瀬上飛鳥の形
『あなたはこの子のお姉ちゃんだから。この子が困るようなときは、ずっとそばで助けてあげてね』
昔、まだ父と母が家族だったころ、弟を抱っこしている私の頭を優しくなでながら、温かく微笑みながら、母は私に言い聞かせた。
穏やかでいつも温かい言葉をかけてくれる父も。優しく笑顔を絶やさない母も。そして何より可愛くて仕方のない弟も。私は家族が大好きだった。
それが、私が覚えている最後の私たち家族の時間。
それから少しして、父と母の仲は悪くなり、顔を合わせる度にギスギスとした空気が二人の間には流れるようになった。原因は父の浮気。まさかあの父がそんなくだらないことをするとは思わなかった。
優しかった母も。穏やかだった父も。まるでそれまでの時間が嘘だったかのように険悪となり、笑わなくなった。
形だけでも家族の形を保ってはいたが、その終わりが近いことは明白だった。
壊れていく家庭のなかで、それでも私は家族が好きだった。大好きだった。
母に頭をなでられながら愛しくてやまない弟を眺め、それを穏やかに父が見守っている。そんな時間が私は大好きで、その記憶があるかぎり、今の時間も否定できるものなのだと信じていた。
でも、父にも母にももう昔の面影はなく、とても家族とは呼べない。私に残った家族は弟の真さんだけだった。
もう私は家族を壊したくない。傷ついてほしくない。
私の家族へ向ける愛情はすべて、真さんへと向けられた。
そして思った。今のこの歪な関係は必ずいつか壊れてしまう。バラバラになる日が必ず来る。
そのとき、私は真さんのそばにいられるだろうか?
母の言葉通り、真さんが困ったとき、ずっと助けてあげられるだろうか?
真さんが物心つく頃には既に父と母は不仲であったため、真さんにとって、家族から与えられる愛情が私しかないことは分かっていた。
もし、私と真さんが離れるようなことがあれば、真さんはどうするのだろう。
傷つかず、傷つけられず、不自由することなく生活していけるだろうか?
その日が来ることは分かっていた。だから私は真さんが傷つかないよう、傷つかなくて済むよう、彼を強く育てようと思った。
どんな挫折も、どんな苦労も、私がそばにいられるうちに、助けてあげられるうちに経験させて、いつか必ず訪れるその日が来ても、彼が傷つくことなく、私に頼ることなく生きて行けるようにしようと思った。
そのために、私は私のすべてを費やした。時間も、労力も、何もかも。彼が父や母に後ろめたさを感じることのないよう、彼の経験に費やす費用は私がアルバイトやお小遣い、貯金を崩して賄った。彼が困ったとき、そのすべてに完璧に対応できるよう、常に優秀な姉であれるよう努力した。
そうして私は私のすべてを犠牲にして、彼を育てるために生きて来た。
しかし、私は何一つ後悔していない。彼のために努力する日々はとても楽しく、言いようのない幸福感に包まれていた。
そして来るその日。私は彼の前から去ることになった。
一緒に暮らせないだけ。ただそれだけのことなのに、私はそれまでの温かかった時間をすべて無くしたような、そんな気持ちをおぼえた。
覚悟は何年も前からできていたはずなのに、いざその瞬間がくると、私はこみ上げてくるものを我慢するので限界だった。どうにか真さんの前では涙を流さずに済んだけれど、その後、一人で涙を流したことは忘れない。
離れて暮らすようになって、学校でも極力顔を合わせないように気を付けた。お互いの覚悟が薄れるのが怖かったからだ。もし学校で一緒にいる時間が増えて、彼と関わる機会ができてしまったら、もう離れることなどできないと思った。
中学を卒業して一ノ瀬学園へと入学した私は、迷うことなく生徒会に入った。真さんは来年、必ずこの学校へ入学してくると分かっていたからだ。真さんが楽しい学校生活を送れるよう、私はこの学校をよりよくしようと思った。
そして真さんが入学して、嬉しい気持ちと反面、成長した彼を見て、少しだけ寂しさのようなものを感じた。
ふと教室の窓から中庭を眺めた時、友人たちと楽しそうに談笑する彼をみつけて、苦々しく思ったこともある。
どうやら私はまだまだ弟離れができていないようだ。
そんなとき、父が事故に遭い亡くなった。
しかし、不思議と私はそのことで心を揺さぶられることはなかった。あれほど大好きだった父の死が、今はすっと受け入れられている。そのことに、自分のことのはずなのに凄く驚いた。そして分かった。私のなかで、家族というのはもう真さんだけなのだと。
父が亡くなったことで真さんは一人になった。
そのことを考えたとき私は………期待に胸が膨らんだ。
とても身内の、しかも実の父親の死の直後に抱く思いではない。それでも、真さんとまた一緒に暮らせる日が来る。そう考えるだけで私は信じられないほどの喜びをおぼえた。
『ごめん姉さん。でも俺は一緒には暮らせない。』
頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。
既に母には話を付け、あまりいい顔はしなかったが世間体をチラつかせ、真さんを受け入れることを承諾させた私が真さんを呼び出し、一緒に暮らしましょうと提案すると、真さんは申し訳なさそうに、けれどしっかりとその提案を拒絶した。
『俺はこれまで姉さんに頼りきりで生きてきたから――』
……自立? ……甘え? ……依存?
彼の言葉の意味を理解しようと頭を働かせるも、まるでそれを拒絶するように何を言っているのか分からない。
――ねえ、真さん。
ずっと一緒にいられるのならいいじゃないですか。
依存したままで。甘えたままで。
自立なんて、しなくてんいいですよ?
こういう気持ちを、何というのでしょうか。
生憎と、私には分かりません。
*
「やっぱり、私はそういう運命なのでしょうか」
真さんの家を飛び出した後、行く当てもなく適当な電車に乗った私は結局そのまま終点まで乗り続け、財布の中身をすべて使い切った。
駅を出てすぐの河川敷で座り込み、川の流れを眺めながらこれまでのことを振り返る。
私は家族をまた失くしてしまうのでしょうか。
あれ以上真さんの言葉を聞いていてはどうにかなってしまいそうで、つい逃げだしてしまった。今になって後悔が募る。
「どうして、こうなるのでしょう……」
緩やかな川の流れに目をやりながら、私はつい独り言ちる。
どうして真さんは私たちとの暮らしを拒絶するのでしょうか。
彼の様子からも、やはり彼も本心では私たちと暮らすことを望んでいるようでした。それなのになぜ、彼はそれを断るのでしょう?
「まったく。こんなところで何をしているの? 瀬上さん」
「っ⁉」
突然背後から声をかけられ、慌てて私は振り返る。
「ど、どうして会長が……っ」
酷く疲れたような表情で腕を組み、私を見下ろす会長。
しばらく生徒会の仕事は休みだったので、会長と顔を合わせるのは随分と久しぶりだ。
「どうしてもなにも。あなたが困っていると愚弟から言われて、あなたを付けていたらこんなところまで……。まったく、何があったのかしらないけど、こんなところに一人で座っていたら危ないじゃない」
言って会長は私の隣に腰を下ろした。
「え、ええと……あの、愚弟って九十九さんのことですよね? ですが彼は」
彼は先日、真さんの話を聞いて「くだらない」と私たちを追い返したはずです。私はそんな彼の態度に失望して――……
「そんなことよりほら、早くあなたの悩みを話しなさい。よく分からないけど、とりあえず聞いてみれば何かできるかもしれないし」
会長は私の声を遮って話すように促す。
「で、ですが」
しかし続けようとする私を。
「あいつの言うことをいちいち本気にしてたら切りがないわよ。どうせこうなることもあいつの考えのうちでしょうし、あなたに何を言ったのか知らないけど、私にはあいつ、あなたの悩みを聞いてあげるよう言ってきたから」
「っ……!」
では、あの言葉もすべて――
「それより、早く話してもらえないかしら? いい加減暑いんだけど」
これ以上話が逸れないようそう言って急かしてくる会長。見れば若干その首筋が汗ばんでいて、私は今さら暑さに気づいた。
そう言ってくれる会長には申し訳ないですが、しかしこれは私のプライベートの問題です。そんなことで会長にお手数をおかけするわけには……。
普段であればそう考え断るが、今の私は思っている以上に心が弱っていたようだ。
「……実は――」
今はこの状況を変えたかった。
何でもいい、ただ停滞するよりは、誰かに聞いてもらったほうがいいと思った。
私は会長に話した。これまでのことを。
*
「……そう。なかなか大変な家庭なのね」
川の流れを眺め、私の話を聴き終えた会長は視線を私に向けなおし、そう言って明るい色の髪をかき上げた。
……やはり九十九さんとは姉弟なのですね。反応がそっくりです。
「会長、私はどうしたらいいんでしょうか? ……いえ、すみません、こんなこと言われても困らせてしまうだけですね」
そんな会長の様子につい甘えてしまいそうになり、すぐにそれはだめだと思い言葉を取り消す。
「そうね。……まあ、私にあなたの気持ちは分からないわね。正直、私、弟のこと大嫌いだから。あなたがなんでそんなに迷うのか全然わからないわ」
……会長。
もはや取り繕うこともせず堂々と嫌いと言ってのける会長。なんとなく分かってはいましたが流石に九十九さんが可哀想になってきました。
「そ、そうですか……」
なんと言っていいか分からず、私はただ曖昧に頷く。思わず会長から視線を逸らしてしまった。
「……ただ、私はどちらかというとあなたよりも弟さんの気持ちの方が分かるわね」
「っ!」
続いた会長の言葉に私は驚いた。慌てて視線を会長に戻す。
「もちろんあなたの気持ちもわからないわけじゃないわ。お父さんが亡くなってまた弟さんと暮らせる希望ができて、それなのに弟さんがそれを拒否したら、どうして?ってなるわね。正直私があなたの立場で、家の愚弟が同じことを言ったら、鎖に巻き付けてでも一緒に住むわ。……もっとも、私ならそもそもあいつと暮らしたいと思わないけどね」
会長はそう言って補足する。……というかちょくちょく酷いですね。私情が多すぎて気が散ってしまいます。
「あなたの気持ちは分かるわ。でも、それを理解することはできない。同じ立場になったことがないからね。出来るのは想像までよ」
「っ……なら会長は私が間違っていると……⁉」
ついきつい言い方になってしまいました。
いけません、今あまり否定されると、感情がおかしくなってしまいます。
「いいえそうじゃないわ。そういうわけではなくて、ただ弟さんの気持ちもわかると言っているのよ。……確かに弟さんからしたらずっとあなたに依存したままで、甘えたままで暮らしていくのは楽しくて幸せなのでしょう。これまで通り困ったことがあればあなたに頼って、あなたが与えてくれる愛情に身を任せていればいいのだから。……でもある時気づくのよ。それはすべて与えられるもので、自分は何一つ返せるものがないって」
「っ……そんなことっ」
「ええ、あなたからしたらきっとあるのでしょうね、もらっているものが。それは幸せだとか希望だとか、そんな形のないもので、それでもあなたはそれでいいと言うのでしょう」
会長の言葉につい否定の言葉を重ねそうになった私を、会長は私がそう言うことは分かっていたと、落ち着いて言葉を続ける。
「でもやっぱりこちらの立場からしたら、それはひどく釣り合っていないもののように思うのよ。あなたがどれだけもらっていると言っても、こちらはそれを見ることができない。それなのにあなたからもらったものは視認できるもので、身近にあって、ともすれば自分を作っている要素でもあったら。そのとき思うの。私は一体何をしてあげられただろうか……って」
「っ‼」
私の与えられたもの。彼の与えてくれたもの。その違いが真さんを苦しめていた?
っ……なら私はこれまで真さんを――
「勘違いしてほしくないけど、たぶんあなたの思っていることはズレてるわ」
俯き唇をかみしめる私を見て、会長は何かを察してすぐに否定する。
「え……?」
「あなたの愛情が弟さんを苦しめていたわけじゃなくて、そういう意味じゃなくて、これは返報性の話。与えられたら返さなきゃって思うのが人間でしょう? それに気づいただけ。たぶん弟さんはそれに気づいて、気づいたから考えたのね。そしてその結果、あなたの保護下を離れることを選んだのよ」
まるで見てきたように言う会長。
その視線が向く先は、ここではないどこか遠いところを見ているようだった。川の流れを眺めながら、それでもその瞳に映す景色はきっとそんな美しい光景ではなく、彼女の思い出なのではないかと思った。
こんな会長を見たのは出会って以来初めてだった。
「……会長は、わたしよりも真さんを理解しているんですね」
自分があまりにも真さんのことを知らなかったのだと思い知り、けれどそれを簡単に察してしまう会長に恥ずかしくも嫉妬にも似た感情を覚えてしまい、ついそんなことを口走ってしまう。
「そういうわけじゃないわ。あなたの弟さんには会ったこともないし、今日まであなたに弟がいることすら知らなかったもの」
そんな私の内心をあっさりと見抜いた会長は、呆れたように言う。
「ただ少し境遇が似ていたというだけよ。それに案外無関係な人間の方が、内側にいる人間よりもその物事を客観視できていることもあるわ」
「………」
「そんなことよりあなたが今考えるべきことは、別にあるんじゃないかしら?」
別……?
会長は言ってもう一度髪をかきあげ、私の目を見つめながら、
「あなたの弟さんは覚悟を決めた。今度はあなたの番よ」
「っ……私の、番……」
覚悟。私の覚悟。
「ま、他人事だから言えることではあるけどね。……来たわ」
と、何かに気づいたように言って会長は私から視線を外し、駅の方に目をやる。
「っ‼ 真さん……」
会長の視線を追って見た先にいたのは、遠慮がちにこちらに歩いてくる真さんだった。
「な、なぜここに」
わけもわからず戸惑う私。
「万才――いや、会長に居場所を教えてもらって。……さっきの続きを話したくて」
「っ……続き、ですか?」
分かっています。
先ほど会長と話をして、真さんにもきっと考えがあったのだと理解しました。
……ですが、いざ本人の口からそれを聞くとなると、あまり前向きにはなれません。
「んっ‼」
『――覚悟を決めなさい』
肩をポンと叩かれ、驚いて俯きかけていた視線をそちらに向けると、会長は視線でそう伝えて来た。
……覚悟。
真さんは覚悟を決めて、そして今こうして私に話をしに来てくれている。それなのに私は――
私は真さんの姉として、彼の覚悟に答えなければならない。答えられるべきで、それが私の役割。
「さっき最後まで伝えられなかったけど、俺はね――」
真さんの話を聴きながら私は――




