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差し出す心と遠い昔の子守唄、の形

 あの後、俺たちはもう一度温泉で汗を流し、そのまま解散となった。

 せっかくなのでと向かった露天風呂からはすぐ近くの海が見下ろせ、月光に照らされた大海原の絶景はなかなかのものだった。


 夜。

 旅館の従業員が敷いていてくれた布団に入って視線を巡らせる。

 静かな部屋。見慣れない天井。

 窓からわずかに降り注ぐ月光が、広縁ひろえんを淡く照らす。

 見慣れたはずの月は、どこか普段と違って見える。


 妙に寝付けず、俺は少し暇を潰そうと部屋を出た。

 時刻は既に十時を回っている。みんなはもう寝ているだろう。そうでなくても部屋で談笑でもしているかもしれない。


 せっかくなので砂浜で月光浴でもしてみるのもいいかと思い、俺は受け付けの人に一言伝えて外に出た。

 ここの門限は十一時、それ以降は鍵が閉められるらしいので、それまでには戻ってこなければならない。


 聞いた話ではここから歩いてすぐのところに砂浜があり、遊泳は禁止されているが、そのおかげか人が来ないため、海は綺麗なのだとか。

 旅館から出て少し歩くと、すぐに水平線が見えて来た。今日は月が明るいため、外灯が少なくても十分見える。


「そういえば、こんな旅行らしい旅行は初めてだな」


 海岸に面した坂道を、砂浜に下りられる場所を探しながら歩く。

 そうしているとふと思った。

 俺はこれまで旅行というものに行ったことがない。

 母子家庭で母さんは昔から仕事で忙しくしていたため、家族でどこかへ出かける機会自体がほぼなかった。なんとか母さんが休みをとってみんなで出かけるという話になったときも、昔の俺はあまり興味がなかったため断っていた。そういうことを何度か繰り返しているうちに、気を遣ってかみんなで旅行に行こうと言い出すこともなくなり、気付けば最近では家族そろって外出すること自体稀になった。

 俺が呼称を変えてからは、この前のフランス料理のときのように偶にどこかに出かけることはあっても、やはり泊りがけで旅行に行こうという話はない。

 というか俺、小中の修学旅行も行ってないからな。中学の時は、学校をさぼりまくっていたらいつの間にか終わっていた。テストを受けに久しぶりに訪れた学校でアルバム用の写真を選ばされたときは、集合写真くらいしかなくて写っているものがなくて2秒で終わった。思い出とはいったい、という話だな。


 ……そうか。つまりこれは俺にとって初めての旅行なんだな。


 立ち止まってガードレールに肘を置き、水平線を見下ろす。

 美しい海だ。


 ザーッ……ザーッ


 波音なみおとに耳を澄ませ、潮風を吸い込む。知らない町の知らない空気。塩辛さと水気を含んだ生温かい空気は、慣れないうちは不快感が強い。

 夜とはいえ汗ばむ季節。その不快感もあわせて、全身でこの町を感じる。何とも言えない新鮮な気分だ。

 そこでふと、砂浜に妙な人影を見つけた俺は海から視線を切って砂浜に目を落とす。


「ん? あんなところで何してんだ、あいつ?」


  砂浜にポツンと立つ東屋あずまや。せっかくの海も月も見ないで、ベンチに腰掛け、何か分厚い本のようなものを黙々と読んでいる人影。

 砂浜に下りてゆっくり近づく。


「こんなところで何してんだ? 部屋に居場所がないならちゃんと言えよ?」

「っ!」

「うおっ……と」


 いつもの調子で冗談交じりに軽口を叩いて近づいたのだが、思いのほか驚いた様子の一ノ瀬はびくっと身体を跳ねさせ、次の瞬間には問答無用で顔面に掌底打ちが飛んできた。


「あなた……っ。なっ、何をしているの?」


 顔面の前で受け止められた自分の手に一瞬目を見開いた一ノ瀬は、今やっと相手が俺だと気づいたのか、言って怪訝な表情で首を傾げる。


「いや、まずは突然人の顔面に掌底打ち打ち込もうとしたことを謝れよ。言っとくが、お前の攻撃力はツンデレで済まされるレベルを超えてるからな? 割とマジで、俺じゃなかったら怪我人出てるからな?」

「……私の突きを平然と受け止めているあなたが異常なのだけれど。それに誰彼構わずこんなことしないわよ。身の危険と極度の不快感を覚えた時に、自然と体が反応するの。いわばこれは不可抗力だわ。正当防衛ね」


 すぐにいつも通りの冷たい眼差しになった一ノ瀬は、すらすらとそんなことをのたまう。


「そんな特別扱いは嬉しくねえな。……それで、こんなところで何してたんだ?」


 濁されそうな会話を切って、俺はさっきから一ノ瀬が隠そうとしているノートの束を覗き込むように見る。


「っ……べつに、少し月光浴でもと思っ……いえ、日課の勉強をしようと思ったのだけれど、皇さんに迷惑をかけると思って出てきただけよ」

「……なんで途中で誤魔化すのをやめたんだ?」

「あなたに嘘を吐いて、罪悪感を感じる方が不快だわ」


 さすが一ノ瀬。期待通りの回答だった。


「……ま、何しててもいいんだけどな。ん? でもお前、宿題は終わっているんだろう?」

「宿題をすることと勉強をすることは違うわ。まあ、その最低限のことすら終わらせていないあなたには分からないでしょうけれど」


 憐れむような視線を向けられる。口元には小さな微笑が浮かんでいる。

 いつも通りの彼女の雰囲気だ。

 妙な気まずさを埋めようと言葉を紡いだが、上手くいったようでなによりだ。


「悪かったな、落ちこぼれで。それにしてもお前、普段から毎日これぐらいの時間まで勉強しているのか?」


 だとしたら凄いな。高校生の自宅等、学校以外での学習時間の平均は約二時間程度だ。


「っ……いいえ、今日はたまたま月が綺麗だったから、そのついでに勉強でもしようと思っただけよ。普段は学校の授業だけで充分だわ」


 一瞬だけ言葉に詰まった一ノ瀬は、すぐに涼し気な顔で言ってぷいとそっぽを向く。


「いや、流石にそれは無理があるだろ」

「うっ、うるさいわね! 私は完璧なのよ! 努力なんてしなくてもっ」


 バサッ。

 自分でも苦しいと思ったのか、勢いで押し切ろうと体勢を変えた瞬間、先ほど後ろに隠していた参考書が数冊ベンチから落ちた。


「あっ、ちょっ――」


 一ノ瀬が拾おうとしたそれを一冊すばやく拾い上げる。


「……なるほどな」


 随分と使い込まれたそれは、どれも三百ページほどありそうな分厚い参考書だった。丁寧に使われてはいるが、それでも至る所に折り目や文字が書き込まれ、使い込まれているのがよく分かる。

 一ノ瀬の成績は今更言うまでもないが、皇の勉強を見てやっているときも、一ノ瀬の説明はとても分かりやすいものだった。

 才女だ何だと言われているこいつも、陰ではこうして努力しているんだな。


「かっ、勘違いしないで! これはたまたま鞄の中に入っていただけで、普段から使っているわけでは」

「いや、べつにそんな隠すようなことでもないだろ? というかなんで隠そうとするんだ?」


 なおも往生際悪く俺から本を奪い取る一ノ瀬だが、なぜそんなに努力していることを隠そうとするのだろう。


「っ……あなたには関係のないことよ。それと私は努力なんてしていないわ!」


 どう考えても嘘にしか思えないのだが、しかし本人がそこまで否定するのならそれ以上この話をするのは避けたほうがいいだろう。


「そうか。まあ、その話はいいんだが、なんでわざわざ外に出たんだ? べつに部屋でもできるだろ?」


 月光浴を理由に使っていたが、こんな潮風が吹き付ける紙の天敵のような場所で本を広げていたら、月明かりを楽しむ余裕などないはずだ。というか、そもそもこいつ月見てなかったし。


「月が見たかったというのも嘘ではないけれど、考えても見なさい。せっかくの旅行で同部屋の人間が勉強を始めたら、皇さんに気を遣わせてしまうでしょう?」


 当たり前のように言って息を吐く一ノ瀬。

 思えばこの旅行中、一ノ瀬は決して空気を悪くするようなことは言わなかった。……いや、うっかり言っていたときもあったが、しかしすぐに否定し、この旅行の印象が悪くならないように気を配っていた。村崎先生がミスを気にしていたことも、俺達がそれに気を配っていたことも、普段の一ノ瀬であれば自分から何か言おうとはしなかったはずだ。しかし、今回は違った。


 いや、今回に限った話ではない。


 テスト後の打ち上げのときもそうだった。部室の掃除をしたときも、甘地先生の誕生日を祝ったときも、そしてこの前の夏祭りも。

 五月の終わり、初めて出会ったときの一ノ瀬と今のこいつでは、明らかに変わったところがある。いや、変わったのではない。こいつの言葉を借りるとするなら、一ノ瀬の中で俺たちが変わったのだ。


 俺、九十九万才つくもばんさいと一ノ瀬雅いちのせみやびは別の人間だ。性別が違う。体格が違う。志が違う。声が違う。面差しが違う。息遣いや言葉遣い、思考過程に行き着く未来、たどるだろう人生が、何もかもが違う。

 そんな俺と一ノ瀬との間で何か一つ、思いが重なる部分があるとするならば、それは()()の存在だ。

 たった一つ、もしもその歯車が存在しなければ、俺とこいつは噛み合わなかったかもしれない。

 人気のない静かなビーチ、寄せては返すさざなみの音だけが、俺たちの鼓膜を揺らす。


「なあ、一つ聞いてもいいか?」


 沈黙を破って、海を眺める一ノ瀬に問いかける。


「何?」


 そっけない声。随分と聞き慣れたものだ。


「この旅行、()()は楽しめたか?」


 ザザー……――


 一際おおきな波の音が彼女の吐息の音をかき消す。

 向けられた視線。感情の読めない瞳。


 ――月夜の晩。砂浜に佇む彼女のその姿は驚くほど綺麗で、俺は夏の暑さも忘れて魅入ってしまった。


 一ノ瀬はしばらく俺の目をみつめる。俺は黙ってその引き込まれそうなほど純粋な瞳をみつめ返した。

 やがてふと目を閉じた彼女は、


「ええ、思っていたより悪くはなかったわ。こういうのは初めてだったけれど、皇さんは楽しんでくれたみたいだし。ねえ、九十九君。私はきちんとできていたわよね?」


 どこか確認を求めるような声音で問われる。その声には同時に少しの不安の色が混ざっていた。


「そうじゃなくて。一ノ瀬、お前は楽しめたのか?」


 それに答えることなく、もう一度俺は問い直す。

 その質問に、今度は間を開けることなく一ノ瀬は答えた。


「ねえ九十九君、聞いたことはあるかしら?」


 ――あなたの幸せは私の幸せ。


 俺の予期していた答えとは明らかに違うその問いに、一瞬面くらった。

 そして同時にコツンと、俺の脳裏にある一つの景色が浮かび上がった。


**


 知らない人の、知らない声。知らない景色。その笑顔は美しく、薄く閉じられたまぶたの下、わずかに見える紅い瞳が印象的だった。


『あーなたの、えがーおは、わーたしの、しあわせ―――』


**


 っ……!

 記憶の奥に沈みかけた意識を強引に覚醒させる。 慣れない夜だからか、気が緩んでいたようだ。

 一瞬呆けたように黙り込んだ俺に、一ノ瀬は怪訝な視線を向けていた。


「意外だな。そういういかにも恋愛ソングとかに出てきそうな歌詞、お前は嘘くさいとか言ってペッてしそうだが」


 不自然に空いてしまった間を埋めるように、俺は軽口をたたく。


「……いい加減、あなたの中での私のイメージについてきちんと話をしたいわ」


 眉根を寄せて苦笑いをする一ノ瀬。俺のなかでのイメージはあれだ。休みの日は部屋で紅茶でも飲みながら『世界のこわ~い拷問百選‼』とか読んでそう。……ごめん、想像したらちょっとリアルで怖いから今のなしで。

 弛緩した空気を絶つように一度ため息を吐いた一ノ瀬は、ふと優しい目をした。


「まあ、私も少し前までは考えもしなかったけれどね。……皇さんが楽しんでくれたのなら、それが私の幸せよ」


 …………。

 こいつの言いたいことは分かった。というか、最初から分かっていた。

 ただ、まだ俺には納得のいかない部分がある。


「俺が聞いているのはそういうことじゃないんだが」

「そうね。……けれど、それが事実だもの」


 ただ……、一ノ瀬は続ける。キッと視線が鋭くなった。


「今回は許すけれど、次に真剣勝負であんなプロレスじみたことをしたら、私はあなたを許さない」


 怒気を孕んだ視線が俺の目を貫く。


 ――ああ、それだ。その視線が、一ノ瀬雅という一人の少女を物語っている。他の誰でもない。眩しくて気高い、俺を引き付けて止まない脆くて危ういその瞳が、俺にはずっと羨ましかった。


「……ああ、肝に銘じる」


 その瞳に魅せられて、俺も真剣に答える。

 どうせハリボテで、嘘で塗り固めただけの空っぽの目でしかないくせに。それでも今その目をしなければ、俺はこいつらの隣にはいられないと思った。





「そろそろ戻らないと野宿する羽目になるぞ」


 持ってきていたスマホで時刻を確認しながら言う。


「そう。では行きましょうか」


 そう言って待つことなく宿へと歩き始める一ノ瀬。その華奢な肩にはあの分厚い参考書の入った手提げ袋がかかっている。

 その声を聞いて、俺は妙に足取りが軽くなったような気がした。

 少し歩調を速めて一ノ瀬に追いつくと、何も言わず手を差し出す。


「……何? セクハラ? 警察を呼べばいいの?」

「ばっかお前……。どう考えても荷物持ってやるって合図だろ?」


 迷うことなく携帯を探し始める一ノ瀬に慌てて言って、荷物を受け取る。

 そんな俺の様子にどこか驚いたような表情で目をパチパチさせる一ノ瀬。


「な、なにか?」


 妙な沈黙。何か悪い事でもしたかと不安になる。


「え? い、いえ、……こういうことをされたのは初めてだから、少し驚いて……」


 視線を逸らし逸らししながら言う一ノ瀬。

 いや、祭りのときとか普通に荷物持ちしてたんだが……。というか、もう少し言い方に気を付けてほしい。その言い方だとなんか……な? 頭の中で理事長の顔が浮かんで気まずいから。


「……あ、……ありがとう」


 グフッ‼

 恥ずかしかったのかそっぽを向いていた一ノ瀬。小さく聞こえて来たそれに、俺の心臓が跳ねた。


 ……………。

 旅館までの道のりを、俺達はしばらく無言で歩く。


「ねえ、九十九君」


 もうすぐ旅館に着く。

 いつの間にか、当たり前に呼ばれるようになった名前。

 俺が何か口を開く前に、一ノ瀬は「さっきの話だけれど」と続ける。


「――私はね、もうあの子には、何も失って欲しくないの」


 隣を歩く一ノ瀬。一台の車が俺の隣を走り抜けた。

 ライトに照らされたその横顔を、忘れることはないだろうと思った。


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