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彼女の強さと優しい覚悟、の形

『――三年前にね。弁当は毎朝作ってもらっているよ――次期教授候補でその上毎朝お弁当を作ってくれるきれいな奥さままでいる。まさに順風満帆で――あ……、はは……。お世辞が過ぎるよ――ですね。では俺はこれで――』



「……どうやら彼が既婚者であるということは事実だったようね」

「はい。結婚しているのに他の女性と浮気するなんて。……本当に最低です」

「………」


 月曜日。放課後部室へと集まった俺たちは昨日俺が録音しておいたボイスレコーダーの音声を聞く。

 淡々と事実を告げた一ノ瀬と、静かに、軽蔑したように声を漏らす皇。村崎さんはただ黙ってスマホから流れてくる無機質な声を聞いていた。その表情からは何も読み取れない。

 姉の恋人には既婚者がいて、姉との関係は世間でいうところの浮気というものだった。それを事実として知った彼女は今何を思うのか。それは彼女自身にしか分からないだろう。


 昨日、あの後大学のお洒落なカフェで一ノ瀬達と合流した俺は遅いだのなんだのと文句を言われながらも口頭で三島に妻がいたことを説明し、その後もう遅かったので彼女たちを家へ送って解散した。一応言葉で説明はしていたが、確かな証拠を録音した音声を聞かせたのは今日が初めてだ。


「その他にもいろいろと聞いてみたが、三島は大学の学生たちからも評判がいいらしい。愛妻家で有名で、奥さんの誕生日にはいつも花を買って渡したり、結婚記念には必ずプレゼントを買っているそうだ」


 昨日帰ってさっそく先輩に聞いたのだ。なぜだか俺が連絡すると、

『……も、もひも――も、もしもし、九十九君……?』

 と凄く緊張した様子だった。五分近くコールしてやっと出たからな。メールだとすぐに既読になるのだが、不思議だ。だがそんな愉快な反応をしていた先輩だが、俺が三島先生について教えてほしいと言うととても落ち着いた声で、

『……いいよ。私、そんな偏見とかないからね。応援してるから!』

 と言われた。しかし何故だかその声は少し上ずっていた。微妙に息も荒い。流石ムッツリチェリーの月影先輩だな。


「次期教授最有力候補の呼び声も高くて、……まあ、簡単に言えばエリートだな」


 俺の言葉に一ノ瀬が顔をしかめる。


「……そんな人間が浮気なんてするのかしら?」

「はい。それだけ幸せなら別に浮気なんてしなくてもいいのでは」


 皇も疑問に思ったのかそう言って首をひねる。


「さあな。……でも、満たされているから幸せとは限らないだろ?」


 持っているものは失くさないと分からない。失くして初めてその重さを知って、大切さを知って、そうしてまた欲する。そして手に入れてまた繰り返す。人は忘れる生き物だからな。満たされていることではなく、満たされたという事実に喜びを覚えるのだ。


「そもそも満たされているかどうか、幸せかどうかを決めるのは俺達じゃない。三島本人だ」


 人は常に飢えている。満たされないからこそ貪欲に成長できるのだ。

 もしも人類に煩悩がなければ今日この日を迎えることはなかっただろう。大悟徹底。欲を絶って仏になる。まさに死ぬとはそういうことだろう?


「……そうかしら? スマホの声しか知らないからはっきりとは分からないけれど、私は彼にはもっと違った理由があると思うけれど」

「ええ、私もなんだか九十九さんの言っていることとこの三島さんの考えていることが同じだとは思えません。……よく分かりませんが」


 哲学ぶって言ってみたが、どうやらこいつらには引っかかるところがあったらしい。カッコつけた分、ちょっと恥ずかしいな。


「いえ、あなたの存在は否定するけれどあなたの考えを否定するわけではないのよ?」


 何を思ったかそう言って俺に目をやる一ノ瀬。いや、存在を否定するってなんだ? なんでそれで『気を遣ったわよ(サムズアップ)』みたいな顔できんの?


「スマホの彼とあなたの会話。なぜだか少し違和感があるように感じるのよ」

「あ、一ノ瀬さんもですか? 実は私もさっきからずっと気になってたんです」

「? 皇もか?」

「はい。ただ自分でもどこが引っかかっているのかいまいち分からなくて……」


 ふむ。まあ、正直三島の浮気の動機なんてどうでもいいのだが、二人が気になるというのが何なのかは興味があるな。


「あの、多分それは……」


 ふと、先ほどまで黙っていた村崎さんが口を開く。


「? 君も何か変だと思うのか?」

「はい。……九十九さんが彼に奥様が作ったお弁当の話を振ったとき、彼は動揺せずに答えました。けれど次に九十九さんがボイスレコーダーに記録するためもう一度言葉を繰り返したとき、何故か彼は動揺しました」

「っ……そうっ! 私もきっとそこが疑問だったの」


 村崎さんの言葉に一ノ瀬もはっとしたように言い、見ると皇もコクコクとうなずいている。


「そうか? やましい事を隠しているから動揺したのか、……それか褒められたことに謙遜したのか。どうせそんなところだろ?」

「まあ、そうかもしれないけれど。……でも何故か違うような気がするのよね」


 けれども納得しない三人。

 が、今日はこんな話をするために集まったわけじゃない。

 俺は未だ首を傾げている村崎さんの方に視線を向ける。


「とりあえずその話はまた後で考えよう。それより、村崎さん。君はこれからどうするんだ?」

「え?」


 分かっていないのかそれとも俺が言っている意味が分からないのか。そんな彼女に言葉を続けようとして。


「あなたが私たちにした依頼は『村崎先生の浮気調査』よ。今、九十九君がとってきてくれたこのスマホのボイスレコーダーの記録をあなたが聞いた瞬間、この依頼は達成されたということになるわ」


 俺が口を開く前に一ノ瀬が続けた。


「なっ⁉ ここで見捨てるんですか⁉」


 皇が声を荒げる。けれど悪いが今は静かにしておいてもらいたい。


「悪い皇。少し静かにしてくれ」

「っ……!」


 俺の真剣な声に、びくっと皇が驚いて声を震わせる。流石にこれ以上驚かせるわけにもいかないので俺がこっそりと「見捨てないから」と耳打ちすると納得してくれたようだ。もう口は挟まないと黙ったまま小さく頷いた。……怖がられてないか心配だ。


「村崎さん。俺たちは部としてこれまで君の手助けをしてきた。君が先生の浮気調査をサポートしてほしいと依頼したから、俺たちは手を貸した。まあ、途中君のリスクを考えてサポートというより俺たちが調べたけどな」

「……はい」


 俺の言いたいことは伝わっているようで、村崎さんは静かにうなずく。


「まず俺たちは君を見捨てようとは思っていない。それだけは分かってほしい」


 これは大前提だ。頼まれた依頼は最後までこなす。……頼まれればだが。

 言って俺は一ノ瀬を見る。ここからは部長である一ノ瀬が担当した方がいいと思った。

 が、


「……いいえ、多分私よりあなたの言葉の方が村崎さんには伝わるわ」


 逡巡の後、首を振る一ノ瀬。真剣な目でそう言われては断るわけにはいかない。珍しく信頼されているようだ。

 俺はそれに「分かった」と一言返すと再び村崎さんに向き直る。


「君はこれからどうしたい? 今の先生と三島の関係はいわゆる浮気、とても褒められたものじゃない。君は先生にそれは間違っていると止めたいのか。それとも浮気でも先生の恋を応援したいのか。俺たちは育才部だ。依頼されれば君にいくらでも手を貸す。……村崎さん、君はどうしたい?」


 浮気調査。村崎さんはそう言った。そして村崎さんは最近先生の様子が変なことを心配しているとも言った。けれど一度もそれをどうしたいかとは言っていない。

 先生の恋人が浮気しているということは分かった。けれど浮気だと分かった今、村崎さんがそれについて何を思いどうしたいのか。その答えを聞かなければ俺たちはこれからどうすることもできない。どうする資格もない。


「私は……」


 開いた口は閉じてしまう。重なった視線はすぐに逸れる。


「っ……、私は……」


 必死に言葉を探す。心を探す。

 きっと今、村崎さんは分からないのだろう。自分がどうしたいのか。先生にどうしてほしいのか。答えはあってもそれを言葉にできない。形にできない。

 それでも俺たちは待つ。彼女の視線が何度も俺の赤い瞳を見つめてはすぐに逸らされる。嚙み締めた唇には薄っすらと跡がついている。



「……俺は浮気が嫌いだ」


 突然口を開いた俺に彼女は驚いて顔を上げた。


「っ!」


 逃がさない。今は目を逸らさせない。静かに、独り言を語るように彼女の目を見て俺は話す。


「約束を破って、たくさんの人を傷つけて。けど俺が一番嫌いなのは嘘だからだ。一番愛しているから結婚したはずだ。最愛を誓い、永遠を誓ったから結ばれたはずだ。けれど浮気をするということは一番ではないということだろ? 浮気した相手は一番にはなれないということだろ? もし三島にとって一番が奥さんなら、先生は一番じゃない。けれど先生にとって一番は」


 言葉を区切る。これ以上は不要だろう。村崎さんは見たこともないほど顔を真っ赤にして必死に怒りに耐えている。


「っ‼ ……私は……っ……私は! ………私はっ、~~~っ‼」


 そしてふいにポロリと。

 村崎さんの頬を伝った涙は一粒ではなかった。もう止まらない。止められない。


「うっ……うう……わたし、わたしは……っ」


 とめどなく流れるその雫はきっとこれまでこらえていたのだろう。いくら拭っても落ちないそれで嗚咽とともに目を腫らす。俺たちは何も言わない。これ以上、何も言えない。

 どれほどの時間が経っただろうか。永遠にも感じられる静寂の中に彼女の嗚咽だけが聞こえる時間。

 けれど最後に、彼女は言ったのだ。



「私は、お姉ちゃんの本当の気持ちが知りたい‼」



 それはきっと彼女の本当の言葉。

 俺たちは互いに頷きあうと、


「ああ、引き受けた」


 差し出されたハンカチは三つだった。


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