わん
困った。非常に困った。
どれくらい困っているかと言うと、犬を拾った時くらい困っている。
アキは途方に暮れていた。そんな彼女の眼下には前足で膝に乗り上げて高速に尻尾を振る犬がいた。
黄色っぽいベージュの小さい体。くるんと丸まった尻尾。パタンと前に折れた黒い垂れ耳。マズルと呼ばれる鼻口部と目元が黒く、顔の深いしわ部分も黒い。独特な臭いを放つパグである。アキはこの犬をぶさと呼んでいる。
「へっへっへっへっへっ、わん!」
ぶさは目を輝かせている。その瞳はまっすぐ飼い主であるアキに向けられている。今彼女が困惑している状況なんて一切気にした様子はない。
思考が停止して空中で止まっているアキの手にぶさは自分の鼻を押し当てる。触って触ってとねだっているようだ。いつもの癖で無意識に手が動く。手はぶさの頭の上を右へ左へと行き来する。
わーい気持ちー!
そんな幻聴が聞こえてきそうなぐらい嬉しそうに撫でられているぶさとは反対に、思考回路が単純では無い人間のアキは困惑を顕にしている。勝手にハイテンションになっている飼い犬には目もくれず、顔を上げて辺りを見渡している。
「*************」
「*******」
なんかよく分からん連中が意味不明な言葉を喋っている。
自分でも何言ってるのか分からないが、全くその通りなのだ。家に帰ったと思ったらなんかだだっ広い場所にいる。現実味がない……のは周囲の状況のみで自分の近く、とりわけ前方下にいる存在がうるさい犬がこれが夢ではないと言っている……ような気がする。
英語は少し、ハローサンキューぐらいは理解出来る程度の知識しか持たないアキにとっては何語かも判別できない外国語であった。しかも、どこの民族衣装だよと言いたくなるくらい皆一様に変な格好をしていた。
ハロウィンはまだだったはずだ。仮に今日がハロウィンだったとしても、コスプレするような輩が集う場所は嫌厭して近寄りすらしない。
…………今日何日だっけ?
日付感覚がなくなっているアキは今日の日付を確認しようとスマホを探す。後ろ手で探るが何も当たらない。不思議に思って上半身を捻ると鞄を置いていたはずの場所には何もなかった。
意味が分からな過ぎて苛立ってきた。
自分が短気であると自覚している。短所だろうと生まれ持った性質なので治る治せるの話ではない。嫌なことがあったらイラっとするし、面倒なことがあったらイラっとする。
と、そこへ手首を挟まれる感覚と生暖かい感触を感じた。体の向きを前に戻して視線を下げる。手首に噛み付いてじっとこちらを見上げる一匹の犬、もといぶさ。甘噛みだから痛みはない。ただのかまってアピールである。
アキは思考に意識が逸れて手が止まっていた。そもそも撫でていたのも無意識だったが。疎かになった手を叱るように嚙みついて注意を引く。つぶらな瞳と目が合う。
「お前は、変わらないな」
ふっと笑みを零してわしゃわしゃと撫でまくる。俗に言うアニマルセラピーである。人によっては現実逃避と言うかもしれない。
「**********」
「――▽▽▽。――◇◇◇◇。――これなら」
「あ?」
日本語が聞こえ反射的に反応してしまった。顔を上げると外人集団に囲まれているという不可解な状況であることを思い出した。アキは本気で今の状況を忘れていた。奇しくも現実逃避は成功していた。アキの沽券に関わることなので言っておくと認知症ではない。決して違う。
ガヤガヤと騒がしい声は早々に意識から切り離していた。言わずと知れたスルースキルである。日本語だろうと外国語だろうと都会の喧騒においてはただの音の羅列になる。気にするだけ無駄。雑多な情報が行き交う都会に揉みに揉まれたアキは嫌な耐性がついていた。
意識がその日本語に向けられたことで再び彼女の手は止まった。
現在のぶさの格好は間抜けにも腹見せ状態だ。撫でていた手が止まり、なぜかぶさもそれに倣い固まったように動かなくなった。パチリと目を開け、口を開けたまま固まっている。
硬直したままくぅーんと鳴く。しかしその声に反応する人間はいない。
「この言葉は伝わりますか?」
「……はい」
階段の上、豪華な椅子に偉そうに踏ん反り返って座る男の隣、怪しいローブを着て背丈ほどの大きな杖をついている男が話し掛ける。どうやら『ローブ野郎』が通訳人らしい。
「それでは――改めまして、ようこそ救世主様。我らのお導きにお答え下さりありがとうございます」
「へっへっへっ」
「今この国は危機に瀕しています。そこで我らは異なる世界から救世主様を召喚した次第でございます」
「へっへっへっへっへっへっ」
「人類の敵、魔物を統べる魔王が王国を侵略しようとしています。どうか魔王を討ち滅ぼし、王国を、我らをお救い下さい!」
「へっへっへっへっへっへっへっへっへっ、ワン!」
「*************」
ぶさの声で『ローブ野郎』の声がかき消される。それは言葉が通じない奴らも同じように感じたらしく、椅子に座る『尊大野郎』が怒鳴るような声を発する。しかし『尊大野郎』は自国の言葉のようで何を言ったかはアキには分からない。
分からないが、だいたいの内容を察することはできる。大方、「うるさいぞクソ野郎が!」とかそういう類の暴言でも吐いたのだろう。なぜなら自分ならそう言うと思ったからだ。
「ぶさ、静かにして」
「ワン!」
「静かに……」
「ワンワン!」
ダメだこりゃと頭を抱える。いつもはもう少し大人しく……はないな。全然全く常日頃と変わりなくいつも通りである。躾? そんなの早々に諦めた。時には諦めも大事って言葉、知ってるか?
つまり、そういうことである。
アキはなんとかぶさを黙らせる。黙らせると言っても虐待とか暴力ではない。動物相手に手を出すほど人間味は腐ってない。単純にかまってやれば夢中になって口は静かになるだけだ。要は撫でていれば欲求が満たされる。なんて単純なのだろうかと毎回思う。まあ、楽で良いが。
アキがぶさにかまっている間に外野はなにやら話し合っていた風だった。なんの話かは分からない。日本語ではないから理解できない。さっきの『ローブ野郎』の話はぶさで気が散って内容が頭に入ってこなかった。つまり聞いてないのと同じである。
「――では、救世主様。明日から早速、魔王討伐に向けた訓練を行っていただきます」
「は?」
突然話を振られて素っ頓狂な声が出た。思わず『ローブ野郎』に顔を向けた。
ナンだ、救世主様って。めっちゃくちゃだっせえ。
アキは羞恥に駆られた。なぜそんな呼び方で呼ばれているのかも分からない。『救世主』が気になってその後の言葉は頭に入ってこなかった。
とにもかくにもアキは今現在、猛烈に穴があったら入りたい気分になっていた。いっそのこと埋まりたいとすら思っている。それほどにアキにとってはとてつもなく羞恥心を煽る呼び名であった。
「これより救世主様のお部屋にご案内します」
「*************」
アキの前にキラキラした爽やかな男がやってきた。彼はアキに向かって優しく微笑み手を差し出す。
アキは目の前にやってきた男を見て目を見開く。少し口を開けたまま固まっている。そんなアキの様子を見て彼は笑みを深めた。
「無理、キモイ」
小さく呟いた声はとてもとても低い声だった。口の端を引き攣らせ、眉を顰めている。とても嫌そうな顔をしている。
アキは顔が良いと言われている男性を毛嫌いしていた。人の美醜は気にしない性質だが嫌でも分かるのだ。そういう輩ほど自分に自信を持ってますよな雰囲気を纏っているから。自尊心の塊。
イケメン撲滅委員会という団体があれば間違いなく入会していただろう。それぐらい避けたい存在なのだ。
日本語が通じるのは『ローブ野郎』だけらしく、目の前に居る『クソ野郎』はアキが何と言ったのかは分かっていない。そして、通訳人である『ローブ野郎』とは離れた場所にいるのでアキの声は届いていない。
結果、自分の都合の良い様に解釈した『クソ野郎』はさらにアキとの距離を詰める。
見たくない人物を視界から追い出すように下を向く。俯くと今度はぶさの顔が現れる。アキの顔を舐めようとしたのか膝に乗り上げて顔を近づけてくる。徐々にぶさの顔が近くなって……急に視界からいなくなった。
「うわっ、ちょ、っ……なにすんだ!」
「*********************」
「な、離せ!」
手を掴まれて一気に鳥肌が立つ。拒否反応である。苦手意識が芽生えてから自分から距離を取ってなるべく関わらないようにしていたら、症状が悪化したようだ。振り払おうとしたがしっかりと握られて離れない。
「ぶさ!」
取り敢えず目の前の『クソ野郎』はほっといてぶさが消えた方向に顔を向ける。少し離れた場所で自分の尻尾を追いかけるようにクルクル回っている。大変楽しそうである。
取り越し苦労かと安心した、その時だった。
「あっ……」
「****」
ぶさが片足を上げる。まさかと嫌な予感が頭を過ったがそのすぐ後に嫌な予感が的中してしまった。それと同時に不運な被害者が悲鳴らしい声を上げた。
ぶさは近くに居た甲冑に向かって排泄した。
アキは思わず天を仰ぐ。確かに電柱に見えなくはない。色合いは似ているし、大雑把に見れば同じに見えなくもないわけがなかった。超強引にこじ付けしても無理な気がするが、いやまあ犬だしな。区別つかないのも無理はない……のか?
少し考えて、してしまったものは仕方ないと結論付けた。本日二度目の現実逃避である。諦めとも言う。
『クソ野郎』が何か言うと不運な甲冑の隣に居た別の甲冑がぶさを掴み上げる。そしてそのままどこかに持って行ってしまった。
「ぶさ!? 待てっ、ぶさをどこに連れて行く気だ」
ぶさを取り返そうと立ち上がったアキは、しかし『クソ野郎』によって行動を阻害される。その手を振り払おうとした瞬間、突然強い眠気がやってきた。視界がぼやけて立っていられない。
「くそっ、ぶ、さ……」
力が抜けて体がふらりと左右に揺れる。立てなくなる体を『クソ野郎』に支えられる。離れようとしても体が思い通りに動かない。やがて意識が保てなくなり、アキは眠りに落ちた。