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無知という知、の形

「あ、ここまでで結構です」


 電車を降りてそこそこ歩いた後、交差点の前で立ち止まった皇が言う。


「いいのか? 別にお前がいいなら家の前まで送るが」

「いえ、私の家、あそこですから。すぐそこです」


 俺の申し出をやんわりと断った皇は、ここからでも見える大きな一軒家を指さす。

 ……ああ、そういえばこいつの父親は医者だったな。


「そうか……。じゃあ、また学校でな」

「またね皇さん」


 俺に続いて一ノ瀬も……見間違いかと思ったが、胸の前で小さく手を振って言った。恥ずかしいのか曖昧な高さで、引っ込めたり手を握って開いてを繰り返したりしているのが可愛すぎる。

 それに皇は「……ふふふ」と嬉しそうに頬を緩ませ、くるりと身を正すと、


「九十九さん、一ノ瀬さん。今日は本当にありがとうございました! とても楽しかったです! またやりましょう!」


 信号が青へと変わる。

 彼女はそれだけ言って、俺たちの返答を待つこともなく駆けて行った。


「………」

「………」


 残された俺達は少しの間、駆けていく皇の背を眺めていた。



「……これは、彼女の夢が一つ叶ったということでいいのかしら?」


 角を曲がって皇の背が見えなくなって少しして、一ノ瀬がぽつりと俺に問いかける。視線を左下に下げると珍しく緩んだ頬が見えた。


「そうだな。……そうだといいな」

「……ええ」


 そう言うと、一ノ瀬はまた歩き始める。俺はそれに続いて歩みを進めた。





 しばらく、前を歩く一ノ瀬の後を無言でついて歩くというなかなかにおかしな時間を過ごした。

 途中明らかに金持ちが乗っているだろう高級車とすれ違ったのは、あまりにも暇だったので覚えている。あれが今日見た車のなかで一番金がかかってたな。甘地先生の外車も凄かったが、あれはもうレベルが違う。というか、ちらりと見た限りでは運転手は白い手袋をしていたので、専用運転手を雇っているのかもしれない。レンタルサービスなんかもあるらしいが、とてもそのレベルではなかったしな。


 そんなことを考えていると、突然前を歩く一ノ瀬の歩みが止まった。

 そこは住宅街の空き地に作られた小さな公園だった。時刻はもうすぐ九時になる。夜の公園には誰もおらず、七月にしては心地よい風に揺られてブランコが軽く揺れていた。


 今日は満月。月明かりの下、こちらを振り向き「少し寄っていきましょう」と指をさす彼女はとても雅で、柄にもなく見惚れてしまった。

 花鳥風月。それすらも、一ノ瀬の前では霞んで見える。



「どうぞ、お嬢様」


 ブランコに腰を下ろして夜空を見上げる一ノ瀬に、自販機で買ったレモンティーを渡す。もちろん俺の片手にあるのはブラックコーヒーだ。


「え……ああ、悪いわね。……あ、レモンティー……」

「……ん? 好きじゃなかったか?」


 珍しく素直な一ノ瀬だったが、渡したレモンティーを見て一瞬手を止めた。


「いえ、大丈夫。むしろ好きよ。あなたも知っているでしょう? 私は紅茶に目がないの」


 夜だからだろうか。気のせいか普段より一ノ瀬の声がやわらかい。


「そうか。それは嬉しいです」


 勝手が違うその様子に俺はこそばゆくなって、近くの柵に腰かけ、買ってきたコーヒーの缶を開けて口につける。


「というか、それを知っていてこれを買ってきたんじゃなかったの?」

「ああ……いや、それもあるが」


 そうあらためて聞かれると困るが。


「昔はよくもらったからな。……あの人はいつもこれをくれた」

「ああ……、そういえばそうね。母さんはいつもこればかりだったわ。おかげで私も紅茶を好きになったのだけれど」


 俺が笑って言うと、一ノ瀬も微笑を返してくれた。


「それにしてもお前、さっきからどうしたんだ? なんだかやけに優しいな」


 いつもなら俺との会話など望まず、きっとまっすぐ家に直行していただろう彼女がこんなところに寄ったのは、何か理由があるのだろう。

 あまり遅くまで女の子を出歩かせるのは悪い。

 それに一ノ瀬のことだからなかなか本題に入れないだろうと思い、俺の方から話を振る。


「そうかしら? ……確かにそうかもしれないわね」


 てっきりいつものように否定の言葉が返ってくると思っていたのだが、予想外なことに、一ノ瀬は微笑とともに落ち着いた声音だった。

 だから自然と続いた一ノ瀬の次の言葉に、俺は彼女がどうしてここに寄ったのかを理解した。


「……ねえ、あなたのお姉さんが生徒会長だというのは本当なの?」

「っ!  ……調べたのか?」

「いいえ、姉から聞いたの」

「……そうか。いや、別に隠してたわけじゃないんだ。ただ、あまり姉さんの知らないところで姉さんについて話すのは」


 ――迷惑をかける。


 そう続けようとした俺の言葉は、落ち着いた声によって遮られた。


「ええ、分かっているわ。あなたのことだもの。どうせ自分の悪評で迷惑をかけたら……なんて思って言わなかったのでしょう?」

「……ああ」


 いつもと違う。

 どこが違うのかと言われるとうまく説明できないが、強いて言うなら先ほどから一ノ瀬は一度も俺を否定していない。そのことが、俺には落ち着かないと感じた。


「今日、あなたの言っていたこともそうだけれど、あらためて思ったわ。私はあなたのことを全然知らないんだなって」

「っ! そりゃ、まだ出会って二月経ってないからな。そんなもんだろ?」


 驚いた。まさかあの一ノ瀬がそんなことを言う日がくるとは思いもよらなかった。


「それにそれを言ったら、俺だってお前らのことをまだ全然知らない。お互い様だ」


 そう言って俺は残りのコーヒーを煽り飲むと、「よっこらせ」とつぶやいて腰を上げる。


「……そうね。でも、それでいいのかしら?」


 立ち上がって一ノ瀬の方を振り向くと、彼女はそう言って俺に視線を向けていた。その声は先ほどのように落ち着いたものであったけれど、わずかに不安の色を感じた。


「いいんじゃないか?……多分。少なくとも俺は今のお前たちとの毎日が気に入っているし、この先も続いて行けばいいと思っている」


 ただそれを望むからこそ、俺は振り向くことをさけるんだけどな。そんな言葉は飲み込んで、俺は澄ました笑みを作った。


「……そう。ふふ、気が合うわね」


 言った一ノ瀬は「よいしょ」とつぶやいてブランコから立ち上がり、飲み終わった紅茶の缶を俺に渡すと再び帰路を歩き出す。

 生憎と今宵は満月だ。すれ違いざま、淡く照らされた彼女の頬が、朱色に色付いていることを教えてくれたお月様に感謝した。


「……っ」


 ……まあ、俺の頬まで照らしたのでプラマイゼロだがな。





「ではまた、来週の部活で」


 見上げるほど大きなタワーマンションに着いた俺たちは立ち止まる。


「ああ、またな」


 お互いそれだけ言って別れようとした刹那、ヒュウと涼やかな風が吹いた。


 ――花鳥風月。


 先ほどのことを思い出して、俺はふと夜空に目を向ける。一ノ瀬もそんな俺の視線を追っていた。

 月に叢雲(むらくも)というが、空に浮かぶそれには雲一つかかっておらず、見事な満月だった。


「……月が綺麗ですね」


 有名な一節が頭をよぎる。

 俺が冗談めかしてつぶやくと、


「ふふ、……死になさい」


 月の光も忘れてしまうくらいの美しい笑みとともにそうつぶやいて、一ノ瀬はマンションの中へと駆けて行った。



「残念、振られちゃったな」


 少しの間その場に立ち尽くしていた俺は、くるりと彼女が入って行ったマンションに背を向け、気恥ずかしさを誤魔化すように頬をかいた。


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