夢と現実、の形
歩いているうちに体力が回復した俺は、通い慣れたあの墓地の方へと早足で向かう。外灯とは別に、時々ドーンドーンという音とともに木々の隙間からちらちらと色のついた光が視界に入った。
手入れのされていない道。一応コンクリートで舗装されてはいるが、ほとんど獣道といっていい。夏だから一層荒れているのかもしれない。
伸びきった草に荒れた小道。あの頃から随分と変わったものだ。それもそうか。月日の経過はいつも何かの変化だ。
背の高い草に遮られて見通しは悪いが、木々の隙間から古くなった自販機がちらと見えた。近づいてみてみる。懐かしいな。ところどころ古びてはいるが、まだ営業していた。改めて考えると、なんでこんなところに自販機が置かれているのだろうか。補充しにくるのも大変だろうに。
「あっ、お兄ちゃん、こっちこっちー!」
木々が生い茂る小道を抜け、見晴らしのいい開けた場所に出て、つい月日の経過に感じ入っていた俺に、視界の左下、崖になっている斜面の柵の傍にポツンと一つ設置されたベンチに腰掛ける一ノ瀬たちと、こちらに手を振る妹の姿が目に入った。
「おお」
手を振るまなみに返事を返し、俺もみんなのいる方へと向かう。
「あら、遅かったわね。てっきり皇さんが最後だと思ったけれど、まさかあなたがそんなに虚弱だとは思わなかったわ」
花火を眺めながら皇と話していた一ノ瀬が、俺に気づいて得意げに言う。負けず嫌いさんか。
「そうだな。か弱くて繊細な子なんだ。そこの葉っぱが散るまでの儚い命。優しくしてやってくれ」
まさか『皇をお姫様抱っこして、疲れたから休んできた』などとは口が裂けても言えない。ちらと一ノ瀬の隣に目をやると、ぎこちなく笑う皇と目が合った。隠し事に気まずさを感じているのか、サっと視線を逸らされる。どうやら皇も一ノ瀬に本当のことは伝えていないようだ。
「あなたの場合、悲劇のヒロインというよりどちらかというと喜劇の道化師の方が相応しいんじゃないかしら?」
「お前、今ぜったい道化師って書いて“笑いもの”って読んだだろ?」
「ごめんなさい。あなたはピエロというよりジョーカーよね? 冗談みたいな人生だもの」
「……まあ、たしかに」
こいつが俺の何を知っているのか知らないが、しかしそう言われてしまえばそうですねと答えるしかない。俺の人生はマジでジョーカー。闇のブローカーでもホアキン・フォーキスでもなく、まさに冗談のような笑い話。アメリカンよりブリティッシュの方が近いな。イギリスのテーブルの上にはマナーはあるが料理はない。皮肉の効いたところがまさに虚構と欺瞞に満ちた誰かさんの人生そのものだ。
「――ぷっ」
一ノ瀬といつものやり取りでじゃれあっている(コミュニケーションだ‼)と、後ろにいたまなみが突然吹きだした。
「ふふふ、あははははは……。お兄ちゃんたち、いつもこんな感じなの?」
何が面白いのか、目尻に涙を浮かべて大笑いするまなみ。
「そうですね、だいたいいつもこんな感じですね。部活でも二人の会話の八割がこんな感じです。始めの頃は戸惑いましたが、最近は九十九さんを否定しているときの一ノ瀬さんはどこかイキイキしていますね」
それに答えたのは俺達ではなく皇だ。
「まっ、まちなさい! その言い方だと、私がまるでこの男との会話を楽しんでいるみたいじゃない! べつに私は好きで話しているわけじゃ」
「なあ、それはそうと、さっきのジョーカーってのはトランプのババ抜きと掛けて“はずれ”とか“除け者”とかって意味も入ってたよな?」
ツンデレのツンを遺憾なく発揮しているところ申し訳ないが、俺としてはどうしてもそこが気がかりだった。妙にこういうのは途中で止められてしまうとムズムズするよな? というか、俺よりもJKであるところのこいつらの方がスペル的にはジョーカーだと思う。
「……そうね。たしかにそういう解釈もできるわね。私は“存在が冗談みたいだから”という理由しか考えていなかったから、勉強になったわ」
さも真面目腐った様子で顎に手を当て、考える仕草をしながら言う一ノ瀬。
「お前にしては珍しく殊勝な心掛けだな。しっかり後学のために役立ててくれ」
「「「…………」」」
…………。
ははは……。
大丈夫だ。言いたいことは分かっている。俺は沈黙という名の刃物から逃れるように、
「とりあえず、花火見ないか?」
―――ドーンッ。
沈黙をかき消すように夜空に美しい花が咲いた。
「……きれい」
漏れ出た声は誰のものだっただろうか。
誰よりも身近な人のものだった気もするし、はるか遠く、手の届かない世界から聞こえたもののような気もする。
三人がベンチに腰掛け、俺はその脇に突っ立って夜空を見上げる。
空に咲き乱れる言葉を持たない花々。
花火は好きだ。
その一瞬の儚さが、俺には酷く心地いい。人生……と言っていいのか分からないが、その生の中でたった一度、瞬く間に咲いて瞬く間に散ってしまう。盛者必衰を微分したような時間の尊さと残酷さ。しかしその一瞬は大勢の人々の心に形をとどめ、その美しい形のまま、“花火”として記憶され残り続ける。そこに人々は様々な余剰価値を見出し、青春の一ページとして、ほろ苦い思い出の一つとして、我が子の運命の歯車として、そっと心のアルバムに添える花とする。その人々の記憶が積分であり、そこに込める様々な感情が微分係数だ。
誰かの心のアルバムに、美しい思い出を彩りながらずっとその中で残り続ける。
そんな花火が、俺は少しだけ羨ましかった。
「……私、病院の病室とか、さっきもですけど。花火自体はこれまでたくさん見たことがありましたが、今日ほど美しいと思ったのは初めてです」
慌てるでもなく興奮するでもなく。漣の様に凪いだ声でぽつりと言った皇。それはきっと心からの言葉で、ただ思ったことを口にしているのだろう。
「ええ、不思議ね」
同じようにただ静かに相槌を打つ一ノ瀬。何の裏もない言葉通りの疑問。
それに俺は何かを言おうとして、しかし開いた口は何も言わないまま、また閉じられた。
でも少しだけ。少しだけその答えを俺は知っている気がする。
うまく言葉では説明できないけれど、たぶんそれは――……
「あったり前ですよ。きれいなものも、大切な誰かと見たら、もっともっときれいに見えるんです!」
そのきっぱりとした揺るぎのない声から、何を言っているんだと、心底そう思っているのが分かった。
……凄いなと思う。
この子はいつだって、人の温かさを信じられるんだな。
俺の妹は、この場の誰よりも大人だ。
*
静寂の中、遠くの花火の音だけが鼓膜を揺らす。
誰も口を開くことなく、ただただ黙って花火を眺める。
ドーンドーンという音が会話を阻害し、声を出すことを憚らせる。そうすれば舞い降りるのは自然、沈黙。
大抵の人間は沈黙を嫌うものだが、べつだん三人は気にした風もなく、ただ黙って花火を眺めていた。
そんななか、花火に飽きてきた俺はその視線をもっと上、花火の光とは比べ物にならないほど淡く小さな星々の光へと移す。
空に近いからか、この場所は昔から星空が美しい。とは言っても、幼い俺が夜遅くまで出歩くことは母さんに止められていたため、この場所で星空を眺めたのはここ最近のまなみと来た祭りの時と、昔、綾さんがいたときの数回だ。
人によって意見は分かれるかもしれないが、俺は花火の光も美しいが、今日のような満点の星空もまた、それと同じくらいに美しいと思う。花火はこうした祭りのときくらいしか見られないが、星はいつでも見ようと思えば見られる。ただ夜に少し外に出て、ふっと夜空を見上げるだけで、これほど美しい光景が見られるというのはなかなか贅沢だろう。もちろん天気や場所によっても変わるかもしれないが、年に数回、その期間内にしか見られない花火と違って、星空なら少し車を走らせれば見ようと思えばみられる。ご近所さんに気を遣うことも、一々公園の禁止事項を確認する必要もない。
わっと誰かの歓声が漏れた。一際大きな花火だ。それに続いて、また誰かが「きれい……」と声を漏らした。
空から視線を三人に向けるが、彼女達の瞳に映るのは華々しい花々で、誰もその後ろの小さな光など気にとめていない。
きっと今、祭りを楽しんでいるほとんどの人間が夜空を見上げ、そしてその瞳にはこの花火の絶景を映しているのだろう。
いつだって、どこだって、だれだって。人は自分の見たいものしか見ようとしない。いや、見られない。
花火の煙でわずかに霞んだ淡く弱弱しい光。
生憎と記憶の中にはない光景ではあるが、不思議と懐かしい気持ちになる。
確かあの星々の光ははるか遠い昔、宇宙のどこかで輝いている大きな大きな恒星が発したものなのだとか。それは太陽よりもはるかに大きなものもあれば、もしかしたら宇宙人が住んでいるものもあるかもしれない。ただ一言言えるのは、今この瞬間、その星が発した一瞬の光の矢が、俺達の目に映ることはないだろうということだ。太陽ですら今地球に届いている光は約八分前に発せられたものらしい。何万光年も離れた星の光など、もしかしたらもう既に消滅してしまった星だってあるかもしれない。
今、目に見えているものがもしかしたらもう既に失われているかもしれない。
そう考えると、人の一生のうちでは考えるだけ無駄な話ではあるが、少し背筋にゾッとするものがある。
昔、この手の話を本で読んだときは、物凄く高性能の望遠鏡を作って別の星から地球を見れば、過去の地球の様子を覗き見れるんじゃないかとか思ったんだがな。よく考えてみたら、そこまで行っているうちに寿命を迎えそうだ。ワープ装置を誰か開発してくれないだろうか。
人の目には、『今』の情報しか映らない。見えているものしか、現実として認識できない。
当たり前のことだ。誰もが知っている世界の心理。
……でももしも、もしも本当にいつかワープ装置が完成して、今よりもずっとずっと遠い星まで人類が行けるような未来が来たら。その時にすごく高性能な望遠鏡があったら。
もしかしたら、また綾さんに会える日が来るかもしれない。…………なんてな。
我ながら、その現実味のない無意味な妄想に思わず自嘲した。
そんなものが無くたって、俺の中には確かに彼女との思い出がある。思い返せば切なくて、目を背けたくなる日もあるけれど、それでもこの場所での綾さんとの思い出を、過去を、俺だけはずっと持っている。
だから俺に、ワープ装置は必要ない。
「――……俺だけ……か」
ヒュ~~~~ドーンッ!
ぽつりと漏れ出た声は、一際大きな花火の音にかき消され、その一瞬あとには夜空に今日一番の花が咲いた。
わっと声を上げる三人。
「す、すごかったですね、さっきの……」
「ええ……、規模からしてニ尺玉かしら? あまり大きなお祭りではないと思っていたけれど、なかなかお金かけているわね」
その大きさにただただ圧倒されている皇と、「ふむ……」とか言ってぶつぶつと何かを考える一ノ瀬。ところどころで「数千発の花火のうち四号玉以上が……」「最後のは印象的だったけれど、それ以外は比較的……」「何発か不発のものもあったし、数で誤魔化していた粗悪品を考えると……」などという祭りの熱を急速凍結させるような言葉が聞こえてくるが、お願いだからそれ以上ボリュームを上げないでほしい。というかこいつ、結構花火好きなんだな。
さっきの大きな花火で最後だったのか、次の花火の音は聞こえてこない。
「ねねっ、さっきの凄かったよね‼ おっきいのがどっかーんって! どっっっか~んって‼」
胸の前で興奮したようにブンブンと腕を振って、そのすごさをアピールするように大袈裟に声を張るまなみ。
ああ、可愛い。とても可愛い。俺にとってはこの笑顔こそ花火だ。二尺だろうが四尺だろうが、我が妹の笑顔の前にはコンビニのバチバチいっているやつと大差ない。異論は認めない! 花火によって花火を点火する。なるほど、これが聖火リレーか。
「ああ、今年のは凄かったな」
妹の笑顔をできるだけ堪能しておきたいので、俺は素直に賞賛する。
「? 今年のはということは、例年の花火はこれほどでもなかったということですか?」
「ああ、去年まではもう少し少なかったし、最後のでかいのなんてなかったからな。スポンサーにテレビ局が入ったから奮発したんだろうな。ほら、最近よくCMで花火大会の宣伝してただろ?」
それに伴って地元の有力企業からの寄付金も増えたもんだから、今年の祭り自体が例年より大規模なものとなっていた。
「なんだか生々しい話ね……。そのことを知らずに見ていたら感動ものなのに、聞いてしまった今はなんだか夢から覚めた気分だわ」
いや、お前はさっきからずっと現実を生きていたと思うが……。
理想の対義語は現実。夢の対義語もまた現だ。
「そうですか? 私はべつにそうでもありませんが。誰かとこうしてお祭りで花火が見られるなんて、それこそ私にとっては夢のようなことですから」
大切な宝物を慈しむ少女の様に、そっと胸に手を当て、ぽつりと言った皇。その思い出を忘れないように、必死に心のアルバムに書き留めようと、皇は目を閉じたまま今の時間を噛み締める。
そんな皇の様子を、俺と一ノ瀬はただ黙って見つめていた。事情を知らないまなみも、そんな俺たちの様子に何も言わず、一歩引いたところから眺めている。若干その目には寂しさのようなものが滲んでいた。疎外感というか、孤独感というか。さっきまで身近に感じていた俺たちが、自分の知らないことで真剣な雰囲気になっている。その中で自分が何の関係もない赤の他人だという事実が、彼女には寂しい事なのだろう。誰だってそうだ。でもそれでもこの場では何も言わず、ただ黙ってそれを押し殺してくれるまなみには感謝しかない。ありがとう、まなみ。今度ショートケーキワンホール買ってやろう。なんかボウリングの用語みたいだな。それかゴルフ。詳しくは知らないが。
「では、きっとこれからは毎日が夢の中になるわね」
その沈黙を破ったのは意外なことに一ノ瀬だった。
決意のこもった瞳。俺たちは数舜、その瞳に時間も忘れて見とれていた。
久しぶりにこいつの目をまっすぐに見た。
綾さんのものとも華さんのものとも違う。もちろん皇のものとも。
それは俺が初めてあの教室に入ったとき、あの綾さんの墓で仲直りしたとき、その先を見たいと心から思った。そう、それはとても美しく――……
一ノ瀬の言葉の意味を考え、その意味を理解した皇はプレゼントをねだる子供の様に、
「してくれるんですか?」
「夢の中にするのよ、私たちで」
……なんてこったと思う。パンナコッタとは思わない。
今日この場所にこいつらを連れて来たのは、俺と綾さんとの思い出を伝えたかったら、シェアしようと思っていたからだ。だから普段なら絶対に浴衣姿で連れてきたりしないだろうこのような場所に、無理を言って、途中で適当な靴まで買って連れて来た。少し無理して皇を担いでまで階段を上って来た。
多分それはきっとこいつらに母親である綾さんのことを伝えたかっただけでなく、もしかしたら、少しあの人との思い出を自慢したかったという子供じみた感情もあったのかもしれない。
これまで考えたこともなかった記憶の共有。思い出のシェア。
綾さんの面影を残す二人をこの場所に連れてくれば、もしかしたらまたあの日の綾さんに会えるかもしれない。
……しかし結局そんなことはなく、綾さんの思い出どころか、この場所の意味すら二人には伝えていない。伝えようと思えばたくさんそのタイミングはあったはずなのに、しかしどうしてか、その考えがそのときに限って頭から抜け落ちてしまう。
多分俺はそんなことも忘れるくらい、今日の祭りを楽しんでいたのだ。
一ノ瀬と皇、それからまなみ。三人との祭りが、今日の思い出が、綾さんと俺だけの世界だったこの場所に上書きされていく。しかし、俺はそのことに不思議と嫌な気はしなかった。
二人から視線を向けられる。懐かしいようでまったく違う、俺の心を引き付けて止まない二つの星。
俺はそれから逃げるように一度視線を空に向け、もう一度二人に向き直ると、
「ああ、現実を生きている時間より、夢の中の方が幸せだからな」
「「「……はあ」」」
花火の残り香が星明りを霞める夜空の下。俺の中で、もう既に二人はただの綾さんの娘ではなくなっていた。




