九十九まなみの形
私の家族はみんな優秀だ。
パパはいないけど、ママもお姉ちゃんも、家族の私から見てもすごく美人だと思う。ママはバリバリのキャリアウーマンだし、お姉ちゃんは成績優秀の完璧超人。
……でも、私は違う。勉強は頑張っても平均より高くはなれないし、スポーツは得意だけど、それでも何かで一番になれるほどでもない。
そんな話をすると皆、私が家族から落ちこぼれ扱いされているんじゃないかって心配してくれる。私の周りは皆いい人たちばかりだ。私はとても恵まれているね。
――けどそれはありえないよ。だってもっと凄い人が私たちの家族にはいるから。
お兄ちゃんの前では、私もお姉ちゃんも変わらず凡人。平凡でありきたりで、どうしようもなく敵わない。
そんな存在。
『天才』
冗談抜きで、その言葉はお兄ちゃんのためにあると思う。誰も並び立てない領域に両足で立つお兄ちゃんは、まさにそれだった。
――そう、だった。
私たちが『天才』だと信じたお兄ちゃんは、今はもういない。
『僕……いや、俺は、今からちゃんとした家族になるよ』
二年前。お兄ちゃんはそう言って、私たちにぎこちなく笑いかけた。
――ありえない。
それが、私たち家族が最初に抱いた感想だった。
それまでのお兄ちゃんは今とはまったくの別人と言っていいほど違っていて、どこが違うの?というとマリアナ海溝とエベレストくらいとまではいかないけど、モンブランとショートケーキくらい違っていた。それはそうと、私は苺よりも栗の方が好きだ。だから誕生日はいつもモンブランを皆で食べる。お兄ちゃんも栗が好きだけど、私の誕生日の日はいつも晩御飯をお腹いっぱいに食べて、
「もう俺、お腹いっぱいでケーキ食えないからまなみにやるよ」
と言って私にくれる。私はお兄ちゃんのそんなところがとてもとても愛おしい。
……けれど、それも少し前までは考えられなかったことだった。
今でこそ誰が見ても仲良し兄妹と言われる私とお兄ちゃんだけど、少し前まで、二年前のあの言葉を聞くまでは、私たちは決して仲が良いなんてことはなかった。それは別に私たちの仲が悪かったというわけではない。むしろそれまで喧嘩なんてしたことないくらい健全な関係だった。……ごめん、こう言うと今が健全じゃないみたいに聞こえちゃうけど違くて、要はあまり干渉することがなかったってこと。
それまでの兄は……完璧だった。今でこそポンコツでだらしなくて頼りも無くて甲斐性もない、ダメダメな兄だけど、昔はそんな弱点と言える弱点を見せることなんて無かった。
容姿端麗、文武両道、英俊豪傑、……ごめん、難しい言葉使ってやろうと思ったけどあんまり知ってる言葉ないや。まあとにかく、やることなすことすべて完璧。いや、その完璧をも超える、そんな存在。それが昔の兄だった。
……分かってる。確かに今の兄を見ていたらそんなの嘘だって思うかもしれない。というか正直、最近、私もそれが私の妄想だったんじゃないかって思い始めてる。それくらい、今のお兄ちゃんは昔とは違う。
けれどそれは間違いなく事実で、それは当然、今のお兄ちゃんが偽物だということでもある。
いや、偽物と言ってもその頃の兄が本物だったかと聞かれれば分からない。それくらい、昔の兄は分からなかった。そしてそれは当然、私だけでなく、周りの人たちも、誰も兄が分からなかった。
兄はいつも無表情で、笑ったところなんて見たことがなかった。会話も必要最低限のことしかしない。それでも家事はいつも忙しいお母さんに変わってすべてやってくれて、家事の不得意なお姉ちゃんとまだ小さかった私はそれをただ見ていることしかできなかった。私たち家族の間にはいつも気まずい空気が流れていて、私はそれがとても辛かった。
もしもあの時、兄があんなことを言わなければ。今でも私たち家族はバラバラだったと思う。なぜあの時兄があんなことを言ったのか、それは分からない。本当に突然だった。
いつもと同じように……いや、その日はママの仕事が早く片付いたから久しぶりに家族そろって、兄の料理をもう慣れ切った重たい空気の中食べていた時だ。
何の前触れもなく、普段通り先に食べ終わって皆が食べ終わるのを待っていた兄が、突然口を開いた。それはとても珍しいことで、いつもは「ごちそう様」と言った後は皆が席を立つまでずっと待っていて、皆が食べ終わった後に洗い物をしてくれる。それまでに私たちの間に和気藹々とした会話などなく、必要最低限のこと以外は決して話さない。別に誰かが強制しているわけではないけど、話そうとしてもすぐに話題がなくなってしまい、また重たい沈黙の繰り返しだ。それを続けているうちにいつしか誰も口を開こうとはしなくなった。
だから兄が口を開いたことには驚いたけど、また事務連絡のようなことだと思っていた。それは他の二人も同じだった。だから私は、特に兄に目を向けることなく料理を食べ進めようとした。
けれど、待っていてもなかなか声が聞こえてこない。もう一度兄を見ると、何度か首を傾げた兄は一度大きな深呼吸をして、そして言った。
「僕……いや、俺は今からちゃんとした家族になるよ」
「「「――っ⁉」」」
突然のことに私たち家族は声が出なかった。私なんて食べていたシチューが鼻から出そうになっちゃった。あの兄が会話をしようとした。それだけでも驚きなのに、自称を『僕』ではなく慣れない『俺』に変え、更にその口調はとても親近感のあるものだった。
「だから、これからは僕……いや、俺はもう皆に迷惑かけないようにするからさ、その、今までとちょっと変わっちゃうかもだけどよろしく。……それと、あんまり慣れてないから間違うかもしれないけど、その時は言ってほしい。修正していくから。俺は今日から、皆のために生きるよ」
そう言った兄の赤く美しい瞳は確かに私たちに向けられていた。思えば私はこの時、初めてしっかりと兄の目を見たかもしれない。いや、初めて兄の目が私という、九十九まなみという一人の妹を映したのだ。
その瞬間、急に視界がぼやけだした。私は泣いていた。別に悲しいことがあったわけではない。ただ嬉しかった。兄のいつも見ている世界に、私たちを映してもらえたことが。
見ればママやお姉ちゃんも泣いていた。
「え、えっと、こういう時はどうすればいいんだ?」
いきなり泣き出した乙女三人を前にあの兄が慌てふためいている。そのことが今度はおかしくて、私たちは一斉に笑い出した。
そんな私たちを見て更に困惑していた兄は次第に顔をほころばせると―――笑った。
「……プッ、フフッ、アハハハハ」
「「「…………」」」
顔を見合わせる私たち。さっきまで泣いたり笑ったりしていたのに今は三人とも呆けていた。室内には兄の不器用な笑い声だけが響いている。でも、それはしょうがない。だって私たちは今日、初めて兄の笑ったところを見たのだから。
私たちはまた一斉に笑い出した。
私たちはこの時、やっと家族になれたのかもしれない。
*
「はあ~、やっぱり今のお兄ちゃん最高♪」
私は洗濯物を畳む手を止めて一人呟く。ただ同じ作業を繰り返すだけの家事をしているときは、よく昔を思い出す。昔と言っても数年前のことだけど、あの頃と今では何もかもがまるで違う。お兄ちゃんは急激に親しみやすくダメダメになっていったし、お姉ちゃんは何故かあれからずっとお兄ちゃんを嫌っている。ママは相変わらず忙しそうだけど、家にいるときはいつも笑顔だ。私はお兄ちゃんに家事を習うようになり、今では昔の兄のように我が家の家事のほとんどを私が担当している。
あの頃の私に今の暮らしを話しても、絶対に信じられないだろう。問題はまだまだ山積みだけど、私は今の暮らしがとても気に入っている。そして今の兄が、私は大好きだ。もう二度とあんな重苦しい空気のなかで食事なんてしたくない。
「何としてでも、今の生活を守らなくちゃね」
私は決意とともにお兄ちゃんのパンツをパンパンとはたく。しっかりと皺を伸ばして畳み終えたそれを、お兄ちゃんの着替えをまとめてある洗濯物の上に置く。
私もお兄ちゃんも年頃とはいえ、べつに今更お互いの下着についてどうこう思うことはない。いや、お兄ちゃんは少しくらい何か思ってくれても構わないけど。
……もうちょっと綺麗に畳んどこうかな。
ガチャ。
「ひゃっ」
私の手がパンツに触れる直前、お風呂場のドアが開く音に思わず変な声が出てしまった。
ま、まあいっか。
軽く深呼吸して気を取り直す。
「……どんな形でも、私はお兄ちゃんと家族になりたいよ」
そんな私のつぶやきは誰の耳にも届くことなく丁寧に積まれた兄の下着の上に積もるのだった。




