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初恋、の形

 思えば私はこれまでの人生で一度も、人を好きになったことがなかった。


 学生時代。周囲の友人たちが色恋沙汰に(うつつ)を抜かす様を見て、どこかくだらないと、理解できないと目を背け、その小さな愉悦間に浸っていたような気がする。

 誰かを好きになる。その感情が世間でいうところの恋だの愛だのというのなら、きっと私には一生分からないままなのだと思っていた。


 それは本当に偶然、いや、ある種の必然であったのかもしれない。

 教育大学を卒業後、新設校で人員募集の枠が空いていた私立校の一ノ瀬学園へと就職した私は、新人教員として忙しい日々を送っていた。

 幸い大学の先輩で面識のある甘地苺桜さんがいたので、いろいろと助けてもらいながらも仕事に慣れていけた。


 それから数年後。仕事にも慣れ、二十七歳となった私は昨年から生徒指導を担当することになっていた。

 私立で拘束の緩い本校でも度が過ぎれば指導しなければならない。ただどんな組織でも規則をすべて徹底的に守らせることは不可能だ。そもそも規則自体、すべて守られると思って作っているわけではない。校内でのスマホの使用が禁止されていても、休み時間にはゲームをしてみたいものだし、制服をきちんと着用しろとはいっても少しくらい着崩したり、軽くおしゃれしてみたりするくらいは許容範囲だろう。私が学生の頃もそうだった。

 ある程度の違反には目をつむりつつ行き過ぎない範囲に収める。折り合いをつけて、制御しながら問題にならないように取り組む。それがきっと生徒指導としての私の役割だったのだ。

 それが今なら分かる。

 けれどその時の私は、若気の熱に浮かされ、完璧を目指し、ただ規則に準じた縛りでもってでしか生徒を見ることができなかった。いや、そもそもまだそんな風に周りに目を向ける余裕がなかったのだ。


 何か大事があったわけではない。それどころか直接文句を言われたこともなければ私の指導に反発されたこともない。

 ただ、ふとしたとき、気付いてしまったのだ。

 少し前、私が生徒指導を引き受けるまで、私に親し気に話しかけてくれる生徒たちは多かった。年が近かったこともあるのだろう。男女問わず見知った生徒は多く、親や友達には言えないような思春期特有の悩みを打ち明けられたこともある。そんな彼ら、彼女らの存在はブラックだと世間で言われる教員という職業で、忙しい毎日の確かなやりがいになっていた。

 けれど、得てして人は自分に都合の悪い人間を嫌うものだ。

 私が生徒指導となり、熱心に指導すればするほど、生徒たちに厳しく接すれば接するほど、始めは親身に規律順守に協力してくれた生徒たちも段々と私のもとから離れて行った。


 ――それって先生の自己満足じゃない?


 ある時、一人の女子生徒に言われた一言。それはちょっとした校則違反だった。少しだけ明るく染めた髪。耳元できらりと光るピアス。いくら我が校が校則に緩いからとはいえ、それは明らかな校則違反だ。私はただ仕事をこなしただけ。生徒から苦手意識を受けるのも生徒指導の仕事。所詮学校の教員も生きていくためにお金を稼ぐための仕事でしかない。私は正しい。私は間違っていない。悪いのは規則を守らない彼女ら生徒で、そんな彼ら彼女らに規則を守らせるよう指導するのが生徒指導としての私の仕事。

 けれどそう。もうそんなことを考えている時点で、私はきっとおかしくなっていたのだ。


 そんな日々は私が壊れるには十分だった。

 気づけば私のことを慕っていた生徒たちはみんな私のもとからいなくなり、ただ私は自分の行動の正当性を示すためだけに規律だけを重視して指導を続けた。生徒たちからの評判は最悪。けれどそれと反比例するかのように上がる他の教員達からの評価に、胸の奥のもやもやは更に募った。

 静かに、溶けることのない雪の様にしんしんと積もるそれは着々と私の精神を弱らせ、その弱さを隠すために厳しく接し、更にその行動に自己嫌悪を感じる。優しい妹に心配をかけないよう家では気丈に振る舞い、心を休められる時間は一人、自室で目をつむっている間だけ。

 苦しい時間が日常になり、心から笑うことなんてなくなった。日に日に自分が壊れていくことを実感する。


 そんなときだ。彼と再会したのは。


「「――はあ」」


 進路指導の先生に頼まれて母校の教育大学を訪れた帰り、ふと立ち寄った公園のベンチで、溜息が重なった。


「おや? 君は確か、村崎さんかい?」

「? 失礼ですがあなたは……」

「はは、覚えていないかい? これでも君に講義をしたこともあるんだけど」


 講義? ……そういえばその落ち着いた声音と眼鏡の良く似合う知的な眼差しにはどこか見覚えがある。誰だっただろうか? 私はおぼろげな記憶を遡る。

 そう、確か昔この人に良く似た面影の――


「……あっ。……もしかして三島先生ですか?」

「久しぶりだね、村崎さん」


 言って爽やかに笑う男性。

 驚いた。彼は確かに私の恩師。学生時代何かとお世話になった方だ。


「いえ、先生こそお元気そうで。でも驚きました。あの初々しかった先生がもう立派になられて」

「はは、いや、それはこっちの台詞だよ。まさかあの不器用な君が本当に教育者になるなんてね。時間が経つのは不思議なものだ」

「いえ、まだまだ若輩者でとても一人前とは言えませんが。それにしてもよく覚えていましたね、私のことなんて」


 大学には毎年何百人と新入生が集まる。卒業生の名前までよく覚えているものだ。


「覚えているさ。今でも君がミスコンで甘地君と同票決着の一騎打ちを演じたのは伝説になっているよ」

「ちょっ⁉ わ、忘れてください、それは! それに結局あの時も、先輩には負けてしまいましたし」

「? そうだったかい? 確か甘地君は最後の最後に体調を崩して棄権して、最終的に不戦勝で君が優勝したと記憶しているが」


 人に歴史あり。あの時の私は友人に付き合って出場したミスコンで予想以上に勝ち上がってしまい、どうしていいか分からなくなって困っていただけだ。それを先輩が私に勝ちを譲ったことで場を収めてくれた。


「そ、それよりお久しぶりですね、先生。先生の方こそどうですか? 何かおかわりは?」


 私はこれ以上昔の話になる前に話題を逸らす。


「そうだね。……いや、特にこれといって変わりはないかな」


 視線を逸らして言うその様子に妙な引っかかりを覚えた。


「君こそどうだい? 何か悩みごとがあるのなら相談に乗るよ?」


 その言葉にふと自分の顔がこわばるのが分かった。


「いえ、私も特になにも……」


 と、答えようとして、先生の言葉に違和感を覚えた。


「あの、どうして悩み事があると思うんですか?」

「さっき君も妙な溜息を吐いていたようだったからね。何か疲れているようにも見えるし、社会人になればつらい事があっても一人で抱え込んでしまうこともある。……私も、そうだからね」


 この時、私は何と言えばよかったのだろう。果たしてこの出会いは正しいものだったのだろうか。

 分からない。

 けれどこの時の私は先生の言葉に、その同じ悩みを抱えるものの瞳に、ふと甘えてしまった。寄る辺を求めた。



 それが私と先生との再会。恩師と生徒ではない。新しい関係の始まり。


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