くぅーん
時は少し遡り、アキたちが橋に辿り着く前のこと。
「アッーーー! 待ってーーーっ!!」
ぶさに逃げられた声の主は手を伸ばしたまま固まっていた。逃げられた。そう、逃げられたのだ。会話する以前の問題だった。というより、自分の存在に気づいてもいなかった様子だった。あっ、悲しい。これ以上考えるのは止めよう。
「やばいやばいやばいやばいやばい! どーしよう? どーすればいい!? どーにかなるのこれぇ?!?!」
忙しなく動きまくる。アタアタフタフタと落ち着きがないようにその場をウロウロしている。その光景はさながら一人寸劇に見えなくもない。身振り手振りが激しい。
尻尾を追いかける犬のようにグルグルと周り、天を仰いで叫び、頭を抱えて丸くなり、激しい頭痛に襲われたように仰け反ってはゴロゴロと地面を転がる。
ポヨンとぶさの玩具……ではなく、犬を運んでいたスライムに当たると声の主は目にも止まらぬ速さでスライムを叩く。ペチペチペチペチペチペチ。
「逃げてった逃げられた逃がしちゃった! もーなんて言えばいいの!? 怒られるやつだよ怒られちゃうって怒られないわけがないよっ!!!」
スライムには発声機能がないので喋ることは出来ない。ぷるんと震えるしか出来ない。その唯一の意思表示も今は高速連打によって封じられているが。
気持ちのいいペチ音が鳴らした後、声の主はガバッとスライムを抱き締める。抱き枕のようにギュッとされたスライムはうにゅんと伸びる。心做しか疲れたようにだらんとしている気がしなくもなくはないかもしれない。
「魔王様になんて言えばいいんだよぅ……」
「なぁに?」
「ぴやぁあああーーーーーーーー!!!!!」
しくしくと泣きそうになった声の主が小さく呟いた後、応えのような声が聞こえた。それもすごく近くから。それに驚いて大声で叫んだ。抱きしめていたスライムを天高く抱え上げて腹の底から声が出た。飛び出るんじゃないかと錯覚してしまいそうな心臓がドッドッドッと大きく早く脈を打つ。
ギギギっと錆び付いたブリキ人形を油も差さずに無理やり動かすようにガタガタと小刻みに震えながら超スローペースで振り返る。
声が聞こえた方向、先程自分が居た場所に立っている人物を目にした瞬間、声の主は兵隊のように背筋を伸ばして直立する。空中で解放されたスライムは支えがなくなって自由落下で落ち、さっきまで自分を弄んでくれた人物の頭の上に着地する。ベタンぷるるんふるふるん。
「ま、ままま魔王様……」
直立姿勢でガタガタと震え上がる声の主は顔がびったぁと濡れている。スライムは水っぽい見た目をしているが単一個体であるため分離しないし溶けるなどといった欠如することもない。従って濡れている原因は本人の汗以外考えられない。
さて、ここで魔王と呼ばれた人物の様子を見てみよう。
ウッキウキのニッコニコである。誰がどう見ても上機嫌だと疑いようもなく判断出来るほどに御機嫌である。心が浮きたっているのかソワソワとしているし、しきりに周囲を見渡しては指をモジモジさせている。
両者の温度差が激しい。
「そ、それで……例のものは……?」
恋する乙女かのように顔を赤らめながら魔王は尋ねる。しかしその質問を投げられた人物はサァーっと顔の色を無くしていく。青を通り越して紙のように白くなった顔。冷えた体は本人の意思とは関係なくブルブル震えている。その振動が伝わり頭上にいるスライムもぷるんぷるんしている。
「に、逃げられました……」
決死の覚悟で問に答える。声は掠れ、声量も小さかった。しかしこの場は静かな空間。橋の上であり、下に流れる川の音は届かない。あるとすれば風と風に吹かれてなびく木の音ぐらいだ。しかも魔王は聞き逃すまいと聴覚を集中していたし、スライムは震えるぐらいで声は出さない。
つまり、正確に一語一句逃さず言葉は伝わった。
「え」
魔王硬直。時が止まったかのように静止する。言葉は正確に耳に入ったのに脳がそれを理解することを拒んでいる。
「うそ、え、え……? なん、にげ……ぅえ?」
混乱のままに声を漏らす。その声は先程までの機嫌の良さはなくなっていて、思考すらも置いてけぼりだ。言葉の意味を理解しているのに心が現実を理解させない。その乖離が今の魔王の状態だ。
「申し訳ありません」
謝罪した人物は先程の言葉からずっと目を瞑っている。それは単に恐れからである。しかし、だからこそ魔王の様子にも気づけていないのだが。
いつまでも現実逃避は出来なくて、謝罪されてしまったらまざまざと現実を突きつけられることになった。
ドガシャーンと雷が落ちた。それは魔王の心情でもあるし現実に起きた現象でもある。雷に打たれたような魔王の背後には本物の雷が落ちた。まるで魔王の心を表しているかのように。
二人と一個が現在いる地点は魔王城側の陸地に近い橋の上だ。内陸側に顔面蒼白な男性とスライムが居て、中央側に魔王が居る。雷が落ちたのは魔王の背後、つまり橋の中心部であった。
橋、落雷により破損する。
幸いなのは落下地点が二人と一個から離れていたためこちらまで被害が及ばなかったことだろう。
突如として体の芯まで震わすような轟音振動に彼は思わず目を開けてしまった。結果……
「ひぎゃああああーーー」
目の前で起きてることに驚いて悲鳴を上げる。目ん玉ひん剥いて大口開けて仰け反る。そのまま重心は後ろに傾き、ドシンと尻もちをつく。その反動でスライムは頭上から投げ出される。
何が起きてるのか、正確なことは分からない。だが、これが魔王様の行いだということだけは分かる。いや魔王様じゃなかったらそれはそれで怖いし。魔王様ご乱心! と頭の中で己の悲鳴が鳴り響く。
残念ながら卒倒することは出来なかった。意識が無くなった方が良かったかは分からない。しかし、身の危険をひしひしと感じているのは確かだ。だって――
ドゴーン、ドゴゴーン、ドゴガガーーン
「うひゃああああーーーー!!!」
次々と雷が落ちる。それはすべて魔王の背後、橋の中央にだ。橋を穿って穿って、ついに貫通してしまった。それでも雷は止まない。微動だにしない魔王。しかし彼の後ろには何度も落雷が起きている。
「ま、魔王様ーっ!!」
必死の叫びは、しかし魔王には届かない。雷鳴にかき消される。けれど、例え雷鳴が鳴り響いてなくとも今の魔王にはどんな声も届かないだろう。それほどショックだったのだ。彼にとってぶさは特別な存在だった。まだ会ったことも見たこともないけど。
「にげ、にげ……にげ?」
壊れたようにその二文字を繰り返す。しかしその後に続く言葉は言わず単語にはならない。もうダメだと諦めたその時、一際大きな雷が落ちた。そして、その雷を最後に落雷は止んだ。
「し、死ぬ…………」
心臓がバックンバックンうるさいぐらいに鳴り響く。死ぬかと思った。もう雷の音がトラウマになったと思う。それほど怖かった。怖すぎてちょっとチビった。漏れてないからセーフです。セーフにしてください。セーフですよね!?
限界まで身を縮こませて蹲っていたお漏らし……哀れな彼は恐る恐る顔を上げる。魔王が立っていた場所に魔王は居なかった。
「え……魔王、様?」
正確には立っていなかった。気を失ったかのように倒れていた。
「ま、魔王様っ! …………ぎゃあああ!!!」
慌てて駆け寄って、手を伸ばせば届く距離まで近づいたところでタイミングよく魔王が起き上がった。予備動作なしの声一つなく。飛び跳ねるかのように勢いよく上体を起こしやがった。
実際に飛び跳ねたのは悲鳴を上げた方である。この短時間に色々ありすぎて心臓がヤバい。なんかもう、ヤバい。語彙力がなくなるぐらいヤバくなっていた。
「何をするんだ!」
魔王は右腕に向かって話し掛ける。……比喩ではない。本当に自分の右腕に対して声を出しているのだ。
魔王の右腕には別の意識が宿っている。自律型右腕と言おうか。ちなみに『右腕』なので当然喋ることは出来ない。意思疎通は手振りで伝えて察してもらう必要がある。
魔王は右側の頬を左手で押さえている。その様子から察するに冷静さを取り戻させるために『右腕』は顔を殴ったということになる。手振りに物理攻撃は含まれますか?
魔王の注意を引いた『右腕』はビシッと尻もちをついてる人物を指差す。魔王は『右腕』に従ってその者を見る。注目を浴びた彼は尻もちして後ろ手をつく無様な姿勢のまま肩が跳ねる。『右腕』はグッと親指を立てる。
いや「グッ!」じゃねーよ! という言葉は喉を通らなかった。
二人揃って首を傾げる。この状況、何? と言うように。溜息をつくように『右腕』は手首を折ってだらんとさせる。そして、魔王を指差し、人差し指をぐるりと回し、五指全ての指先を合わせて前にパクパクさせ、二本指を下にさせ交互に前後させる。
「あっ、そっか!」
魔王には伝わったらしい。納得したように声を上げて頷く。すると『右腕』は再び親指を立てる。魔王は左手で立った親指を撫でるように触れる。『右腕』は震えだして……拳を魔王の顔面に埋め込ませた。
「ぅえ?」
「〜〜っ、もーぉ照れ屋だなぁ」
照れ隠しの行動らしい。は? いや、は?
何これ意味わからんな顔を向けられて魔王は顔をさすりながら対面する。仕切り直すように咳払いを一つ。
「じゃあ、遊びに行ったイッヌ様がどっちに向かったのか教えてくれる? ボクが迎えに行くから」
「は、はい! あちらの方に逃げ……っ、向かって行きました」
どうやら魔王の中では逃げたという事実を受け入れてないらしい。彼が「逃げた」と言おうとしたら物凄く怖い顔をした。慌てて言い直したので表情は戻った。
ナイス自分! 誰も褒めてくれないので自分で自分を褒める。悲しいヤツとか言わないで。
「うん、ありがとう。君は先に戻ってていーよ」
魔王はそれだけ言って、指差された方に向かって走り出した。残った一人と一個は顔を合わせる。スライムに顔はないけど。
「あの右腕って魔王様の一人芝居ってことは……ないよなぁ」
魔王城にいる者はみな『右腕』のことを知っている。知っているが、だからと言って不思議に思っていないわけではない。暗黙の了解になっているので誰も公には尋ねてない。が、見る度に気になってはいるし度々話に上がる。
その問いにスライムはぷるんと震えるだけだった。
「ふふふ。待っててねイッヌ様! ボクが今すぐ迎えに行くから。ボクの運命……ああ、楽しみだなぁ」