母親の形
日曜日、サンデイ、週末、ウィークエンド………etc。
その耳触りの良い音色は浅学な者にとっては彼の名器、ストラディバリウスの音色よりも価値があり、日々社会のストレスに苦しむすべての人間にとってまさに至高の響き。
そんな救いの日曜日。俺は自宅のリビングのソファーに腰かけて、一人朝食をとっていた。
時刻は正午。お昼時だ。
昨日は一日まなみと遊んでいたが、今日は久しぶりに何の予定も入っていない。週末は大抵昨日のようにまなみとの約束があるのだが、まなみは今日、姉さんに付きっきりで勉強させられるらしく、俺との予定は霧散したのだ。
なんでも、この間まなみたちの学校でも一学期始めのテストがあったらしく、その結果はお察しである。
別にうちの家族は皆そこまで成績を気にするわけではない。ないのだが、今回まなみが成績アップに頼った相手は姉さんだ。自分が勉強を見たのに結果が出なかったことが姉さんに火をつけ、
「こうなったらまなみの成績がアップするまで週末は勉強よ!」
というわけだ。昨日はたまたま姉さんに用事があったため、やるように言いつけられていた問題集をシュレッターにかけて出かけられたらしい。……証拠隠滅は隠蔽工作の基本だからな。
そんな話を朝寝ぼけ眼で姉妹らの追いかけっこを見ながら母さんから聞いた俺はそのまま自室へ直行し、二度寝して今に至る。
「う~~ん。……しかし、どうすっかなあ」
いつもはまなみが適当に予定を立ててくれるので悩むことはないのだが、いざそれがなくなったとなると、後は睡眠以外特にやることを思いつかない。
どうしたものかなあと、俺がすっかり冷めきっている食パンをかじりながら思案にふけっていると、リビングの扉が開いて薄着の美人が入ってきた。
「あら、さいちゃん♪ やっと起きてきたのねえ~~♥」
俺をさいちゃんと呼ぶ女性はこの世でただ一人、九十九美和子。母さんだけだ。
「ああ、おはよう母さん。やっぱり母さんはいつみても美人だね」
「うふふ、も~~、ママって呼んでっていつも言ってるじゃなあ~い♪」
流石にこの年で母親をママと呼ぶのは恥ずかしいので遠慮したい。
「それで、珍しいね。今日は母さん一日休みなの?」
「ええ、ほんといつぶりのちゃんとした休みかしら? 久しぶりにさいちゃんたちと話した気分ね~♪」
こう見えて、母さんはどっかの大企業の役職についている。そんな母さんは日々忙しく働いているため、こうして昼間から顔を合わせるのはとても珍しい。一応朝にも姉さんたちのことを聞いたので話しているのだが、まさか一日中家にいるとは思わなかった。
「そういえばそうだね。このところ週末は俺もまなみと出かけてばかりだったから、こうして家にいるのも久々だし」
ちなみに、俺のこの若干猫を被ったような口調は大目に見てほしい。
母さんは息子の俺から見ても物凄く美人だ。元のブラウンがかった髪を更に少しだけ明るく染めた短めの髪、整った目鼻立ち。完璧なプロポーションはもはや芸術だ。そしてさらに俺の周りで珍しい巨乳でもある。今もキャミソールで動き回るその姿は思春期男子にとっては爆弾そのもの。俺でなければ耐えられないかもしれない。
「そうなのよお~~。いつもまみちゃんとばっかり遊んでて~、ママちょっと嫉妬しちゃうわあ~~」
言って母さんは俺のかじりかけの食パンを奪うと、俺の肩に手をまわして俺の耳元で、
「私のこと、飽きちゃった?」
と、魅惑的な声音でささやくと、俺から奪った食パンを俺の唇に当ててくる。
……あの、おっぱい、当たってますよ?
「うふふ、……あててんのよ♪ (フウ)」
「ひゃっ⁉」
ただでさえ耳元で囁かれて、その吐息でゾクゾクしていたというのに、それはもう反則だ。
「ちょっ⁉ か、母さん⁉ 思春期男子をいじめすぎでは⁉」
あまりのむずがゆさに俺の寝ぼけていた脳は一気に覚醒し、慌ててソファーから転げ落ちると急いで母さんから距離をとる。
「ん~~~♪ さいちゃん、か~わい~♥」
俺のドキドキなど何のその、母さんは物凄く上機嫌のニコニコ笑顔で俺のかじりかけの食パンをかじる。
「~~~~っ///」
ちくしょうっ! 同じ大人の美人なのに先生とはえらい違いだ。なんというかこれが大人の余裕というものなのだろうか。
「うふふ、ちょっとやりすぎちゃったかしら? でもごめんなさいね。さいちゃんをからかうのが私の生きがいなのよ。おかげで仕事の疲れも吹っ飛んじゃったわ♪」
言って可愛らしく手を合わせてコテンと首を傾げる母。
嘘だろ⁉ 娘が高三でこのあざとさ。けれども引くどころか見とれてしまうほど可愛らしいのはマジでびっくりだ。九十九家七不思議その三だな。
「ま、まあ、母さんの役に立てるならなんだってするけど」
「あら? うふふ♪ 何でも? ならな~んでもしてもらおうかしら~」
またもや母さんはその大きな目をニヤリと細め、俺の頬に手の甲を這わす。
「な、なんでもってあれですよ⁉ 近親的な、非合法的なやつはダメですよ?」
思わず敬語になる俺。そういえば前に先生が何でもやると言った時は俺も似たような想像をしてしまった気がするが、なるほど。意味を理解して言ってしまうとこういう気持ちになるのか。……悪くないな。
「あら? 私は肩たたきとか、そういう親孝行的なことを頼みたかったんだけどお~~、あらら~~? さいちゃんは何を期待しちゃったのかなあ~~~?」
「なっ⁉ そ、それはっ………肩たたきです」
ちくしょうっ! またやられた。これもこの間一ノ瀬に似たようなことを言った気がする。見てきたようにやり返されるのは誰かの陰謀ではないだろうか?
「うふふ、冗談よ、冗談。別にさいちゃんがしたいならしてみる? ”イケナイ”こと♪(フウ)」
「ふぁッ⁉(ゾクゾク)」
……もういろいろ限界です。
「うふふふ、あははははは、ごめんなさい、さいちゃん。久しぶりだからついやりすぎちゃったわ♪」
俺の限界を理解してくれたのか、俺の体から手を離した母さんは両手を挙げてブラブラと振る。
「ね、寝起きのスキンシップにしては激しすぎませんか?」
なんとか呼吸を整えた俺は悔し紛れに軽口を返す。
「あら? 寝る前ならいいのかしらあ~~?」
言ってコテンとまるでなにも理解していませんよという風なとぼけた表情で首を傾げ、唇に人差し指を当てる母さん。
「すみませんでした! もう少し大人になってからでお願いします!」
もう何を言っても勝てる気がしない。一生俺は母さんには頭が上がらないな。
「うふふ、……でも、まさかあなたをこんな風にからかう日がくるなんて。こんな可愛いさいちゃんなんて少し前までは一生見られないと思ってたから」
「っ……」
それはきっと昔のことを言っているのだろう。
何を言っていいか分からず俺が困惑していると、母さんは優しく俺の頭に手を置くと、
「だから……、だからきっと私もまみちゃんも、こうしてあなたに甘えられるのが幸せで幸せで仕方ないのね」
そう言って俺の頭を撫でまわした。
*
「母さん、俺、この前部活入ったんだ」
「え?」
朝食を食べ終え(食べられたともいう)、一息ついた俺は母さんに膝枕されながらここ最近あったことを伝える。……いやね、あの後俺がリビングから出て行こうとすると何故か母さんが自分の膝に手招きしていて、近づいた途端捕まってそのまま―――というわけだ。
言いたいことは分かる。だが、そういうわけなのだから許してほしい。
「あなたが……。そう、やっぱり……いえ、それは楽しそうね♪」
突然の話に驚いた様子だったが何かを察したらしい。
良く分からないがとりあえず近況報告はしておこうと思う。
「ああ、しかも初日から物凄く性格はきついけど超美人な部長や、なんか世間知らずだけどアホで可愛い友達もできたんだ」
「あなたに友達? あらまあ、それはまみちゃん、ライバルが増えて大変ね~~」
? 俺の妹はまなみ一人だが。
「なら、これからはその子たちと過ごす時間が増える分私たちと過ごす時間は減っちゃうのね~。ラブコメ主人公な息子を持つとママ寂しくなっちゃうわあ~~」
俺の周りはラブコメ好きが多すぎる気がする。
「いや、その事なんだけど……、実は俺、今クビにされそうなんだよね」
そう。何も突然俺が母さんにこんな話をしたのはただの近況報告が目的というわけではない。
昨日の朝まなみには相談しなかったがあの後考えたのだ。
俺はもしかしたらまた何か勘違いをしていたのではないか?と。
だから甘えてみることにした。
他人ではない。家族にならきっと――
俺は名残惜しいが母さんの柔らかく極上の寝心地である太腿から身を起こすと対面のソファーに座りなおして身を正す。
「そのことでちょっと相談したいんだけど、……いいかな?」
「え?」
「いや、別に無理にとは言わないし、嫌なら断ってくれて構わないんだけど。というか完全に自業自得だから本来は俺が解決するべきことで、こんなこと頼むのはお門違いってことも分かってんだけどさ……。ええと、あの、その」
人に甘えるのなんてそれこそ初めてだ。
頼んでいたはずなのに、どうしてか否定する言葉ばかりが浮かんでくる。
「……ふふ、うふふ、あはははは」
「か、かあさん?」
俺があたふたしていると突然母さんが笑い出した。何故だかその目は少し潤んでいるように見える。
「ごめんなさい。でも、まさかあなたに甘えられる日が来るなんて思わなくて、嬉しくってつい」
「……? 嬉しい? 甘えられることが?」
甘えとは弱い自分を認めることになる、否定すべきものではないのか?
「ええ、だって私はあなたの母親だもの。子供に甘えられて嫌な顔をする親なんていないわ。……もっとも、今まであなたが私に甘えてくれたことなんてなかったけれど」
「いいのか? 甘えても。甘えるな‼ってよく叱る人間を見かけるんだが」
よくニュースで『近頃の若者たちは甘えが過ぎる!』なんてことを耳にする。人に甘えることを当たり前だと思っている人間は成長することをやめて他人に依存するだけの寄生虫だと誰かが言っていた。
甘えることは悪い事ではないのか?
「そりゃあ何の義理もない人間に甘えられたり、しつこく絡んでこられたりされたらむかつくでしょうけど、家族は別よ。お互いに甘えて甘えられて。それを許容できる関係を家族と呼ぶんじゃないかしら? ……知らないけど」
「知らないのかよ」
「知らないわよ。だって私はダメな母親だもの」
「母さんが? 母さんがダメなら俺なんてどうなんのさ」
俺は自虐することには慣れているが人を励ますことには慣れていない。なので自然とこういう時、自分を下げて相手を上げる方法を選んでしまう。
「あら? だって私は自分の息子に十六歳になるまで甘えられたことすらないのよ? これを母親失格って言わないなら何て言うの?」
「それは息子がアホなだけだから。母さんは最高の母親だから。マジSSR」
「エスエス? ……良く分からないけど、私の息子を悪く言うことはいくら息子でも許さないわよ?」
「……っ」
突然、母さんの目が鋭くなる。母さんのこんな目を見るのは昔まなみを甘やかしすぎてその月のお小遣いをすべて使い切ってしまった時以来だ。母さんを励ましていたはずなのに何故か余計に不機嫌にさせてしまった。難しいものだな。
でもなぜだろう? 睨まれているはずなのにそれを嬉しいと感じるのは。ついに俺がMに染まってしまったからか?
しかし、否定ばかりだが、それを言うなら俺だって言わせてもらおう。
「それなら俺だって同じだよ。俺の母さんをダメな親呼ばわりするのはいくら母さんでも許さないよ?」
先ほどから、母さんの言葉に自虐で励ましながら思っていた。俺は俺を否定されるのはむしろウェルカムだが、俺の家族を否定する言葉は許せない。
シャンクスから学んだことだな。
「さいちゃん……。うふふ、そうね、ごめんなさい。やっぱり私は美人で優しい素晴らしいママよ」
「まあ、何一つ間違ってないからいいけどそれを自分で言うのはどうなの?」
「あら? 嘘は言っていないのならいいじゃない」
そう言われると「そうですね」としか言えない。
真実はいつも絶対なのだ。
「でも」
「ん? でも」
得意げにフフンッ♪と胸を張っていた(とても大きい)母さんだったが、おもむろにピッと顔の前で人差し指を立てると、
「でも、それならさいちゃんもあんまり自分を悪く言っちゃダメ。私の子供はみんないい子。それを否定する人は私、大嫌いだから」
そう言ってぷうっと可愛らしく膨らませた頬をニコリと緩めた。
「……分かったよ。俺は賢くて優しくてカッコいい、最高の息子だからな」
「うふふ、ええ、私の息子はとっても可愛いいい子よ♪」
そこはツッコミを入れてもらわないとむずがゆいのだが。
「それにしてもさいちゃんにお説教しちゃったのも初めてじゃない? 今日は初めて尽くしね♪ これもその部活動のおかげかしら?」
「そうかな? まあ、母さんにはからかわれることはあっても説教されることはなかったかもね」
と言ってもこの間は先生に叱られたし、昨日だってまなみに叱られた。俺が叱られないというよりは母さんに叱られるような機会がそもそも無いというだけだが。
というか、
「それはそれとして、一体何の話してたんだっけ?」
「自分で聞いてて忘れちゃったの~~? うふふ、まあ、そんなわけないけど。部活動のことで相談があるんでしょう?」
「ああ! そういえばそうだったね。すっかり話がそれちゃったけど甘えさせてもらってもいいかな?」
まあ、覚えてたんだけどな。どう話を戻していいか分からなかったので忘れたふりをしただけだ。こういうときコミュニケーション能力って大事だなと思う。
「ええ、いくらでも甘えていいわよ。私はあなたのママだもの。で、どうしたの? 流石に筆おろしは無理だけど、手でするぐらいなら――」
「わーー‼ ストップ‼ 違うから! そんな危ない相談じゃないから!」
いきなりぶっ込んで来た母の言葉を慌てて止める。俺に甘えられなかったことよりこういうことを息子に平気で言っているあたりは本当に母親失格説あるんじゃないか?
「あら? 遠慮しなくていいのよ? なんならお姉ちゃんに頼む? まあ、きっと初めてでしょうけど。流石にまみちゃんは――」
「母親~~ッ⁉ マジでストップ‼ 自分の娘が可愛くないのか⁉ というかいい加減ちゃんと話聴いてくれよ!」
もはや口調など構う余裕もない。こんな会話あいつらに聞かれたら母さん共々我が家に出入り禁止になりそうだ。……何故だか俺だけそうなりそうな予感がプンプンするのはなぜだろうな?
「うふふ、じゃあ聴きましょうか。はい、どうぞ」
いや、いきなり「はいどうぞ」と言われてもどうしていいか分からないのだが。
とりあえずこの前のことを話すか。
「そ、それじゃあ、聴いてくれ……ださい。まずは、この前遅刻したとき――」
俺はこの前からの経緯をかいつまんで話した。と言ってもまあ、流石にクラスで嫌われていることや先生に説教されたことなんかは省いて一ノ瀬達との会話を中心にだが。
*
俺の話を聴き終わった母さんはふむふむとうなずいていたかと思うと突然、
「とりあえず今度から遅刻しちゃダメよ? あと、さいちゃんは怒られて当然だと思うわ」
そう言って顔の前で両手の人差し指でバッテンを作ると「めっ」と言って頬を膨らませた。
とても可愛い。……年は気にしてはダメだ。
「うっ! いや、俺もダメだったってことは分かってるんだけどさ、あれから口もきいてくれないからな~、二人とも」
「それでどうしていか分からないから私に相談したの?」
「ま、まあ……、そういうことです」
改めてそう言われると物凄く情けない話だな。
「う~~ん……、ぶっちゃけ無理ね、私には。ごめんなさい」
「えっ⁉ え~~~⁉ だってなんだって甘えていいてさっき」
「ええ、言ったわ。けれど、だって、……私胸が小さかったことなんてないもの」
ああ、なるほど。(察し)
「け、けど、仲直りの方法なら何かない? ほら、なんか奢るとか」
「さあ? まあ、普通にしていればそのうち許してくれるわよ。きっと、多分、Maybe……」
「ちょっ⁉ それ俺も前に皇にも言ったけどまったく確証ないときのやつじゃん!」
必死でヒントを求める俺だが母さんはひらひらと手を振るばかりで結局答えてはくれなかった。
そしてそのままリビングのドアまで行くと、
「まあ、大丈夫よ。そのうちなんとかなるわ。それにこういうことは自分で解決しないと意味がないもの。男になりなさい」
そう言って決め顔でサムズアップすると、「じゃあ、もうひと眠りするから~~」と言って出て行ってしまった。
「……マジですか」
一時間近く話して何の成果もないとは。
「いやまあ、成果はあったか……」
少なくともまた一つ俺は変われた……と思う。
でも、
「結局一ノ瀬達とのことは自分で何とかするしかないか」
仕方がない。
土下座でも何でもして許してもらおう。
またもや俺の土下座フラグが立った瞬間だった。
母さんが出て行ってから少しして、暇を持て余した俺はソファーから起き上がるとぼんやりとリビングの時計を眺めながら考える。
時刻は一時すぎ。
せっかくの休日だ。
寝るにはもったいないので、久しぶりに一人で出かけてみよう。
俺は適当な服に着替えると財布と携帯を持って家を出る。
「いつぶりだろうな―――綾さん」




