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大人の世界、の形

 いつもの喫茶店。三階建ての建物の一階が『鳩喫茶猫の巣』という村崎さんの一件から頻繁に通うようになった喫茶店で、その二階、三階はマスターの家になっているそうだ。

 そして俺が用があるのはこの地下。入り口のドアの隣には窓のない木製のドアがもう一つあり、昼間に来店したときには鍵がかかっていたそれに手をかけドアノブをひねると、簡単にドアは開き、その先には薄暗い地下の階へと続く階段があった。昼間は喫茶店を営業しているマスターだが、週に数回。夜はこの地下の階でバーを営業しているらしい。



 入店し店内を見回すと、カウンターで慣れた手つきでシェーカーを振っているマスターと目が合った。一つ頷くとマスターも頷きを返してくれる。

 昼間の喫茶店はバイトや店員を雇っているのだが、夜に不定期に営業されるこのバーは完全にマスターの趣味なので、カウンターにはマスターしかいない。テーブル席やカウンターに目をやると、数人の落ち着いた装いの紳士淑女が静かにお酒を楽しんでいる。客はマスターの知り合いや常連の客ばかりらしいが、今日は数人カウンターにいるくらいで、あまり混雑しているようにはなかった。


 スーツ姿の男性にさっきシェイクしていた酒を差し出したマスターはもう一度こちらに視線を向けると、俺と目が合ったのを確認した後、そのまま視線を店の奥、バーカウンターの隅の方の席に移す。つられて俺もそちらに視線を向けると、一人静かに物憂げな表情で脚の細いカクテルグラスに口を付ける女性の姿があった。

 紅色の酒は彼女の唇と重なり、細く美しい首筋がこくりと動く姿はなまめかしい。ほうと一つ息を吐いた彼女はちらりと自らの手首に視線を向ける。細くしなやかな手首には女性ものの腕時計が巻かれていて、その姿は場の雰囲気にとてもよくマッチしていた。


 俺が待ち合わせの人物をみつけたことを確認したマスターは、一つこちらに頷くと、そのダンディーなイケおじフェイスに薄く微笑をたたえた。ちなみに昼間は店の中なのになぜかサングラスを常にかけているマスターだが、流石に今はかけていない。堀の深い顔立ちと目尻の皺が月日の経過を感じさせ、その佇まいは大人の余裕に満ちている。

 俺はそれに頷きを返し、女性の下へと向かう。未成年の俺だが、今は先ほど母さんたちと行ったレストランのドレスコードとして着て行ったスーツ姿なので、特に他の客達に違和感を持たれることはなかった。





「お嬢さん、お隣よろしいでしょうか?」


 爽やかに言って彼女の隣のカウンター席に腰かける。


「っ………生憎(あいにく)だが待ち人がいるんだ。しかしこうも遅いとうっかり誘いに乗ってしまいそうだな」


 俺を見て一瞬目を見開いた先生は、ふっと頬を緩め、からかうように言って片目を閉じる。


「いいじゃんいいじゃん、乗っちゃえ乗っちゃえ。そんな待たせるやつなんてどうせろくなやつじゃないんでしょ?」

「……君は担任に何を言っているんだ」


 俺がチャラいナンパ男のように言うと、先生は呆れたようにため息を吐いた。


「アハハ……遅れてすみません、待たせましたか?」

「いいや、今来たところさ」


 待ち合わせ時間を二十分程すぎてしまっていたが、先生はもうほんと惚れ惚れするくらいかっこよく、「気にすることはない」と首を振る。まるでデートの待ち合わせのような会話だが、どちらかと言えば俺が言いたかったな。


「それにしても。……今日の君はいつになくまともな恰好をしているな」


 先生は俺の頭からつま先までまじまじと見つめ、以外そうに言う。


「まともな恰好って、普段の俺はどんな格好してんですか?」

「日頃あれだけだらしなく制服を着崩しておいてよく言う。さっき、一目では一瞬だれか分からなかったぞ?」


 まあ、いつもは服も髪もぼさぼさだからな。制服は別に校則を守っていないわけではないが、しかし真面目に学校指定のものを着ているかと言われれば何も言えない。フリーダムがモットーです。


「ご家族と食事をしてから来ると言っていたが、それはドレスコードかい? なかなか似合っているじゃないか」


 一通り俺の恰好を観察した先生は一口グラスに口をつけ、微笑とともに褒めてくれる。


「そりゃあ先生の隣に座るのに下手な恰好はできませんからね。先生こそいつも通り素敵ですよ。その腕時計とか、やっぱり先生は何着けても似合いますね」


 先生はいつも通りのパンツスーツだが、普段は男物のごつい腕時計をつけている左腕には女性ものの淡い桜色の小柄な腕時計をつけていたり、心なしか薄く化粧をしている。それも相まっていつも以上に魅力的な先生は、その雰囲気だけで目を引く存在だ。心の底からドレスコードに感謝した。


「っ。……オ、オトナをからかうんじゃない!」


 せっかく褒めてもらったので俺も素直な感想を伝えると、先生は照れたように言ってそっぽを向いてしまった。可愛いと美しいとで萌え萌えだな。俺の注文を待っているのかこちらに視線を向けていたマスターは、そんな先生の姿に天を見上げて目頭を押さえていた。あの大人なマスターですら先生の美しさには形無しのようだ。


「とりあえず俺もなんか注文しますね。じゃあ……マスター、ベリーニを」

「待ちたまえ」


 俺が『ベリーニ』というカクテルを注文しようとするのを先生が遮る。


「? どうしました先生? ああ、この初めてのデートにおすすめってのが気になったんですか? 大丈夫ですって、べつにこれで初めてがなくなるってわけじゃ」

「っばっ⁉ バカなことを言うな! べつにこれが人生初めてというわけでは……って、違う! そんなことではなく……君はまだ未成年だろう? ただでさえ夜にこんな店にいるというだけでもギリギリなのに、実際に飲酒なんて教師として見過ごせない」


 慌てていた先生だが、気を取り直すように真剣な表情で言う。


「いや、この席に一緒に座っている時点で大分今更ですよ? 大丈夫ですって。先生たちだって、昔は俺くらいの年でも普通に酒くらい飲んでたでしょう?」

「っ……そ、それはまあ……っ……と、とにかく、飲酒は二十歳になってからだ。マスター、彼にオレンジジュースを一つ」


 都合が悪くなったのか、先生は勝手にマスターに俺の分の飲み物を注文する。


「オレンジジュースって………先生、俺をいくつだと思ってんですか? ……まあいいですけど」


 ここはもう少しお洒落なものを飲んでみたかったが、このままではミルクとか出てきそうなので受け入れる。


「先生が俺の分を注文するんなら、先生の次の一杯は俺が注文してもいいですか?」

「? まあ、せっかくだし君に選んでもらうのも悪くないな。ではよろしく頼もうか」


 俺の提案に先生はそう言って了承し、先ほどから飲んでいた紅色のカクテルを一息に飲み干した。



「どうぞ、オレンジジュースです」


 俺たちがそんな会話をしていると、マスターが先ほど先生が注文したシャンパングラスに入ったオレンジジュースをカウンターから差し出す。


「ああ、ありがとう。とりあえず今日は、これは私のおごりだ」


 マスターからグラスを受け取った先生はそれを俺の前に滑らせる。


「いいんですか?」

「ああ。その代わり、いつか君が大人になってちゃんとお酒が飲める年になったら、その時は私に一杯ごちそうしてくれ」


 俺の瞳にそう先生は語り掛け、照れくさくなったのか視線を手元の空になったグラスに移した。


「はい。ではその時はとびきりの一杯をごちそうします」


 俺も少し照れくさくなり、先生から奢ってもらったオレンジジュースを一口飲んだ。濃厚なオレンジの甘さは、炭酸の爽やかさによって不快感が無く飲みやすい。慣れ親しんだ果実の酸味はあまりなく、濃厚でありながらすっきりとした味わいだ。


「先生の分、注文していいですか? 話はそれからで」


 一息ついたところで、俺は空になった先生のグラスに視線を向けつつ、気を取り直すように言う。


「ああ、頼む」


 先生の承諾を得たので、俺はマスターに目配せし、


「じゃあ……マスター、先生にとびきりの一杯を。このビトウィン・ザ――」


 俺がそこまで言うと先生は。


「マスター、ウォッカ・アップル・ジュースを頼む!」


 俺の注文を遮って、手元にあったメニュー表の誕生日カクテルという欄から、今日の日付のものを選んで注文した。

 カウンターの下で俺の太腿をギュ~ッとつねりつつ顔を真っ赤にする先生は、とても可愛らしかった。





「それじゃあ先生、あらためて誕生日おめでとうございます」


 先生の注文したグラスが運ばれてきて少しして、お互い手元のグラスに口をつけ、俺はさっそく今日この場にいる本題に入る。


「ありがとう、九十九。昼間のことも。まさかこの年になってあんな風に自分の誕生日を祝ってもらえるなんて思いもしなかったよ」


 昼間のことを思い出したのか、先生はふっと口元を緩める。穏やかな表情だ。


「まあ先生の場合、年をとるのがいいことばかりじゃないですもんね」

「一升瓶で殴られたいか?」

「すみませんでしたっ!」


 俺が冗談交じりに言うと、先生はそれはそれは美しい笑顔でマスターに日本酒一升を注文しそうになったので、慌てて俺は言葉を取り消す。


「それはそうと、今日は時間取ってもらってすみませんでした」


 俺は話題を逸らすべく、今日のことを伝える。


「それは昼間のことを言っているのかい? それとも今のこの時間かい?」

「両方です。というか、あらためて思いますけど、よく先生来てくれましたね? 昼間はともかく、夜のバーに生徒と来るって結構まずくないですか?」


 今の現状を改めて考えるとなかなかグレーゾーンだった。というか、知り合いに写真でも撮られたら一発アウトだな。その時は駆け落ちでもしてくれないだろうか。


「まあな。私もまさか君に呼び出されたのがこのような場所だとは思わなかったよ。夜に生徒と会うこと自体思うところもあったけれど、……まあ、君だからね」


 なかなか怪しい響きだな。逢引の台詞のようでゾクゾクします!


「ダメもとで誘ってみたんですけど、ほんと今日は来てくれてありがとうございます。実はこの機会に先生に伝えておきたいことがあったんです」


 俺が言うと、先生は「ん?」と首を傾げ、こちらに視線を向ける。その拍子に手元のグラスがカランと音を立てた。


「……正直、五月に先生にあの部に連れていかれた時は面倒だなって思ってました。部長に会ってもっと思って、今でもなんで俺あんときに入部するなんて言ったんだ?って思います。初めてできた友人は可愛いやつだけどポンコツだし、もう一人はクラスの人気者。一ノ瀬なんて未だに俺を見ると邪魔者を見る目になりますからね。村崎姉妹は、姉はなんか最近ますますおかしなことばかり口走りますし、妹の方はまあ可愛いですけど。考えれば考えるだけ、つくづくおかしなことになったなって思います」


 俺は今日までの学校生活を振り返って、そうまとめる。


「それにしては、君はあまり嫌がっているようにないな?」


 俺が言いたいことを察しているのか、先生はグラスに一口口を付け、にこりと俺をの目の奥を覗き見る。

 俺は照れくさくなり、手元のグラスに視線を移す。


「まあ、そうですね。変なやつばかりで面倒ですけど、俺は結構今の生活を気に入っています」


 一ノ瀬や皇の成長を見守るのは綾さんとの約束だし、それを抜きにしても、やはりあいつらと関わるのは悪くない時間だ。これまで友人などいたことがなかったが、最近は依然と比べて鈴宮と話すことも増え、その分だけクラスメートからの風当たりは強くなる一方だが、それでも気の置けない友人というのはなかなかいいものだ。

 そして今のこの生活があるのは、あの日、先生が部を紹介してくれたからだ。


「だから先生には感謝してます……ってことを伝えたくて今日は来てもらいました」


 素直に感謝を伝えるというのはなかなかに照れくさい。

 俺の言葉に先生は少し驚いた後、


「私は別に何もしていないよ。君をあの部に入部させるように言ったのは理事長の指示だ」

「そうかもしれないですけど、でも先生には普段から面倒ばかりかけてますからね。やっぱり感謝していることには変わりませんよ」


 謙遜でなく事実そう思っているように言う先生の言葉を、俺は軽く否定する。それに先生はふっと笑い。


「そうか。なら、そういうことにしておこう」


 上機嫌にグラスに口をつける先生は、少しだけ幼い子供のように見えた。



「なあ九十九、この機会に一つ聞いてもいいかい?」


 少しして、先生はふと真面目な表情で言う。


「構いませんよ? ちなみに今日の下着は赤パンです。股間の部分にウサギのロゴが入ってます」

「誰がそんなことを聞いた誰が。まったく……」


 呆れたように肩をすくめる先生。


「……この数か月、担任として君のことをそれなりに気にかけて見てきたが、……正直今でも私は君が分からないよ、九十九。君の言葉がどれだけ本物なのか、君の本心がどこにあるのか。君という生徒が何を考え、何を思い、どういう未来を想像して学校生活を送っているのか。私は何も分からない」


 真剣な目だった。先ほどまでの弛緩した空気ではなく、真に意味ある会話をしようとしている。

 先生が一体何を思い、どうしてそんなことを言っているのか俺には分からないが、それでも先生のその言葉に対する答えは、……俺にも分かりはしない。


「そりゃそうですよ。人の本心なんて自分にだって分からないこともあるんです。俺だって先生の考えていることは分かりませんし、それに所詮ただの一生徒でしかない俺の本心がどうかなんて、先生が気にすることはないですよ」


 別に突き放す意図はいささかもない。これは俺の本心だった。

 いくら親しくしてくれているとはいえ、気にかけてくれているとはいえ、それでもそこまで先生に踏み込ませるのは申し訳ない。学校の先生もお仕事なのだ。問題があったときならばまだしも、一々生徒の心のケアまでしていては労働基準法に引っかかってしまう。


「……そうかもしれないな」


 俺の言葉に、先生は落ち着いた声音で言ってその細い指先でグラスの中の氷を軽くつつく。カランと音を立ててグラスの中でグルリとまわったそれを、先生はどこか愁いを帯びた視線で見つめていた。


「普通はそうなのかもしれない。君たち生徒から相談を受けたわけでもないのに私がこんなことを君に言うのは踏み込みすぎで、私の自己満足のための、教師の立場を逸脱した煩わしい行いなのかもしれない」

「いえ、そういうわけじゃないんですけど」

「だけどね九十九。私は別に、普通の教師になりたいわけじゃないんだよ」


 自嘲気味に語る先生の言葉を否定しようとする俺に、先生はかぶせるように言う。


「私は……カッコいい大人になりたいんだ。自分が思うカッコいい大人に、あの人みたいな先生になりたい。そう思って、私は教員になったんだよ」


 お酒が入っているためだろうか。今日の先生はいつもより幼く見える。グラスに映る先生の瞳は、きっとここではない、俺の知らない景色を移しているのだろう。


「カッコよく……ですか?」

「ああ。カッコよくといっても、私の思うカッコいい生き方。カッコいい先生だ。だから私は自分の受け持つクラスの生徒たちからは頼られる存在でありたいし、困ったことがあれば安心して相談してもらえる関係でいたい。……だけどその生徒の本心くらい分かってあげられないで、分かる努力もしないで、カッコいい先生もなにもないだろう?」


 先生が先生になった理由。

 あらためて思ったが、俺は先生のことを全然知らないんだな。先生は俺のことが分からないと言うが、俺だって先生のことを何も知らない。

 ………?

 そこまで考えて、俺の胸に一つの違和感が浮かんだ。


 その言葉を否定したい。


 確かに俺は先生のことをまだ何も知らないし、知っているなんてとても言えない。それは当然まだ出会って数か月しか経っていないこともあるが、それ以上に俺は生徒で先生は教師だ。立場の違いは理解度の違いに直結することもある。だから俺が先生のことを知らないのも、先生が俺を分からないというのも、むしろ当たり前のことであり、否定できる要素はない。


 …………。

 だが、それでも俺にも知っていることが確かにある。


「なら、もうなってるじゃないですか。俺からすれば、先生は十分カッコよくて頼りになる先生ですよ?」


 本心からそう言うと、先生はふっと微笑み、


「……まあ、君が言いたくないのなら無理に聞きだすつもりはないよ。ただもし君が困ったり悩んだりするようなことがあったら、遠慮なく私に頼ってほしい。今日まで見てきた君は人のことばかり気にかけて、自分のことからは目を逸らしてばかりだったからな。私も、今日はそれが言いたかったんだ」


 先生の手が伸びてきて、不意打ちで頭をぽんぽんと撫でられる。

 ……………。

 俺はこの先、この人を裏切ることはできないだろうと思った。


「っ……なら、先生が困ったときは俺にも言ってくださいね」


 このまま黙ったままでいては格好がつかないので、俺がなんとか身を引いて先生の手から逃れ、詰まり詰まりしながらそれだけ言い返すと、先生は満足げにグラスの残りのお酒を一息にあおった。

 どうやら俺にはまだ大人の世界は早かったようだ。





 店を出て、夜風に当たりつつ隣を歩く先生に目をやる。タクシーを拾うための駅までの道。

 わずかに上気した先生の頬にどぎまぎしつつ、歩道側を歩く先生をそっと右に寄せる。


「おや? ……ふふ、ずいぶん優しいじゃないか?」


 酔っているのか、ニイっと笑って上目遣いに俺を見上げる先生。甘い香りにくらくらしそうになるが、ぐっとこらえる。誰かそろそろ俺を褒めてほしい。


「そういう先生は相変わらずカッコいいですね」


 そっと先生から視線を逸らしながら言うと。


「フフ―――カッコつけているのさ」


 何気なく言った先生の月明かりに照らされた横顔をみて、()()とは得てして、何気ない日常の中から形になっていく感情なのかもしれないなとふと思った。

 いつか俺もそれに似た感情を抱く日が来るのだろうか。

 もしかしたら、それはもう既に俺の周りに溢れているのかもしれない。


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