶやいて、ハッとする。
1年生になるのは、なにも小学生だけじゃない。我が家にもいるじゃない。中学生になる弟が。
「圭太君、2週間待ってて」
「え?」
「橙馬が卒業したら、お下がりでよければ使って」
「おさがり?」
「えっと、誰か使ったものを譲ってもらうってこと」
「とうまお兄ちゃんのランドセル、くれるの?」
「そう。いや?」
「ううん。うれしい!」
深い海の色みたいなブルーのランドセル。姉の私よりずっと几帳面な弟だから、6年使ったとはいえ、状態は悪くないはずだ。
「杏ちゃんは、大きくなったら、なにになるの?」
保育園の卒園式で、1人ずつ将来の夢を発表する場があるらしい。アイス屋さん、先生、警察官、時代であろうYouTuberなどが人気らしい。
「お金もちって言ったら、先生がだめだってさ」
「ダメじゃないけど、どうやって、お金持ちになるかが大事かもね」
「たとえば?」
「え?しゃ、社長とか?」
「社長ってなにするひと?」
「うっ!」
6歳児につっこまれて返せない。
想像力が足りないのは私の方かも。まだ自分の将来、何も考えられない。志望校だってこらからだ。
「じゃあ、アイドル。芸能人は人気になれたら、お金持ちにもなれるかも」
「アイドル?」
「圭太君は、かわいい顔しているし、歌もうまいから」
「えーー。かっこいいって言われたいよ」
微かに残るオレンジ、深いブルーが混ざり合う空に、ひときわ輝くひとつの星。
「ピカピカのいちばん星だ!」
「金星だね。」
「アイドルになってお金持ちになったら、杏ちゃんとケッコンするんだ~~」
楽しそうに言う姿がかわいかった。
「私じゃだいぶ年上だよ?」
「いまはね」
「え?」
「ボクが大人になるころには、年の差なんてカンケイなくなると思うよ」
元からキレイな顔立ちではあったけど、そのときの圭太君の表情は、ひどく大人びていた。
思い出した。
その顔に、一瞬ドキッとしてしまったことを。