夏の海は危険がいっぱい、の形
「どうしてこうなった……」
大海原の向こう。見渡す限り広がる水平線を前にして、俺はそう独り言ちる。
「なんだ? やはり君はそのなまっちろい見た目の通り、こういうイベントは嫌いかい?」
パラソルの中。大海原の絶景に荒んだ心は洗われ、自然の雄大さに刺激されてか若干の全能感に浸っていた俺に、海だと言うのに水着どころか半袖のラフな格好になっただけの甘地先生が両手に結露した水滴が滴るたくさんの飲み物を抱えて俺の隣に立つ。
「いうてそんなに白くないでしょう? いえ、べつに嫌いってわけじゃないですけど。むしろアニメとかの水着イベントは大好きですよ」
俺は悟りを開いた仏陀さながらの澄み切った瞳で答える。
そう、俺はまったくもって海は嫌いではない。むしろこうして美しい景色を静かに眺めるのはとても悪くないと思う。
……ただ人間、いくら好きなこととはいえ、それ以上に楽しみにしていたことが裏切られてしまった直後は、否応なく気分は落ちるものだ。
「なんだその気持ちの悪い瞳は……。それにしては、あまり楽しんでいるようには見えないが?」
言われてるぞ仏陀……。
いくら悟りを開いたとはいえ、そんな風に何も分かっていない風に首を傾げられては、俺も思うところがある。
だって……っ。だってだ。だってそうだろ? だって――
「ッ……なんであんたら、海に来るのに水着忘れて来てるんですか!」
どうやら俺の悟りの扉は思った以上にガバガバだったようで、目の前の海の絶景よりも今日みんなの水着姿が見られなかった後悔が俺の悟りの道をぶち壊した。
察しはついているかもしれないが、今日は夏休み前の部室の掃除の際、俺が適当に言った海の話が思いのほか好評で、一ノ瀬を除くほぼ全員が前向きに検討したため催された集まりだ。
ぶっちゃけ……というか、どう考えてもただ長期休みに何人かの友人と集まって遊びにきただけなのだが、名目上は部活動の一環としているため、先生たちはその付き添いという大義名分を得ている。強化合宿みたいなことだ。学校の教員と生徒が休みの日に共に予定立てて遊びにいくのはあまりよろしいことではないという配慮なのだが、ものは言いよう。というより言いわけの部類だ。ギリギリもいいところだな。
「なっ、なにもそんなに大声を出さなくても……。そもそもの原因は、君が今日の宿を間違えて予約していたからだろう?」
「うっ……。それはそうかもしれませんが……」
それを言われては少し言葉に詰まるところだ。
本来であれば海に行くのは来週の予定だったのだが、宿の予約を担当した俺が一週間勘違いして予約していたため、先週の内、つまり今日・明日で水着を新調しようと計画していた先生たちは突然その日に海に行くことになり、そのため水着の用意などなかったのだ。
俺は今日海に行くのだと思っていたため準備していたのだが、一ノ瀬や先生たちは二日ほど前に俺が交通手段などの確認のために送ったメールで認識の齟齬が発覚し、慌てて予定を開けて今日参加してくれた。
それにしてもよくなんとかなったものだ。
「でも、俺は今日だって知らされていましたから、一番やらかしてるのはもう一人のポンコツ教師ですよ」
八月の海辺の宿を予約しようとすると結構前から連絡を入れる必要がある。そのため俺は予定が決まってわりとすぐ、七月のうちに宿を探したのだが、それでもやはりどこもいっぱいで、探し回ってなんとか近くの旅館の予約をとりつけた。しかし予約する前に念のため村崎先生に確認を取った際、俺は確かに今日だと聞いたのだが、それが先生の勘違いだったのだ。
「……まあ、そう言ってやるな。菫もそれを気にして今日の宿代は自分が持つと言っていたし、それに間違いは誰にでもあることだ」
先生は困ったように笑って、俺の隣に腰を下ろした。ひょいと冷たいペットボトルの飲み物を頬に当てられ、思わず「ひゃっ」と間抜けな声が出てしまった。
「いえ、まあ俺はべつに構いませんが。先生たちが気にしないのならそれはいいんです」
俺は最初から今日のつもりで考えていたし、困ったことと言えば楽しみにしていたみんなの水着姿が見られなかったことくらいだ。一番の楽しみだったのもそれなんだがな。
「ははは……、なに、水着ももう少ししたら見られるだろう。来る前に立ち寄った店で、一ノ瀬たちが購入していたからな。今、更衣室で着替えているが、そろそろ終わるだろうから迎えに行ってやれ」
「ッ⁉ マ、マジですかっ⁉」
その寝耳に水の情報に先ほどの悟りはどこへやら、俺はばっと先生の方を振り向き、その細い肩を掴みかかる勢いで立ち上がる。
みんなが水着を持ってきていないと聞いてショックで海を眺めている俺を荷物番にし、みんなで飲み物を買いに行ったはずが甘地先生以外なかなか戻ってこないため、どうしたのかと思っていたが、やはり悟りは開いてみるものだ。
「あ、ああ……。流石にそこまで露骨に興奮されると少し怖くなってきたぞ」
言葉通り若干引いたような先生は、俺から少し距離をとって両腕を前で組んだ。じょ、冗談ですって。だからそんな目で見ないでくださいお願いします。
「そ、それじゃあちょっと行ってきますね。先生もナンパとかには気を付けてください。いえ、将来を約束できる相手なら別ですが」
「だっ、だまれ九十九! いいから早く行きたまえっ‼」
こういう場に女性を一人にするのは心配だったので言ったのだが、先生に顔を真っ赤にして追い出されてしまった。まったく、女心は難しいものだ。
*
観光客の多いビーチにはよく海水浴やサーファーのための更衣室が設置されていることが多いが、ここのビーチのそれは思っていた以上に大きかった。もちろん男女別々に分かれており、トイレやシャワーなどの嬉しい設備がそろっている。衛生面も気になるところだが、比較的建物も新しく、安全面も心配なさそうだ。
やはり真夏のビーチは結構な人口密度だが、更衣室などが連なる建物の周辺は海の家などが集まっていることもあり、より混雑していた。俺と同じく連れを待っている人間や、更衣室から出てきたところに声をかけようとしているチャラついた見た目のナンパ師など、その男女比率はどちらかといえば男性の方が多い気がする。
もうあいつらが出てきている可能性もあるため、人ごみをかき分けつつ周囲を見回すが、一向に見当たらない。まだ更衣室の中だろうか。
すれ違う水着のお姉さんに視線が吸い寄せられそうになるのをグッと堪え、更衣室の前のベンチに腰掛ける。念のため、みんなが出て来てすぐに気づきやすい場所を探した。
彼女達とは違い、今日のために適当な海パンを購入して来ていた俺は現在、まなみが選んでくれた海パンと適当なサンダル、上半身には少し大きめのアロハシャツを羽織った格好だ。先生も揶揄していたように普段からあまり出歩くことのない俺は、どちらかと言うと色白な部類かもしれない。帰った後の日焼けが怖いな。一応日焼け止めを塗っているが、海に入ったり汗をかいたりすることを考えると、あまり期待できないだろう。
周囲の喧騒に顔をしかめつつ、俺はちらと更衣室の出口に視線を向ける。あまり見すぎては不審者扱いされてしまうかもしれないので、あくまでチラッとだ。もうそろそろ出てくるだろうとは思ったが、まだ彼女達と思われる背格好の女性は見えない。
何もすることがないため、俺は更衣室から視線を切ってビーチを眺めることにした。
あ、今ナンパしようとしていた男が女性の連れの男性に追いかけまわされている。お、その隣では男女十人ほどのキラキラした、いかにも俺達一軍だぜ(笑)の大学生かなんかの集団がワーキャー騒いで、それを迷惑がったグラサンかけたいかついおっさんたちに取り囲まれていた。っと、またまたその隣では初々しいカップルが愛の告白を――
こうして観察してみるとなかなか飽きないものだ。我が事なら笑えないような光景も、他人のことなら全力で笑い飛ばせる。笑う門には福、来たるのだ。は・は・は……。
「ねえ、君ひとり?」
そんな愉快な思考でビーチを眺めていると、ふと知らない女性の声が上の方から聞こえた。そちらに目をやると、大胆な水着に身を包んだ、明らかに俺より年上の女性が三人、上機嫌に俺を取り囲んでいる。
「俺は生まれて此の方一人です」
集団リンチでも始まるのかと身構えつつも、綾さんから学んだ『女性に名前を聞かれたら、答えなければいけません』という教育を思い出し、俺は素直に答える。なんだかんだと聞かれたら……。
「あはは、何この子? ちょー面白いんだけど」
「たしかに! てかやっぱよく見たらめっちゃイケメンだし。めっちゃ上玉じゃん! ヤバー。ほんとに一人なの?」
「見た感じあんまオシャレとかしてないっぽいけど、その目のやつってカラコン? 結構リアルだねー」
キャッキャウフフというより面白い獲物を見つけた時のカラスのように姦しく話しかけられる。客寄せパンダになった気分だ。
とはいえ、これが純粋な好意だけのものであれば悪くはないのかもしれないが、どうみても目の前の女性たちは明らかに面白がっている。俺が年下だと察していることや、先ほどから聞かれた通り俺が素直に答えていることなどから、自分たちの優位性を感じているのだろう。正直あまり気分のいいものではない。目の前で揺れ動くけしからん果実につい目が行ってしまっていることがバレているのだとしたら、残念ながら彼女たちの失礼な態度の原因は俺にも分散されてしまうが。
しかし困ったな。この状況は言うまでもなく逆ナンというやつだろう。昔からこういう場所で一人になるとたまにこういうことがあったため慣れていないわけではないが、好きか嫌いかと言うならあまりいい気分はしない。逆ナンされて良かった相手は綾さんくらいだ。もっともあれは冗談交じりのものであったが。
「――何をしているの、九十九君?」
俺がどうしたものかと困惑していると、ふと「どこで遊ぶ?」だの「今夜大丈夫?」だのと勝手に盛り上がっている彼女たちの後ろ、彼女たちに遮られて顔は見えないが、そう言ってかけられた声はよく知っている女性のものだった。




