ウーウーウー
プラシーヌが『男姫サマ』にくっついた辺りでアキが朝食を終えたのでそのまま部屋を出た。最後まで会話に参加するということはしない。一緒に食事していたから、目の前で話していたから、食べながら会話が耳に入っていただけだ。真剣に聞いていない。それに、彼らの会話に興味を抱かなかったこともあって、離席するのに躊躇いはなかった。
同じく食べ終わってアキの傍に寄っていたぶさを連れて帰路に着く。廊下を歩いている時、何か忘れているような気がした。頭にモヤがかかったような、気持ち悪い感じがする。数秒考えて、思い当たらなかったので諦めてその感覚は無視した。重要ではないと判断したからだ。重要なら覚えているだろうしと。
アキは頭が悪い。それは自分でも理解しているはずだが、どうして記憶力に自信を持ってるのだろうか。甚だ疑問である。全ての物事に対して軽く考えているからだろう。何かあってもどうとでもなると。今まで己の力で問題を解決してきたアキはそうやって生きてきた。なるようになるという薄っぺらい未来を見る。
けれどもここは地球ではない。そして彼女の周りには不良どまりの若者しかいなかった。彼女はどう足掻いても敵わない相手とは対峙したことはない。本物のヤクザや銃や麻薬には触れていない。だからこそ、彼女は彼女のままでいられた。真に壊れることなく、生命の危機を感じることなく今の今までのうのうと生きてこれた。
だがしかし。
ここは異なる世界。彼女の周りには頭のネジが何本も抜けている人物しかいない。さらには魔法なんてものがある。アキにも魔力があるようだが使い方は知らない。未だに教わっていない。もしかしたら存在自体忘れているかもしれない。
「待たせてごめんね。スケート靴が完成したよ」
アキが退出するのに気づいた『襟巻小僧』が追いかける。彼は確かにプラシーヌが大切だ。ようやく会えた愛しの犬。けれども一番に優先すべきは最愛の王。そこは違えない。
それに、とても不愉快ではあるがプラシーヌは彼に懐いているように見えた。数日は滞在すると言っていたから、プラシーヌもまた行方をくらますことはないだろう。非常に遺憾であるが。
「今からサンノメに行く?」
「……いや、泳いでく」
「分かった。イッヌ様は任せて」
アキはスケートより水泳を優先した。実を言うとアキはスケートは触れたことがなかった。けれどもあることは知ってるし、一度はやってみたいなと思って言っただけだ。そのため優先度は低く、だからこそ、遅くなっても何も思わなかった。
「イッヌ様?」
分かれ道について、『襟巻小僧』はアキを見送るために立ち止まる。けれどぶさがアキについて行こうとする。彼に手渡されたことによりリードに行動を阻止される。それでもアキについて行こうとするぶさの様子に『襟巻小僧』が困惑する。
「ど、どうしたのイッヌ様。イチノメの間はボクと遊ぼう?」
様子のおかしいぶさを抱き抱えても抵抗するように暴れる。これまでだって何度もしてきたことだ。一番初めの時だって、大人しく『襟巻小僧』について行ったのに。
けれどもアキの姿が見えなくなった途端、行動が止まった。その豹変っぷりに一株の不安が過ぎる。ハウスに行く前に医務室に寄ることにした。
この時彼は忘れていた。今朝の騒動を。今の医療担当はとても不機嫌だということを。
そんな一人と一匹の様子に気づきもしないアキはそのまま歩みを進める。裏口のドアを開けて外に出る。そのドアの隣には『三下野郎』が言ったようにプラシーヌの絵と探してますと書いてある張り紙が貼ってあるのだが、例のごとく忘れているアキがそれに気づくことはなかった。
「っ!?」
アキが外に出て裏口のドアが完全に閉まった瞬間、誰かに後ろから拘束された。声を出そうにも口を塞がれて封じられる。藻掻いて暴れて後ろ手に殴っても離れない。
「あんっ、イイ! もっと、もっとですわぁ救世主様!!」
ハァハァと耳の横で熱い吐息とねっとりとした聞き覚えのある声。背筋にぞわりと嫌な感覚が駆け巡る。一瞬で全身に鳥肌が立った。それはこの世界で今のところ唯一の避けたい存在だった。二度と会いたくなかった。姿を見なくても背後にいる人物が『バラ女』だと分かってしまった。
「姉上、一人占めしないでください」
「嫌よ。お前に渡す理由がないわ」
「んなっ!? 誰のお陰でここに来れたとお思いですか!?」
「大賢者様」
目の前に現れた『クソ野郎』が手を差し出す。それを受けて己の身を戒める縛りが強まった。とても嫌そうな、恐怖に歯を食いしばるアキを挟んで口論する。『バラ女』の冷めた声に図星をつかれたのか歯噛みする。声とは別にアキの体を縛る手がアキの肉体を撫でるように蠢く。それが気持ち悪くて、さらに暴れるが拘束から抜け出せない。
「滑らかなお肌、サラサラの御髪に濃密なお戯れ。んんっ、たまりませんわぁ! ……けれど、一つ残念ね。この鼻につく腐臭、本当に忌々しい」
別人かと思うほど声のトーンが一気に変わった。冷たく見下すような威厳に満ちた声音。その声にビクッと肩が跳ねたのは『クソ野郎』だった。身内であり本性を知っているから恐れている。
彼女には王族として生まれ、王族として尊大に生きてきたからこその倫理観があった。王族は常に国のため国民のために尽くす。そんなのはくだらない偽政者が言うことだ。
王族は生まれながらの強者だ。この世は全て自分の思い通りになるという自負。国王城では批判されるような目に余る行為をしてもそれは喜ばれた。だからこそ、好きになった人を独占したって構わないのだ。むしろ救世主を国王城に留めるという使命を果たせて一石二鳥である。
王族はいつだって自己中心的だ。他人の気持ちなんて考えたことはただの一度もないし、これからもないだろう。選ばれた人間、尊ばれるべき人間、それはこれからも変わることのない絶対的地位。
「安心してくださいな救世主様。わたしがたんと可愛がってあげますわ。御髪の一本一本から爪の先まで余すことなく全てを隈なく! ですから……そう、救世主様はただただわたしを愛してくださればいいですわ。わたしだけを認識すればいい。相思相愛だなんて、とっても幸せでしょう?」
「…………」
脳に直接語りかけるように耳から声を吹き込まれる。それは酷く嫌悪感を掻き立てる。けれども離れることを許されない。逃げ道なく絡まる四肢が重くのしかかる。顔が見れないのはまだ良かったかもしれない。気が狂いそうになる恐怖心に震える体を叱咤する。
「おいおい、何やってんだよおっそいなぁ〜。全然来ないから俺様が来てやったぞ。喜べ愚民ども。ほらほらー早く魔王城から離れようぜぇ〜」
「っ!」
「おん? あっれれ〜王様じゃんちぃーっす。なんでここにいんの?」
追加で一人現れた。それは忘れもしない『パリピ爺』だった。アキが一回会っただけの人を覚えているのは珍しい。しかし、逆に言えばそれほど印象が強いということになる。それは避けたい存在であるとか、その予備軍である人物が該当する。ただの傍迷惑なヤツという分類でありながら覚えられている彼は誇っていいかもしれない。人によっては不名誉な誇りであるが、彼ほどの人物ならば諸手を挙げて喜ぶに違いない。
さて、彼は先代魔王だ。それがどうして国王城の王族なんかと一緒にいるのか。
「大賢者様、救世主と知り合いだったのか?」
「んぇ? あっ……あ〜うんそうそう、知り合い知り合い。なんたって俺様、大賢者だからね」
どうやら先代魔王であるこの男は何故か国王城で大賢者と呼ばれているようだ。いや、自分からそう呼んでいるのか。まあいい。どっちだろうと激痛中二病患者であることに変わりない。
細かい話は分からないが一つ分かったことがある。ヤツは敵だ。アキは『パリピ爺』をギッと睨めつける。
「いやーんこわ〜い。で・も、良いのかにゃ〜? 俺様に構ってる暇はないんじゃなぁい?」
口では怖がる素振りを見せるが飄々とした態度を崩さない。けれど、残念なことにこの男が言うことは正しかった。
「まぁ、いけませんわ救世主様。わたし以外にうつつを抜かすなど、悲しいわ。ね、ほら、わたしを見て。目で、耳で、鼻で、肌で、味わって。全身でわたしを感じ取ってください。わたしはもう準備出来ていますわ。わたしはあなたの奴隷。わたしはあなたの従順な奴隷。さあ、二人の愛の住処に行きましょう。飼い主は愛と躾を与える義務がありますわ。管理を徹底して、一時も傍を離れてはいけません。朝起きてから眠るまで、いいえ、眠ってからもずっと一緒。食事も運動も排泄も入浴も睡眠も! ずっとずっと全部未来永劫死ぬ時も死んでからも離れることなく一緒よ」
嬉しいでしょ? 嬉しいよね? と感情を押し付ける。うふふ、アッハハハと不敵に笑う。
最初の頃より狂気度が些か増したように思う。狂愛給餌の一方通行から相依存愛の双方向に路線変更された。当然その変化は嬉しくない。
どうしてこうも人は相手に同じモノを求めるのか。知識を能力を感情を思考を愛情を。一緒でなければ気がすまないのか。違うことが悪いのか。多様性なんて言うのは外面だ。普通という枠にはめて、その枠からあぶれた人間は排他する。誰かが決めた常識という名の共通認識に沿った行動しなければ眉を顰める。
愛は人を変える。なんて、あるわけない。人は変わらない。
生まれた時からいや、産まれる前から人格は九割形成されている。それは遺伝だ。元を正せば人類はみな家族だ。時と共に途方もない枝分かれをしているにすぎない。人間が人間である限り、人間という名の人格が備わっている。例え世界が違くとも、人間である限り人間の人格から逃れることはできない。性格だの思考回路だのは全体の内のたった一割の相違点。たった一割だからこそ浮き彫りになって目がつくだけなのだ。
人は変わらない。変えられない。人間である限り、人間として生きるしかない。強欲で傲慢で貪欲で、利己的で恣意的で暴力的な人間として。
愛は人を狂わせる、なんてのも違う。それはただの言い訳だ。元々備わっていた人格の一つの枷が外れただけ。新しい扉が開くという言葉も何重にも複雑に絡み合った心の迷路から少し行進しただけのこと。誰もが持っている胸の内を外界にさらけ出しているだけのこと。
アキの悲鳴が喉元で詰まる。張り付いて道を塞いで声となって外に出ない。唇を撫でる指も汗を舐める舌も強い花の臭いも、全部全部全部不快だ。気持ち悪くて吐きそうだ。
情けない。
怖くて恐くて動けない。
腹立たしい。
愛なんてそんなものはいらない。
嫌いだ。
人も、愛も、全部嫌いだ。
……弱い自分が、嫌いだ。
アキは絶望する。心が崩れ落ちていく。腹の底に黒くて鬱々としたモノが堕ちて溜まっていく。
言い様の無い感覚に陥る。自分だけを覆う一枚の膜。黒い水が流れ込み、五感を奪う。
何かの魔法だろうか。ああ、でも、このまま何も感じなくなるのは幸せかもしれない。
どんな世界だろうと弱肉強食だ。強いヤツが生き残り、弱いヤツが淘汰される。強くなければ生き残れない。アキが弱かったから強者に食われる。
ゆっくりと目を閉ざす。アキは諦めた。抗うことにも生きることにも躊躇いなく諦めた。
このままアキという心が消えてただの肉体だけが存在する人形になる。それが、アキの本能が導き出した最善策。
どうということは無い。限界がきた。ただそれだけだ。
限界はある日突然やってくるものだ。物理的か心理的か、はたまた能力的か倫理的かは差違である。蓄積されるということも些末なことだ。限界だという結果は変わらない。一度限界を迎えれば元に戻ることは不可能。形あるものはいつかは壊れる。それが世の理――
「王様っ!!」
「きゃあ!?」
完全に瞼が下がりきる前に声が聞こえた。身を包む膜がパッと消えて体が動く。絡まる拘束がなくなった。
「遅れて申し訳ありません王様。お怪我はありませんか!?」
影が差して前に誰かが立っている。それはアキより大きくて、それはアキより低い声で、それはアキより意志がある。
「……っ」
前方を警戒しながら僅かに後ろを振り向く。その目は心配そうな色を映すも力強い光がある。彼女は安心させるように勝気な笑みを浮かべて見せる。
アキは目を大きく開く。ピンチの時に駆けつける人を、人はヒーローと言う。眩い光を纏ったような頼もしい大きな背中。アキの脳裏にもヒーローという単語が過ぎった。
「約束しましたから。今度はわたしが王様をお助けします」