あなたの鬱なんてたいしたことない
私はラブバラードのように歌い出した──
彼らを呪う苦しみの歌を。
「最近、夜が眠れなくて……」
「どうしたの?」
初めて打ち明けたのはミキシング・エンジニアの大木さんだった。20歳上で愛妻家の彼は私にとって、なんでも相談しやすい相手だ。
大木さんはコンソールから身を剥がすようにこっちを向いて、気安い笑顔を見せてくれた。
私は話した。
「なんか……昔のことを思い出すと死んじゃいたくなっちゃうんです。どうしてあの頃に戻れないんだろうって。べつにそれが楽しかった昔じゃなくて、今より何もなくてすることがなかった時でも、昔は楽しかったけど今はなんにもないって気持ちになっちゃうんですよ」
他人に聞かせるには重たい話をしてるなと思えたので、照れ笑いをした。
「なんか病気なのかな」
すると大木さんは声をあげて笑った。
「エミちゃん、それは鬱入っちゃってるよ〜」
「やっぱりそうなんですかねー」
聞いてもらえただけで少し気持ちが軽くなった。
そこそこ名前は売れてきたけれどヒット曲を出せないシンガーソングライターで、しかも最近スランプをひしひしと感じている身としては、大木さんみたいなひとが同じ職場にいると助かる。
私が休憩を終えてアコースティック・ギターを手に取り、再びスタジオに戻ろうとしたところで、しかし大木さんが言った。
「鬱で苦しんでるひとなんて、この世にはいっくらでもいるよ。仕事できてるんだから、エミちゃんの鬱なんてたいしたことない、ない!」
私の足が止まった。
たいしたことないない……?
あの、辛くて、カラスに身をついばまれるような、やがてはケダモノの雨に撃たれるような、眠れないあの苦しみが、たいしたことないだと?
私は大木さんを振り向くと、にっこり笑い、言った。
「ありがとうございます。それじゃ、テイク16、お願いします」
▼
女ばかりで飲みに行った。
同業の音楽仲間やインディーズのひとたち、イラストレーターさんなど、私を入れて七人で集まった。
焼鳥やからあげ、サラダをつまみながらそれぞれにビールや酎ハイで楽しくなる。わいわいと他愛のない話で盛り上がる。やっぱりこういう時は女同士がいい。
「最近ネコ山さん、ちょっと顔やつれてない〜?」
イラストレーターのchachaさんがあかるく私にそう言った。
「ちょっと最近、眠れないんだよねー」
私もあかるく返したつもりだった。
するとみんなが揃って言い出した。
「わっ! 何、何? 寝てない自慢?」
「あはは! それって昭和のオヤジがよくやるやつじゃね?」
「仕事熱心なのはいいことだけどね〜、夜は8時間は寝ないと」
「あー、それでお肌ガサガサなんだー?」
「ひどっ!」
気心の知れた友達のいじりだと思って、あくまで私はあかるく返したつもりだった。
「鬱入っちゃって寝れないんだよ〜……。なんか昔に戻れないのがとんでもなく辛くってさ」
「あー……。アハハ!」
「そんなのあるあるだよ〜」
「誰でもあるってぇ〜」
「ネコ山エミちゃんだけじゃないない」
「ひどいひとはもっとひどいんだから、それぐらいで重大ぶってちゃ怒られるよ」
怒られる?
私がどうして、なぜ、重大ぶってはいけないの?
あんたら、なんでそんなことが言えるの?
あたしの身体に乗り移って、この苦しみを体験した上でもそんなこと言える?
そう思いながらも、楽しいお酒の席を壊したくなくて、私は笑った。
「だよね〜」
▼
独りで部屋の中にいるのがいい。
ケージの中のハムスターに微笑みながら、私はアコースティック・ギターを手に取った。
つまらない……。
同じような、いつもみたいな曲しか出てこない。産み出せるのは過去のゴミを再利用したような、わざわざ作らなくてもいいメロディーばかりのように思える。
ギターをベッドに置き、テーブルのウーロン茶をがぶっと飲んだ。
「そうだ! プリン買ってあったんだ」
冷蔵庫を開けるとフルーツと生クリームの乗った、カップに入った小さなプリン。昨日の帰りにスーパーマーケットで半額だったやつだ。
しょうもない味がした。
わざわざ食べなくてもいいような──
売れるような曲を作らなくちゃ──
やっぱり受けるのはラブバラード?
でも恋なんて、どんな気持ちだったか、思い出せない──
今のリアルな実感を歌え。
今のリアルな実感といえば──
私はギターを再び抱えると、ラブバラードのように呪いの歌を歌い出した。
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「私の鬱なんてたいしたことないんだ……」
布団に入りながら、私は唱えた。
「他に、もっと、苦しんでるひとは、たくさんいる」
そう唱えているうちに、眠れるような気がした。
「目を瞑って、呼吸を深くして、ぐるぐると落ちていくイメージを……」
静けさが襲ってきた。
それがモヤモヤとカラスの形となり、チクチクと私の身体じゅうのあちこちをついばむ。
闇が私の周りで渦巻いて、黒い雨となって、降り注ぐ、ケダモノのように。
高校生の頃の同級生の名前が思い出せない。
付き合いもなかった、どうでもいいはずの、あのひとの名前がどうしても思い出せない。
それだけで死にたい気持ちが私の中から溢れ出してきた。
わかってる。
私の鬱なんてたいしたことない。