浮気調査、の形
土曜日。
いつ先生が家を出るのか細かい時間までは分からないということなので、俺と一ノ瀬、皇の三人はとりあえず午前中に村崎さん宅の近くの喫茶店で待ち合せることになっていた。
家を出るとき、まなみに私をおいてどこに行くのかと激しく問い詰められ抜け出すのに大変だった。ゆっくりと話している時間もなかったため強引に話を切って逃げ出したのだが、大丈夫だろうか? ……いや、玄関の戸を開けたとき大量の問題集を抱えた姉さんに捕まっていたので、きっと大丈夫だろう。……多分。
「『鳩喫茶猫の巣』 ……ここか」
入店すると、カウンターの中から「いらっしゃいませー」と若い店員さんに声をかけられた。
店内を見まわす。名前からして猫カフェか何かだと思っていたのだが少し渋い感じの普通の喫茶店だった。……詐欺だと言われても仕方ないぞ。あ、でも鳩はいた。木の置物だが。
と、入って窓際一番奥、隅の目立たない席に二人、知った顔を見つけた。端に座っている上に尾行とあって特に特徴のない無難な恰好で来ているはずなのに、目立つなあいつら。そんなことを思いながら二人の待つ席へと向う。
「おはよう。早いな、二人とも」
「あ、おはようございます、九十九さん」
「あ……はあ、もう来たのね。あと二年くらい遅くても良かったのに」
楽し気に話しているところ悪いなと思いつつ声をかけた俺に皇がそう言って元気よく挨拶を返してくれる。けれどその対面に座る一ノ瀬は残念そうにため息を吐いた。皇との楽しいデートを邪魔しちゃってごめんね。
「集合は十時って話だったから一応少し早めに家を出たんだが。……待たせたか?」
店内の時計に目をやりながら訪ねると、澄まし顔で一ノ瀬は首を横に振った。
「いえ、それほどでもないわ」
言った一ノ瀬の前には紅茶のカップが並んでいる。皇の前にも同様の紅茶が。ただ皇の前には紅茶のカップしかないのに対し、一ノ瀬の前には明らかに朝食と思われるトーストやサラダの皿があった。もしかしなくてもここで朝食を済ませたのだろう。
「あの、私は三十分くらい前に来たんですけど、……一ノ瀬さんはそれ以上前からここにいたようで」
そうこっそりと俺に耳打ちする皇。朝から中々にドキドキさせてくれる。
「なるほど。というかお前も人のこと言えないぞ」
「え?」
良く分かっていない様子の皇だが、この話はまた今度だ。今度こいつらにある程度の常識を教えなければならないな。まさか俺が人に常識を教えることになるとは思わなかった。
「それで、村崎さんから連絡はあったか?」
喫茶店に来て何も頼まないのも悪いので、注文を済ませた俺は一ノ瀬に尋ねる。ちなみに席は俺が一番奥で一ノ瀬と皇が並んで対面に座っている。
俺が腰を下ろす前にわざわざ席を移動した一ノ瀬に、
「この席とってもあったかいなあ。それにすっごくいい匂い♪」
と言ってやりたいな。……きっと調査する前に逮捕されるな、一ノ瀬が。もちろん罪状は刑法第一九九条、殺人だ。
昨日話し合った結果、村崎先生が家を出たら村崎さんがそのことを一ノ瀬に連絡し、その後、位置情報を連絡してもらいながら村崎さんと合流 → 尾行。という作戦らしい。連絡先は流石に男の俺に連絡先を知られるのは嫌だろうと思い、一ノ瀬と皇が交換した。
「いいえ、まだね。万が一を考えて私も少し早めに来ていたけれど」
どちらか分からないが、きっと今のは一ノ瀬の言い訳だと思う。その証拠に皇が「えっ⁉」と声を漏らしていた。
「そうか。まあ、夜のことを考えるとあんまり早くから会う必要はないのかもな」
そもそも浮気なら一目の多い昼間にどこかに出かけたりするのは避けるはずだ。
「ええ、その可能性が高いわね」
と、俺たちが話していると何か疑問に思ったらしい皇が口を開いた。
「あの、夜のこととは何ですか?」
「ん?」
「え?」
皇の疑問の意味が分からず首を傾げる俺達。
質問した皇のその純粋な瞳には一切の穢れがない。
「恋人と出かけるのなら普通は遊園地や映画館に行くものだと聞きましたが………夜だとどこも開いていないのでは?」
…………フッ、
「いや、夜にも遊園地は楽しめるぞ? というか夜こそが本番と言っても過言ではない」
そう、メリーゴーランドでジェットコースターに乗るみたいな感じだな。
イルミネーションが眩しい大人の世界へようこそ。
「ちょっ⁉ 適当吹き込むのはやめなさい!」
俺が皇に大人の世界のアトラクションについて話そうとすると一ノ瀬に物凄く怖い目で睨まれた。冷汗三斗。お化け屋敷よりこいつといた方が涼しくなるな。
「いい、皇さん。さっきの彼の言ったことはまったくの嘘。気にすることはないわ」
「では夜の遊園地というのは」
「何でもないの、忘れなさい」
「ですが――」
「忘れなさい」
「は、はい……」
一ノ瀬のあまりの圧にそっと目を逸らす皇。今度俺が教えてあげるから大丈夫だよ。……そんなことをすればきっと一ノ瀬に裸でジェットコースターに括りつけられることになるのでやめておこうと思います。
そんな馬鹿な会話をしていると、店員が俺の注文した品を持ってくる。
「ご注文の品をお持ちしました」
「ああ、どうも」
一通り注文確認を終えた店員の女性は食べ終わっている一ノ瀬の皿などを持って去っていく。
「あなた、それ……」
俺の前に並べられた特大コーヒーゼリーとその横のコーヒーを指さして、信じられないものでも見るような目で言う一ノ瀬。
「なんだ? ああ、もしかしてお前も食べたかったのか?」
「い、いえ、そういうわけではないのだけれど……」
珍しく歯切れの悪い一ノ瀬。どうしたというのだろう?
俺が不思議に思いつつクリームたっぷりのコーヒーゼリーをコーヒーで流し込む作業に舌鼓を打っていると、何かを決意した様子で皇が口を開く。
「っ、……あの! 九十九さん!」
「ん? どうした? 告白でもするのか?」
「いえ、それはあり得ませんが。その、九十九さんがコーヒーがお好きなのは知っていましたが、……スイーツまでコーヒーゼリーですか?」
「ん、ああ、なんだ、そういうことか。うまいんだぞ、これ。コーヒーゼリーだけだと冷たいだろ? けどコーヒーだけだと熱すぎる。だがこうして二つを同時に食べれば口の中でちょうどいい感じになるんだよ。あとコーヒーゼリーだけだとアイスやクリームの部分が甘すぎてコーヒーの風味だけしか感じられなくなるからな」
まあ、専門家の人に見られたら怒られてしまいそうだが。
だがコーヒーはそのまま飲んでも当然うまいが、こうした方が贅沢な気分になれる気がする。安い男だな、俺。
「そ、そう……。 まあ、どう食べるかはあなたの自由だから別に構わないけれど」
「え、ええ。そうですね。はい、その通りです」
そう言って二人は手元の紅茶に口をつける。
紅茶を飲む姿が実に絵になる姉妹だな。
一ノ瀬はいつも飲んでいるのだろう。まさにいいとこのお嬢様という感じの慣れた様子だ。皇はあまりこういった経験はないのだろう。カチカチと音をたててしまってはいるが、それでもその容姿や雰囲気はそんな不慣れさを差し引いても上品さを醸し出している。
そんな彼女たちを見つめているとつい、俺はこれが部活動だということを忘れてしまいそうになるのだった。
*
村崎さんから連絡が来たのはそれから一時間後のことだった。
急いで店を出た俺たちは村崎さんと連絡を取りながら合流する。
「こんにちは、みなさん。今日はよろしくお願いします」
「ああ、よろしくな」
「よろしくお願いします」
「ええ、……では確認よ。まず村崎さんはこのまま先生を尾行する。そしてある程度時間が空いたら今度は私と皇さんと交代。その後は九十九君の順。建物に入った時はその都度考えましょう」
軽く挨拶を済ませた俺たちは、先生から少し離れた辺りで一ノ瀬の話に耳を傾ける。
「ああ、打ち合わせ通りだな。……けど村崎さんはあまり長くは危険だ。やっぱりこれ以上は俺たちが行った方がいいんじゃないか?」
家から出る時間が分からなかったのでここまでは彼女につけてもらったが、彼女は先生の身内だ。知った顔は認識しやすい上に、もし気づかれて家に帰って尋ねられても困る。リスクを考えるならあまり村崎さんが動くのは避けた方がいい。
「なるほど、……確かにその通りね。ではここからは私たちが引き継ぐわ。ある程度時間が空けば連絡して」
「で、ですがあまり手間をかけさせるわけにはっ。それにこれは姉の問題ですし……」
一ノ瀬の言葉に否を唱えたのは村崎さんだ。
彼女の言いたいことは分かる。いくらリスクを考えたことだとしても、お願いしている立場で自分は何もしないのは気が引けるのだろう。
が、
「いや、気にすることはない。というより君が出しゃばった方が迷惑だ」
「っ! な………え?」
「ちょっ、ちょっと九十九さん! 今の言い方はっ!」
「しっ! 静かに。ここでこんなに固まっているところを見られたらそれこそおしまいよ」
俺の言葉にショックを受けた様子の村崎さんを見て憤る皇だが、意外にもそれを止めたのは一ノ瀬だった。
「残念だけれど九十九君の言うことはもっともね。ここからは私たちに任せてあなたはおとなしくしていなさい」
「なっ⁉ 一ノ瀬さんまでっ」
「いいから来なさい、皇さん。それと村崎さん、もしその男に何かされそうになったらすぐに私か警察に通報するのよ」
そう言い残して、未だ不満そうな皇を連れて先生を追いかける一ノ瀬。信用されているのかいないのか分からないな。だがもしもの時は一ノ瀬ではなく直接警察に連絡してください。
「「………」」
「とりあえずあいつら追いかけるか」
「は、はい……」
気まずい空気の中、歩き出す俺達。
尾行する一ノ瀬達の大体の位置情報はスマホのアプリで確認できる。細かいことは連絡して確認するという計画だ。昨日俺と連絡先を交換した一ノ瀬は当然もの凄く渋ったが、この件が終わったら必ず削除するということで同意した。
スマホであいつらの位置情報を確認しながらある程度の距離を保って歩く。
その間、俺たちの間に会話はなかった。
**
「まったく、どうして二人共あんな言い方するんですか! きっと村崎さん、傷ついていますよ。だいたい気にするなって、これは彼女の家族の問題なんです! 出しゃばるな、なんてひどすぎますよ!」
村崎さんたちと別れた後、付かず離れずの距離を保って村崎先生を尾行する私たち。けれど先ほどの私たちの態度に珍しく皇さんが憤っている。心優しい彼女だ。確かに私たちの言い方で村崎さんが傷ついたことは許せないのかもしれない。
「……家族の問題だからよ」
「? ……どういうことですか?」
「家族というのは特別よ。他とは違う。喧嘩しても何をしても、家に帰れば必ず顔を合わせることになる。どれだけ避けても避けられないし、離れたくても離れられない」
よく分からないと言うように首を傾げる皇さん。
「そういうものですか?」
「ええ、多分ね」
まあ、私たちは少し特殊なのでそれについては本当かどうかあまり分からないけれど。
今は話を続ける。
「……言い訳に聞こえるかもしれないけれど、さっきの彼の突き放すような態度。あれは彼女のことを心配してのことよ」
確証はないけれど多分間違いないだろう。彼が人を傷つけないように気を付けていることは知っている。もしあれが故意でないのならすぐに彼女に頭を下げたはずだ。前に私たちにもそうしたように。
「で、でも実際には彼女を傷つけることに」
「ええ、だから私たちはこうしてあなたに責められている」
「っ………」
「もしあのまま彼女の意見を聞いて彼女に尾行を続けてもらったとして、その時のリスクはどうなるかしら? もし彼女が尾行していることがバレて、最悪浮気調査なんてしていることを先生に知られてしまったら、……彼女は一体どうなるかしら?」
「あ……」
「これ以上は言わなくても分かると思うけれど最悪の場合………分かるわね?」
「……はい。きっと彼女の家庭は――……」
皇さんの声が小さくなる。私の言いたいことは伝わったようだ。
「まあ、もしかしたらそうはならないかもしれないけれどね。そのまま彼女の思いが伝わって、先生は恋人と別れて無事この件は解決。先生と村崎さんとの仲がより深まってハッピーエンド。……それならそれでいいわ。けれどその万が一がある限りは何としてでも彼女がバレることだけは避けなければならない」
皇さんは黙って私の言葉にうなずく。
「私たちがバレたとしてもまあ、言い訳次第ではなんとかなるわ。けれどあのままでは彼女は引きそうになかった。頼っている立場で任せるわけにはいかないと思うのは当然ね。だから彼はあえて厳しい言葉を使ったのよ」
あのまま押し問答していては先生を見失ってしまう可能性もあった。
「まあ、多分彼が厳しい言葉を使ったのはそれだけが理由ではないでしょうけど」
あれはきっと彼女が罪悪感を抱かないようにするためにあえて強く拒絶するような言い方をしたのだ。彼を言い訳にできるようにあえてそうした。
「まったく、私には理解できない思考だけれどね」
分かっていてもわざわざ自分から傷つきに行こうとは誰も思わない。何か別の方法で、自分の損しない方法で問題を解決しようとするのが普通だ。
まあ、理解はできないが彼の目的は分かる。ただそのアルゴリズムが彼と私で違うだけ。
「……なるほど。では私はそれに気づかず二人を責めてしまったんですね」
皇さんは申し訳なさそうに言う。けれどそれは違う。
「気にすることはないわ。というよりあの場であなたが怒ってくれたおかげで彼のやり方が成立したのよ。だからあなたは正しい」
「? 私のおかげ……ですか?」
「ええ。彼はきっと皇さんなら自分を責めてくれると思って言ったのでしょうね。あなたなら必ずあの場で村崎さんのために怒ってくれる。それが分かっていたから彼はあの場で彼女に強い言葉を使えたのよ。だってあなたが怒ってくれなかったら、私たちの部は完全に嫌な人間の集まりじゃない」
言っていて少し可笑しくなって自分の口元が緩んでしまうのが分かった。
彼を皇さんの前で褒めるのは癪だけれど。本当に不本意ではあるけれど。それでも事実は事実。皇さんには間違った勘違いをしてほしくはない。
「だから、あなたが居てくれてよかったわ」
「っ!」
私がそう言うと皇さんは嬉しそうにニヤニヤしている。……可愛い。
「……まあ、今はそれより尾行に集中しましょう」
先生はちょうど駅前の広場へと到着し、周りをきょろきょろと確認している。きっとその既婚者の男性と待ち合せているのだろう。私たちは気づかれないように二手に分かれて先生を観察する。
と、先生の下へと向かう一人の男性が。それに気づいた先生も手を上げて彼の方へと向かう。そして何事かを話した二人はそのまま駅、ではなく駅前のバス乗り場へと向かう。
「まずいわ、私たちも乗りましょう」
「は、はい」
急いで私たちも後を追いかける。
「バスを待つ間に九十九君たちに連絡を入れておくわね」
乗り物に乗られては合流が大変になってしまうが仕方ない。そこは彼に何とかしてもらいましょう。
「ふふ、なんだかんだ言って一ノ瀬さんも九十九さんを信頼してますよね?」
……何を言っているのかちょっとよくわからないわね。
妄言をつぶやく皇さんを無視して、私は初めて家族以外の人に連絡するのだった。
**
一ノ瀬から先生が男と合流してバスに乗ったと連絡を受けた俺たちはとりあえずバス停で待機し、先生たちが下りた駅を聞いた後にタクシーを拾い一ノ瀬達と合流した。
「それで、先生たちはここか?」
俺は大型ショッピングモール内にある映画館を指さして尋ねる。確かに映画館ならあまり回りに見られることなくデートを楽しめるだろう。駅で停車するまで待った分少し遅れてしまったが、一ノ瀬達はここから動いていなかったので意外と早く合流することができた。
「ええ、先生たちは先に行ったわ。あと数分で映画が始まるわね」
「そうか。ならここで映画が終わるまで待って俺と交代だな。どうせなら映画館でイチャついてるところを確認しときたかったが、……まあ、仕方ないか」
「はい。私も映画観たかったです……」
俺の言葉に皇が実に残念そうに言う。……そういえば皇は俺がここに着いたときからずっとそわそわしていたな。こいつ今日の俺たちの目的を忘れてないか?
「まあ、映画は今度一ノ瀬にでも連れてってもら――」
と、言いかけてふとあることに気づく。
これは形はどうあれ浮気調査で、その調査対象はどちらも大人。
……これは不味いな。
「いや、なんなら今の時間に好きな映画を観ててもいいぞ? 先生たちはどうせ俺がこの後も尾行するからな。後は任せてくれていい」
別に後は俺がいればこいつらは必要ない。せっかくみんなで外に出たのだから遊びたいだろう。
「ほ、ほんとですか⁉ あ……、い、いえ、今日は部活で来ているのでまた今度にします……」
「……そうね。残念――いえ、せっかくだけれど今は部活中。映画はまた今度来ましょう」
皇も一ノ瀬も乗り気ではあるが流石に部活中。村崎さんもさっきから壁に張り出されている『フラメンコ男爵の華麗なる休日』のポスターをチラチラと興味深そうに見ているところとみると、やはり映画に興味があるのだろう。けれど自分で依頼した上、やはり姉が心配なこともあり、「ではよろしく」とは言えない様子。
だが、俺にもいろいろと考えがある。そのためにもこいつらにはここで遊んでいてもらったほうが都合がいいのだ。
「いや、やっぱりお前らは遊んでていいぞ。ほら、俺がおごるから三人で行って来るといい。一ノ瀬達にはさっきまで任せっきりになっちまったし、村崎さんには今朝酷い言い方をしてしまったからな。そのお詫びだ」
言って俺は財布から一万円札を取り出し三人に差し出す。ちなみにこれはまなみから借りた財布だ。……いよいよもって俺の将来が見えてきたな。
すると俺のその態度を怪訝に思ったのか一ノ瀬が眉をしかめる。見れば他の二人も驚いた様子だ。これは俺のイケメンムーブに三人ともときめいちゃったかな? ……妹の財布でカッコつけている兄貴。あらためて考えるととても恥ずかしくなってくるな。
「……どういうこと? あなた、本当は何を考えているの?」
流石にわざとらしかったか。怪訝な表情の一ノ瀬が詰め寄ってくる。
勘づかれてしまったならの仕方ない。
「いや、もちろんお前たちの笑顔と、この依頼の達成についてだが」
冗談めかしてそう言うと案の定一ノ瀬は俺に顔を近づけて睨みつけてきた。
「ふざけてないでっ……って、ちょっ⁉」
言葉を続けようとした一ノ瀬の肩をそっと掴んでその耳に顔を近づけて耳打ちする。
「これ以上はどうなるか分からない。刺激の強すぎるのは危険だから俺一人で行く」
「っ‼」
耳は敏感なのか一ノ瀬がさっきから「あっ……く……んうっ……」となまめかしい声を上げているのがとても罪悪感を感じさせる。
僅か数秒。必要な情報だけを機械的に伝える。目立たないよう周囲からは俺が盾となって見えないようにしたので注目はされていない。まあ、目の前にいる村崎さんや皇は若干頬を赤らめて「つ、九十九さんが狼さんに⁉」「あ、ああああああっ」と、とっても愉快な勘違いをしてくれているようだが……。
あとのことは映画でも見ながら一ノ瀬に何とかしてもらおう。
「……なるほど、そういうことね」
俺から距離をとって深呼吸を繰り返すこと数回。落ち着きを取り戻した一ノ瀬が「ふむ」とその細い指を顎にあてて頷く。どうやら俺の言いたいことを理解してくれたようだ。……若干まだ顔が赤いのが可愛すぎるな。
「……任せていいのね?」
真剣な目でそう聞かれ、俺はわざと重々しくうなずく。
「分かったわ。……でも、失敗したら許さないわよ」
「ああ、もちろんだ」
俺の目をのぞき込む一ノ瀬の目はこれから遊びに行くとは思えない程真剣そのもの。流石に今は軽口をたたいていい雰囲気ではなかった。
「……そう、ではお言葉に甘えさせてもらうわ。あなたたちもいいかしら?」
数秒の逡巡の後、一ノ瀬は皇たちへ向き直って尋ねる。
「……本当に任せていいんですか? いえ、映画は観たいのですが」
「気にするな。お前らはさっきまでよくやってくれたからな。そろそろ俺も何か役に立たないと先輩として恥ずかしいだろ? だから俺の顔を立てると思って楽しんできてくれ」
「……フフ、似合いませんね。……でも、ありがとうございます」
それは俺のイケメンムーブのことについて言っているのだろうか? 一言多いがその嬉し気な顔を見れば何も言う気がおきないな。
だがそれでは納得しない人が一人いた。
「わ、私はついていきます。これは私の問題なので、私がっ……!」
その目は真剣で、さっきのように俺が拒絶してもそう簡単には揺るぎそうにない。
「……大丈夫だ。心配しなくていい」
「え――」
俺の言葉に首を傾げる村崎さん。
「君は君にできることをやっただろう?」
柄にもなく、俺は優しく彼女に語り掛ける。
「お姉さんが心配だ。何とかしたい。けれど自分の力じゃ何もできない。でも心配だ。誰か悪い男に騙されているんじゃないか? 酷い仕打ちを受けているんじゃないか? 夜は眠れているのか? 目の下の隈は夜眠れないから? ならどうして眠れないの? やっぱりそれは男のせい? 気になる。気になる。何とかしたい。どうにかしたい。――でも自分には何もできない」
俺の言葉を村崎さんは黙って聞いていた。その視線は下を向いていて、その華奢な拳はこれでもかと握りしめられている。
きっと今の俺の言葉は彼女を傷つけている。彼女の心を言葉にして、形にして、声に出して伝えることで、あらためて自分が無力なのだということを思い知らされているように感じるだろう。もしかしたら、俺は自分が居ても役に立たないからここでおとなしくしていろ、というようなことを伝えたいのだと思われるかもしれない。
だがそれは違う。俺が言いたいのは決してそんなことではない。
見れば一ノ瀬と皇はそんな俺たちを静かに見守っていた。何か言いたげな皇だが、何かを思い出したように考える仕草をして、そしてどこか納得したような表情を浮かべた。一ノ瀬が何か言ってくれたのだろうか。なかなかお節介なやつだ。
「勘違いしないでほしいが、俺は君が無力だとは思わない。もし君が本当に無力で何もできない人間なら、俺たちは今こうしてこの場所には来ていない。……確かに君は一人では何もできなかったかもしれない。でも君は俺達に頼った。あの部の戸を叩いた。それは君ができることだったんじゃないのか?」
「っ、私に……できること……?」
俯いていた顔を上げた彼女の視線が俺と重なる。握られた拳は開かれている。
「ああ、……正直に言って今日、今から君が先生のためにできることはもう何もない。強いて言うなら絶対に先生に見つからないで今日を終え、家に帰ってもこれまで通り何も悟られないように取り繕うことくらいだ」
「っ! ……や、やっぱり私には何も」
俺の言葉にまたもや勘違いして俯く村崎さん。その拳は震えていた。……やはり自分の伝えたいことを言葉で伝えるのは難しいな。
「だから勘違いするな。何度も言うが、俺は君を責めたいわけじゃないんだ。むしろ自分には何もできないからと言ってあきらめるんじゃなく、強硬手段に出るわけでもなく、噂程度で本当かどうかも分からない俺達の部に自分で足を運んで、そして今こうして俺達に協力を依頼している君を、……俺は尊敬している」
これは本音だ。何ができないかではなく、できないなりに何をするべきかを考えて行動した彼女は十分に強い人間だ。
「っ……⁉ そ、尊敬……///」
一瞬申し訳なさそうな表情をするも俺が尊敬していると言った瞬間、何故か村崎さんが頬を赤らめて動揺している。その後ろでは皇たちが何事かをつぶやいている。良く聞こえないが、俺は真面目にしていない時はゴミクズらしい。……泣きたくなった。
「結局何が言いたいかというとだな、……君は君にできることを十分にやった。俺がこれから君のためにすることは全部、君が俺たちの部の扉を叩いたからできたことだ。だから俺たちに気を遣うのは仕方ないが、君は自分が無力だと悲観する必要はない、ってことだ」
こういうとき、もう少しうまい伝え方はないのかといつも思う。
俺の言葉は果たして彼女に伝わっただろうか?
人の心は分からない。自分の心はもっと分からない。
そんな意味不明なもの同士を伝え合うなんてことはとても難しい。
「……分かりました。私、映画を観ます!」
決意の表情。その目には少しだけ涙が浮かんでいる。
「そうか、なら後は任せろ」
「はい。よろしくお願いします!」
言って彼女たちはチケット売り場の行列へと向かった。俺が渡そうとした一万円札は三人ともに突き返された。良かった。まだ俺は兄として落ちないで済んだ。
去り際、村崎さんが熱心に見ていたポスターの映画は面白くないよと伝えたことは言うまでもない。
先生たちの映画が終わるまであと一時間。
この前公開されたばかりのアニメのポスターの引力から逃れるため、俺はそっと近くの椅子に腰かけ目を閉じた。
*
あの後、一ノ瀬達とはその場で解散し、晴れて一人となった俺は映画を観終わった先生たちの尾行を続けた。
遅めの昼食としてお洒落な喫茶店に入った二人は終始楽し気に笑いあい、そのまま一時間近くを昼食と談笑で費やしていた。
傍から見ていて思ったことだが、二人はどう見てもお互いに好意を抱いているようで、先生は学校では決して見せないであろう柔らかい笑みを終始浮かべていた。男の方は先生よりそれなりに年が離れているようで、落ち着いた笑みを浮かべて先生を見事にエスコートする様はまさに誠実な大人の男性といった感じだ。ただ時折先生がコーヒーのカップに口をつけたとき、その形のいい唇に薄く塗られた口紅が陶器についているのに目がいく様子は、彼もまた先生に好意を抱いているのだろうということが分かった。……ちなみに俺の視力はすこぶる良い。俺はそれをフル活用してその男と同じことをしていたので彼の気持ちは良く分かる。
喫茶店で一通り時間をつぶした後、日が傾いてきた時間帯。先生たちは手を繋いで店から出ると、人通りの少ない道を選ぶように歩いた。それを見て、彼の気持ちがまったく分からない俺は男の後頭部に石をぶつけてやりたい衝動に駆られるのを必死に耐えた。よく頑張ったと誰か俺を褒めてほしい。
日が暮れて最後に彼女たちが入ったのは派手にきらめく大人の遊園地だった。
「……やっぱり一人で来て正解だったな」
念のためその現場だけスマホで写真を撮った俺はそのまま帰宅した。
純粋な皇にこんな場所が存在することを教えるのは罪悪感が物凄いし、村崎さんに関しては調査の内容が内容だけにその手のことについても覚悟はできているかもしれないが、それでも実際に姉が見知らぬ男とラブホテルに入っていくところを見るのは嫌だろう。
一ノ瀬がエッチで助かったな。




