鼠色の春、の形
昼休みが終わってすぐ、村崎さんの方に目を向けるとちょうど彼女も俺を見ていた。だが、不用意に俺と関わって迷惑をかけるわけにもいかないので、軽く頷くとすぐに目を逸らして教室から出る。彼女もまたその意味が分かったのか、俺と距離を保ったままついてきた。
いつもよりゆっくりと、時折立ち止まりながら歩いたので、ここまで来るのに少し時間がかかってしまったのは、歩きながらちらりと後ろを見る度にちょこちょこと目を逸らす村崎さんの様子が小動物のようで可愛らしかったからではないということをここに理解しておいてもらいたい。
屋上の扉を開けてしばらくすると村崎さんが追い付いた。
「あの、どうして今日は……」
理由を説明しないまま呼び出したので、その疑問は当然だろう。
「ああ、……いや、それについてはすぐに分かる。それより少し隠れててくれないか。多分もうすぐ来るだろうから」
「?」
俺の言葉に不思議そうにする彼女だが、急いでほしいと急かすと渋々だが隠れてくれた。とは言ってもここは屋上。ドアから死角となる自販機の横にしゃがんでもらうくらいが精々だが。
と、村崎さんが隠れて少しして、屋上のドアが開かれる。
そして出てきたのは――
「っ……⁉」
ちらりと自販機の方を見ると、村崎さんが驚いて開きかけた口を必死に閉じている。少し間抜けなその様子に笑ってしまいそうになったのは秘密だ。
「こんにちは、九十九君」
先生はすぐに目についた俺に挨拶する。
俺もまたそんな彼女に挨拶を返す。
「はい、こんにちは。すみません、忙しい中呼び出してしまって」
「いえ、構わないわ。それで、今日は一体何のようかしら?」
凛々しく透き通るような声。いつもと同じ皺一つないスーツ。やはり今日も先生は綺麗だ。
さて、今日村崎さんと先生をここに呼び出したのはそういうことなのだが、どうやって切り出したものか……。
とりあえず俺は当たり障りのない世間話から始める。
「先生、浮気ってどう思います?」
「っ! ……なぜ突然そんなことを聞くの?」
間違えた。俺の質問に途端、眉根を寄せて警戒するように声を鋭くする先生。村崎さんもまた、「何やってんですか⁉」みたいなことを必死に口の動きと顔だけで伝えようとしている。可愛い。
「いえ、世間話ですよ。世間話。それより先生はどう思いますか? 浮気について」
もうここまで来たら引き返せない。俺はそのまま話を進める。
「……くだらないわね。そんな話をするために私を呼んだのなら非常識にもほどがあるわ。普通なら指導ものよ。あなたには前に失礼なことを言ってしまった前科があるから今回は見逃すけれど、次はないわよ」
厳しい声で言って踵を返して去ろうとする先生。
けれど俺はその背中に決定的な言葉を投げかける。
「三島輝明。先生、彼が既婚者だって知ってますよね?」
「っ……」
屋上の出口へと向かう先生の体が一瞬ピクリと反応した。けれどもその足は止まらない。
俺が変な話を始めた時点である程度の予想はしていたのだろう。それを言われる前に立ち去ろうとしたのだろうが、俺はその足を引き留めるため言葉を続ける。
「先生、俺は真剣に話しています。少しだけ時間もらいますよ」
「っ………フウッ」
俺の言葉に何かを察したらしい先生は、逡巡の後、引き返す。
「……なんのことかよく分からないわね。そんな人は知らないし、これ以上の話は時間の無駄よ」
その目は真剣で、その視線は俺の目を向いている。が、正確には俺の目ではなく、そのピントはその後ろのフェンスを映していることがバレバレだ。嘘を吐くのが下手すぎる。そんな嘘では、もし証拠がなかったとしても一目で分かるな。
「いえ、そういうのはいいです。もう全部分かっているので正直に話して下さい」
生意気だろうか。だが仕方ない。今俺は脅しているのだから、それなりの態度で接する必要がある。
「……はあ、分かったわ」
観念したのか先生はまた俺の前へと戻ってきた。だがその表情はとても複雑そうだ。
「それで、一体誰に、……いえ、翠ね」
察したように言った先生は俯いて何事か考えている。村崎さんに目をやると恐れや不安といった感情が入り混じったような、なかなかに愉快な表情をしていた。
「それもいいです。それより重要なのは俺が”それ”について何かを知っているということでしょう?」
意識を逸らすため論旨を正す。
「っ、……それもそうね。ならあなたは何を聞きたいのかしら? 彼と私がどんな関係だろうとあなたには一切関係のないことよ。それとも……まさか脅し?」
思い当たった理由にキッと鋭い目を向けられる。なるほど。薄い本的なことならそれも悪くはないな。……いや、冗談だけどな?
「勘違いしないでください。それと、もう気づいているとは思いますが俺たちにこの相談をしたのはあなたの妹さんです。まあ今日は相談もなしに先生に話しちゃってますが」
最悪の勘違いだけは避けたいのでここは強く否定する。そして俺はあらためて村崎さんの存在を先生に明かした。
「そう。……やっぱりいつかの会話を聞かれてしまったのね」
俺の言葉に先生はやはりといった様子で目を伏せる。そんな俺たちを隠れて見ている村崎さんはとても気まずそうだ。
「……何でですか? 別に他に男なんてたくさんいるでしょう? それこそ先生のような美しい女性なら誰だって選び放題なはずだ。それなのになんでよりによって既婚者の」
俺は今村崎さんが聞きたいであろう内容を代わりにしっかりと感情を込めて尋ねる。
「……言ったでしょう、九十九君。あなたには関係のないことよ。妹が何を依頼したのか分からないけれど、これ以上、他人であるあなたに踏み込む権利はないわ」
流石は社会人。やはりいくら何でも立場がある。俺のような社会的庇護下にあるガキに何を言われても正論を返されては仕方ない。
が、ここではまだ引けない。もう一つ、もう一言言質が取れればそれでいい。
「関りはあります。少なくとも俺たちに依頼したのはあなたの妹だ。他人じゃない。だから先生も答えてください。今の先生の言葉は俺のした質問の答えじゃない。それにあなた教師でしょう? 教師なら生徒の質問にくらい答えてくださいよ!」
正論かと言われれば厳しいが、ある程度の筋が通っていれば今は構わない。
と、勢いで乗り切ろうとしたのだが。
「いいえ、それとこれとは話が別よ。あなたたちが何と言おうと私は大人であなたたちは子供。どれだけ粋がっても、その差は埋まらないわ!」
思いのほか冷静な先生。むしろ俺たちの白熱する会話に肝を冷やしているのは妹さんの方だ。
子供。そう言われてしまえばそれまでだろう。まさしくその通り。俺達と先生の間には確かにその線引きがある。
「……なら一つだけ、一つだけ答えてください。これだけ答えてもらえれば、もうこれ以上は口を挟みません」
「……それが最後よ」
さっきまでの会話は正直言ってここまで繋げるための布石だ。最終的にこれさえ答えてもらえれば問題は無い。
が、ここで間違うわけにはいかない。それが大変だ。
「先生は三島が既婚者だと知っていてまだ恋人関係にある。つまり先生は浮気相手でもいいということですか? 三島さんにとっての一番が奥さんであっても、自分は一生、二番目のままでいいと」
「っ、そんなわけなじゃない‼」
突然。さっきまで冷静だった先生が声を荒げる。
「? ですが先生は三島さんが既婚者であることを承知で恋人関係にあるんでしょう?」
心底分からないという態度で尋ねる。
「か、彼は妻とは別れると」
「でも事実、今現在彼は別れていないじゃないですか? そもそも三島さんは愛妻家だと周囲に知られている。今更離婚なんてできない上に、それが浮気相手と再婚したいからだなんて言えば世間体も何もない。俺が同じ立場にあってもまずその選択はしないでしょうね」
もちろん一番が奥さんであるということが前提だが。
「そ、それはっ!」
俺の言葉に先生は不安そうな表情を浮かべ、必死に否定の言葉を探すが、見つからない。
多分図星だな。
村崎さんが始めに俺たちの部に来た時、先生が電話で「別れるって言ったじゃない!」と声を張り上げているのを聞いたからだと言っていた。つまり先生自身、そのことに思うところがあるのだ。
俺は今日、その言質が取りたかった。村崎さんを連れてきたのは、先生に俺たちに伝えたことが知られてしまうから家で味わうことになる気まずい空気を覚悟してね、と言うためだ。
「なるほど。つまり先生自身も今の状況には納得していないということですね?」
最後の質問。
俺と村崎さんが見守る中、先生は黙って首肯しそのまま屋上を後にした。
*
「悪かったな。多分、今日から少しの間、君は家で気まずい思いをすることになる」
先生が去った後、自販機の陰から出てきた村崎さんに謝罪する。
「いえ、……それより聞いてもいいですか?」
が、村崎さんは思いのほか冷静に言う。
「どうして今日、姉に話したんですか? それに姉を、その」
なるほど。どうやらこれは冷静なのではなく怒っているようだ。俺が何の理由も説明せずに先生を傷つけるようなことを言ったことに。
「ああ……、いや、そうだな。今日、先生に最後に聞いた言葉。覚えてるか?」
「はい。今の現状に納得していないか、……ですね?」
「ああ。今日聞きたかったのはそれだ。その言質を取るために、少しきつい言い方をしてしまった」
が、これが後々重要なのだ。これはいわば先生の気持ちを聞き出すための始めの一歩だ。
「……そうでしたか。いえ、九十九さんが理由もなくこんなことするとは思っていなかったのですが、目の前で辛そうにしている姉を見るとつい」
俺の周りはシスコンやブラコンばっかりだな。
俺は今日からどう先生と接していいか分からず不安げな表情を浮かべる村崎さんにできる限り爽やかに微笑むと、
「いや、そんなことより、これで材料はそろった。少し辛いかもしれないが、今週末には必ず何とかできるから安心してくれ」
そう言って自販機で買ったレモンティーをヒョイっと軽く投げて渡す。いきなり投げたので戸惑った様子だった村崎さんだったが慌ててキャッチした。
「お、ナイスキャッチ」
そう。もうこれで先生の気持ちを聞き出すための材料はそろった。後はメチャクチャにするだけだ。
村崎さんは俺の渡したレモンティーを見つめながら俺の言葉の意味を考えている。
と、突然。何を思ったのか意を決したようにペットボトルのキャップを開けると勢いよく口を付けて真っすぐ上を向く。がぶ飲みだ。
「っ⁉ む、村崎さん⁉」
あまりの奇行にこれまでのストレスや何やらで遂に壊れてしまったのかと困惑する俺だが、そんな俺を無視して一心不乱に飲み続ける村崎さん。その小さな体に似合わない大胆な飲みっぷりは見事で、ゴホゴホと苦しそうにしながらも中身のレモンティーは見る見るうちに減っていく。
「……ん……ん……ヴォホッ⁉ ……んんっ……ゴクゴク………ケハッ」
何ともなまめかしいその光景は、俺が慌ててスマホを取り出すころには終わってしまった。
「……あ、あの、……どしたの?」
俺が若干ドキドキしながら尋ねると、
「ハア、ハア……い、いえ、……九十九さん。私吹っ切れました! 私は、九十九さんを信じます‼」
村崎さんのその決意のこもった瞳。
そんな言葉をもらう資格は全くないんだよ。
そう言おうとして――やめた。
代わりにここ何年かで磨かれた渾身の笑顔を向けると、
「……まあ、狂信者にならないようにな。宗教って間違えると怖いから」
そんな軽口を返すのだった。




