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アメとムチ、の形

 それから数日、俺たちは毎日放課後に育才部の部室へと集まり、テスト勉強に励んだ。

 途中、一ノ瀬のあまりのスパルタ教育に耐え切れなくなった皇が逃走を図り、あえなく失敗してお説教を食らったうえ、より厳しい指導に変更されたなどのごたごたはあったものの、最初絶望的だった状況は、なんとか乗り切ったと言えるレベルまで成長していた。

 一ノ瀬流の教育はアメとムチどころかムチとムチ、どこの女王様ですかと一度聞いてしまったほどだ。


 その間、俺は皇の勉強の息抜き相手や一ノ瀬のサンドバックとしてサポート?に励み、たまに訪れて俺の勉強をみるという大義名分を盾にメチャクチャくっついてくる先生をいなしつつ、俺はただ機械的にプリントの問題を解き続けた。


 そして今日がテスト期間最後の平日の金曜日。

 授業を終えた俺たちはいつも通り育才部の部室へと集まり、各々がいつもの机で手元のノートやプリントにペンを走らせている。と言っても一ノ瀬は皇に教えながらなので、手はあまり動いてはいないが。

 それにしても、こいつはこの一週間、ずっと皇の勉強に付きっきりだったが、自分の勉強は大丈夫なのだろうかと少し心配になる。

 もちろん一ノ瀬の成績がいいのは知っているが、それでも他人に付きっきりで教えつつ自分の勉強も並行して行うというのは結構ハードだろう。ましてこの学校はそれなりの進学校を気取っている。いくら高一の簡単な範囲とはいえ、テストのレベルも他の学校と比べるとやや高めだ。


 俺はふといつも通りああだこうだと苦戦しながら皇に根気強く説明している一ノ瀬の方を見る。

 ……心なしか目の下に隈があるようにも見える。


「なあ一ノ瀬。少し休んだらどうだ? 疲れているんじゃないか?」


 俺が問うと、忌々し気な視線が向けられる。どうやらそれどころじゃないらしい。


「問題ないわ。それにまだこんなところでは終われないの。皇さんはできるようになってきたとはいえまだ中二の範囲が手一杯。今の状態でテストなんて受けても、前回以上に酷い結果になるでしょう。そうなればすべてが水の泡よ」


 それだけ言って一ノ瀬はまたも皇に向き直り、先ほどの説明の続きを始める。というか思った以上に酷いんだな、皇の成績は。


 俺は手元のプリントに解を書き込みつつ、並行して先ほどの一ノ瀬の言葉を考える。

 俺は一ノ瀬に疲れているんじゃないか。少し休まないかと提案した。しかし当の一ノ瀬から返ってきた答えは、どうにも俺の予想していた答えとは違っていた。

 きっと俺が思っている以上にまずい状況なのだろう。あの答えを訳すと多分こうだ。


『私はもちろん疲れているけれど、ここで気を抜いてしまったら今日までの時間が無駄になってしまう。だから休みたくても休めない』


 それはどこか自分に言い聞かせているように見えて、俺は胸の内に若干の不安を抱えるのだった。



**



「お、終わりました~~~~っ!」


 放課後の部室。皇さんの重荷から解放されたような、歓喜と安心の入り混じった声が響く。


 先日、二人のあまりの成績の悪さに、テスト期間中は部室で勉強会を開くと提案して今日で五日目。明日からテスト前最後の週末となるので、今日がこの部室で勉強できる最後の日だ。

 一応明日、明後日も皇さんとはここで続きをするつもりではいるが、彼はきっと来ないだろう。つまり三人で勉強するのは今日が最後だ。


「皇さん、喜ぶのはいいけれど、まだまだテスト範囲すらまともに手をつけていないということは忘れないでね? それとこれ、今日の分の宿題よ。明日採点するから、家でやってきなさい」


 気が緩む前に釘を刺す。

 「なんだか先生みたいだな」と軽口をたたく九十九君を無視し、私は鞄から昨日彼女のために印刷してきたプリント、主要問題に印をつけた問題集を手渡す。小学生、中学生向けのものばかりなので、調達するのに苦労した。


「う………はい」


 途端元気のなくなった彼女に愛らしさをおぼえつつ、私は手元の今日、彼女が解いた問題に目を移す。


 まだまだ半分近くは間違えているけれど、それでも最初の頃よりは確実に成長している。

 あの日、彼女から見せてもらった前回のテスト結果は本当に酷いものだった。



現代国語  88点

数学Ⅰ   25点

化学基礎  41点

物理基礎  31点

生物    67点

地理歴史  47点

公民    55点

情報    56点

基礎英語Ⅰ 44点


合計    454点



 ……いえ、これが二年生、三年生のテストであればまだいい。けれど、今回のテストは一年生の前期中間テスト。つまり在学中、最も簡単なテストだ。

 そうとうの酔狂者(バカ)を除けばほとんどの生徒が高得点を取る。そう、今目の前で当たり前のようにすらすらと問題集に回答を書き込み続けるバカを除けば。……もしかしたら、彼がいたから皇さんが最下位でなかったのかもしれない。


 あれから、まずは現在の皇さんの正確な学力の状況を計るため、今回のテスト範囲から順に様々な問題を解いてもらった。

 その結果、前回のテストで最も結果の良かった現代国語は漢字や言葉などの嫌いはあったものの、比較的高得点を取ることができていた。普段から彼女が読書している姿はよく見かけることからも、彼女は文系科目を得意としているようだ。これから少しずつ漢字などは覚えて行けば問題は無いだろう。

 世界史、生物、公民、情報に関してはほとんど暗記科目なので資料を読み返し、問題を解き続ければ何とかなりそうだ。化学、物理などはこれも暗記だ。公式を覚え、主要個所を頭に叩き込められれば、基本問題を落とさなければ半分はいくと思う。

 ……そして問題なのが英語と数学。幸い英語に関しては基礎知識は入っており、文法も浅くではあるが理解できていた。あとは問題をやり込み、単語を覚えれば国語同様得意科目となるかもしれない。

 そして数学。

 ……私はその結果を見て、初めてこれは無理だと諦めかけた。

 今回の範囲はもちろん、中学一年生の範囲すらまともに頭に入ってはいなかったのだ。聞けば、前回は適当な選択問題の解答が運良く正解し、聞き覚えの在った公式に適当に当てはめたら何とか答えが出たというラッキーが続いたことで、偶然点数が取れたのだという。

 それには、流石の彼もいつもの澄まし顔に若干の焦りが浮かんでいた。


 このままではまずい。近い将来、このままでは彼女は確実に留年してしまう。


 その事実が、私を鬼にした。

 彼女に嫌われたくはない。できればずっと優しい姉でいたい。

 けれど、それが彼女との時間を失くすことに繋がるのなら、私は嫌われても、彼女のために鬼となる。


 翌日は九十九君の噂の件でごたごたしていたため、まともに続きができなかった。

 それからはその遅れを取り戻すため更に厳しく勉強に励んだ。途中やりすぎてしまい、泣きながら逃走されてしまったが、それでも私は甘やかさなかった。

 アメとムチの教育というが、自分で言うのもなんだが私は人とのコミュニケーションが”少し”苦手だ。上手なアメのやり方なんて分からない。ここで下手に甘やかしてしまい、流れを止めてしまっては、いよいよどうにもならなくなってしまう。

 それがいいのかどうか分かりはしないが、それでもやらないよりはましだろう。少なくとも、私はこれまでどれだけ好成績を残しても、アメなどもらったことはない。まあ、ムチもなかったけれど。





 今日は解散となり、学校を出て家へと帰る。

 電車を降り、途中まで一緒だった皇さんと分かれて見慣れた高層マンションへと帰宅した私は、「ただいま」と一言つぶやく。


「…………」


 勿論返ってくる声などない。

 私たちは三人家族。だが、父とは血がつながっていない。

 物心ついた頃にはこの家にいたので、私はその事実を前に皇さんから聞くまでは知らなかった。とはいっても薄々は勘付いてはいたが。

 こう言うと何か勘違いされてしまいそうだが、私たちの家族仲が悪いということはない。母が亡くなって一時はいろいろと思うところもあったが、それでも会えば挨拶をし、談笑を楽しむこともある。とは言っても会う機会自体、そうあるわけではないが。


 父は私たちが通っている学校の理事長であり、またそれとは別に不動産経営も営んでいる。それなりに大きな会社であり、父は学校の理事長という立場とは別に、企業の社長も務めている。そのため家に帰ってくることは非常に稀で、顔を合わせるのも月に数回あれば多い方だ。


「……姉さんは、帰っていないのね」


 電気も何もついていなかったことから、姉さんもまだ学校から帰ってきていないのだろう。

 姉は私と同じ学校の生徒会副会長を務めている。校内でも名を耳にすることは多く、彼女を知らない人の方が少ない。


 ……そう言えば彼は知らなかったわね。


 そんなことを考えつつリビングを通って自室へと向かう。ふとカーテンの隙間から見えた大都市の夜景に目を奪われつつ、この驚くほど広い空間で自分の足音しか聞こえないことに、言い知れぬ寂寥感を感じた。


「っ………コホッ」


 つい一時間前までずっとしゃべり続けていたせいか、チクリとのどに痛みを感じる。

 そのことが、不思議と先ほどまで感じた感情をかき消してくれた。





 自室に荷物を置いて一息つき、そしてすぐに部屋を出る。

 お風呂の準備をし、台所に立つ。料理は基本私が行っている。

 姉が定期的に材料を買ってきてくれるので、冷蔵庫の中身を見て今日の献立を決める。もちろん食材がなければ頼むこともあるが、今日は昨日姉が買い込んできてくれたので必要ないようだ。


「卵……トマト……きゅうり……」


 最近暑くなってきたので冷たいものがいい。脂っこいものの気分でもないし、できれば軽めで、時間もないので簡単に作れるものの方がいいだろう。


「……冷やし中華ね」


 うちの姉は麺類が好きで、だいたい買ってきてくれたものの半分はラーメンやスパゲッティ、素麺などの麺が入っている。なので我が家の食卓は大抵、二日に一度は麺類だ。

 私も嫌いではないので構わないが、健康のことを考えるとそろそろ献立を見直さなければならないのではないかと思ったりもしている。


 そんなことを考えつつ具材を手早く切り終え、タレを作ってインスタントラーメンを茹でる。素麺で作る冷やし中華もあるそうだが、私は王道の中華麺を使ったものの方が好きだ。

 手慣れた所作で盛り付けが終わり、完成。


 ピピーピピーピピー


 お風呂場の方から電子音が聞こえてくる。ちょうどお湯がため終わったみたいだ。

 時刻は七時半に迫っている。もうすぐ姉も帰ってくるだろう。



 先にお風呂に入ってしまおうとお風呂場に向かう。制服を脱ぎ、洗濯機の中へ。

 体を洗い終え、浴槽に浸かる。すぐに妙な眠気が襲ってきた。この時の眠気の深さが、この頃の疲れの度合いを感じさせる。


 ――なあ一ノ瀬、少し休疲れているんじゃないか?


「……っ!」


 ふと脳裏をよぎった言葉に、一気に眠気が覚める。


「……心当たりが多すぎるわね」


 そんな独り言を漏らしつつ、自然と緩む頬を不思議に思った。



 浴槽から出てもう一度シャワーを浴びた後、お風呂場から出て体を拭く。

 ふと目に入った大きな鏡。そこに映る自分の姿が目に留まる。

 確かに少し疲れているようにも見える。ただでさえ鋭い瞳が、眠気のせいかいつも以上に鋭さが増して見える。

 ……というか、それはそうと、


「……ふう、やっぱり少し成長したわよね」


 自分で見ても美しいと感じるその肢体のある一点。辛うじて膨らんで見えるそれをみて、私は目を背けつつつぶやいた。





 ガチャ


「た~だいま~、み~やびちゃ~ん♪」


 ドアが開いたと同時、そう言って入ってきたのは姉である一ノ瀬華。

 私がお風呂場を出て一旦自室に戻ろうとしたタイミングで彼女は帰ってきた。


「お帰りなさい、姉さん」


 自室のドアにかけていた手を放して、姉の下へと向かう。


「雅ちゃんで!」

「………は?」


 顔が会ったと同時、意味不明なことを口走る姉。


「もう~、そこは、新妻口調で、お風呂にしますか? ご飯にしますか? そ・れ・と・も~………わた」

「お帰りなさい姉さん。さあ、早くお風呂に入ってご飯にしましょう」


 わけのわからないことを口走り続ける姉を無視して、私はもと来た廊下を引き返す。

 後ろから姉が不満を漏らすのを聞き流しながら、私はさっさと自室に引っ込んだ。



『いただきます』


 姉さんがお風呂からあがり、二人で食卓をかこむ。


「ありゃ、今日の晩御飯は冷やし中華だったかー」


 目の前に並ぶ料理を見て、姉さんがしまったとでも言いたげな様子で言う。


「ええ、気分じゃなかったかしら?」

「いや~そういうわけじゃないんだけど。私今日、学食でパスタ食べたんだよね~。まあ、好きだからいいけど」


 言って「美味しいよ」と続ける姉さん。問題ないのなら一々言わないでほしい。


「あ、学食と言えば、会ったよ昼間。九十九君、だったかな? 雅ちゃんの部の部員でしょ?」

「っ‼」


 姉さんの口から彼の名が出た瞬間、今まさに口に運ぼうとしていた腕がピタリととまり、その拍子につるりと面が箸から滑り落ちる。

 ぴちゃりと汁の上に落ち、その拍子に少しだけ麺つゆが服にかかってしまった。後で着替えなければならない。


「……どうして、姉さんが彼のことを知っているの?」


 麺つゆのかかってしまった服に眉をしかめつつ、姉に尋ねる。

 これまで特に私が所属している部や、それについての私の人間関係について姉と話したことはないはずだ。しつこく聞いてくるが、それに詳しく答えたことはない。


「ん? どうしてって、昔お母さんがよく言ってたでしょ? 面白い少年がどうこうって。あれってあの子のことだよね?」


 言われて思い出す。そういえば昔、母さんがそんなことをよく言っていた。何のことかまったく意味が分からなかったので聞き流していたが、皇さんや九十九君の存在を知った今ならあれが彼のことだったのだと分かる。

 だがおかしい。

 もし姉さんが彼のことを知っているのなら、それはどこまでだろう? 皇さんのことは知っているのだろうか? いや、それ以前に父と母が再婚相手だということ、私たちが父にとって先立った再婚相手の連れ子だということ。


「……姉さんは、どこまで知っているの?」


 突然のことにどうしていいか分からず、私は正直に尋ねる。


「どこまでって、……全部かな。全部知ってるよ。お父さんとお母さんが再婚相手だってことも、私たちが連れ子だってことも。……もう一人、私たちに姉妹がいるってこともね」

「っ⁉ 知っていたの……? 皇さんのこと」


 あまりの衝撃に私はつい椅子から腰を上げ、声を荒げてしまう。

 姉さんは全部知っていた。母のことも父のことも。皇さんのことも。それらすべてを知ったうえで私に何も言わず、素知らぬふりをして過ごしていた。


「フフ、いつになったら気づくか楽しみだったけど、やっと気づいたんだね」


 瞬間、それまで見ていた姉の姿が嘘のように、その瞳の色が変わった。


 怪しく笑う底知れない瞳と、喜色を孕んだような声。

 違う。私の知っている姉さんじゃない。

 その知らない瞳を見て、私は初めて姉が怖いと思った。


「ちなみに、九十九君は私たちの学校の生徒会長、九十九麗華ちゃんの弟君だよ。彼から聞いてなかった?」

「……え?」


 九十九君が生徒会長の弟?

 私の知らない情報を立て続けに話され、どうにかなりそうだ。


「な~んだ。やっぱり彼、何にも話してないんだね」

「っ! そんなことっ」

「それより、いいの? 三日後にはテストだよ? 雅ちゃんは満点取らないといけないんじゃないの?」

「っ……」


 つい反射的に言い返そうとした私の声を遮って、姉さんが試すように言う。

 そうだ。今はそれどころじゃない。そんなことを考えている場合じゃない。

 皇さんのテスト。皇さんの学力向上。そして何より私の――


「……そうね。その話はまた今度じっくり聞かせてもらうわ。それより、私はもう部屋に引っ込むけれど、後片付けは頼んだわよ」


 ごちそうさまでした。

 言って私は食器を持って席を立つ。

 台所にそれらを置いて、冷蔵庫から夕食を作る時についでに作っておいたアイスティーのボトルを取り出し、保温カップを持って自室へと向かう。

 背後から「ええ~」と不満げな声が聞こえるが、それは無視する。


「……それどころじゃ、ない」


 部屋に入り呼吸を整えた私はそう一言つぶやく。

 明かりをつけ、目を見開き視界に入るのは見渡す限り雑然と積まれたノートや参考書、それら資料の山。

 足の踏み場もないほど、そこら中に書き込み終わったノートやマーカーが引かれた資料が散らばっており、壁に貼られた円形グラフには学校を除き、一日六時間以上の勉強時間が設定されている。不健康の見本の様にカーテンが閉められた薄暗い部屋は、優美な名前とはかけ離れた余裕のないものだった。


 私が私であるために、私が一ノ瀬雅を肯定し続けるために、私は完璧でなければならない。

 そのためには、


「疲れたなんて、言っている時間はないわ」


 今日もまた、長い夜が始まる。


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