デレ期到来! の形
泣き虫みゃーちゃんこと一ノ瀬がツンデレのデレを披露した数日後。土日を挟んで十月に入った月曜日。
「なあ、どう思う……皇?」
口に手をやり小声でひそひそと耳打ちする。
「……そうですね。おかしいです。これは異常事態ですよ」
皇もまたこしょこしょと俺の真似をして耳打ちしてくる。
そう。おかしいのだ。……一ノ瀬の様子が。
「? どうしたの二人とも? 内緒話とは、される方からしたらあまりいい気分がしないわよ」
……一ノ瀬である。一ノ瀬なのだが……。
「え、ええ、すみません一ノ瀬さん。ちょっと込み入ったお話がありまして。そ、それよりどうしたんですか? ……その、いつもと様子が」
ぱっと俺から離れた皇はサササッと一ノ瀬の下へと移動する。
そんな皇に一ノ瀬は何のことか分からないと首を傾げる。
「? 何のことかしら? よく分からないけれど、そんな風に仲間外れにされると少し寂しいわ」
「「っ!」」
おかしいっ……!
「なあ皇! おっかしいぞ、あれ! 何がとは言えないが、何となくむずむずする!」
「は、はい。何というか、今日の一ノ瀬さんからはあのピリピリとした他人を寄せ付けない雰囲気を感じません!」
サッと距離をとった俺たちはまた内緒話をするように耳にささやきあう。
「むう…また……」
うっ……ㇰッ……マズいッ。これは効く。
そう、そうなのだ。今日の一ノ瀬の様子はどこかおかしい。
どこがおかしいのかと言われるとはっきりとは言えないが、例えるなら今の一ノ瀬はせっかくの美しさなのに棘が酷くて触れられなかったバラの花からそれらの棘を取り除いたような、今まで皆無と言ってよいほど感じられなかった親しみやすさが、今の一ノ瀬にはある。
その証拠に……
「な、なあ一ノ瀬。今日のドリンク当番はありがたいんだが、何で今日は水じゃないんだ?」
「? なぜって……。むしろなんであなたの飲み物だけ単価の安いミネラルウォーターにしないといけないのかしら? 私たち三人で順番に購入しているのだから、あなたの分だけ安物にするのは不公平でしょ?」
「うっ……いや、まあそうなんだが」
やはり違和感がある。
そもそもその理不尽を平気でやっていたのはこいつだし、以前の一ノ瀬なら何か皮肉を返してきていたはずだ。
「九十九さん。これは、一ノ瀬さんも変わってきたということでしょうか?」
皇に耳打ちされる。
「そうだな。……まあ、いい変化なんじゃないか?」
柔らかくなった一ノ瀬の表情を見て、もう秋になったのかとあらためて思った。
*
「あまいっ! 重心が流れています。もっと腰を落としてください!」
昼休みの格技上。一ノ瀬の鋭い声が響く。
「ッ」
一瞬のスキを突いた一ノ瀬の反撃をなんとか躱した先輩は、そのまま無理に突っ込もうとはせず、一旦間合いを取って呼吸を整える。
「へえ。けっこうな成長じゃないか」
そんな先輩を見て、思わず感心の声が漏れた。
「そうですか? 私には以前との違いが良くわかりませんが」
きょとんと首を傾げながら、審判役の皇が言う。
「分からないか? 少し前までの先輩だったら、今の突きを紙一重で躱せても、そのあと無理な体勢のまま反撃しようとして、そのままリズムを崩されてやられていた。それに今も二人は相手の出方を伺っているだろ? こういう駆け引きも、前はもっと甘かった」
俺が言うと、皇は「へえ、なるほどです。成長してるんですねえ」と、わかっているのかいないのか分からないほえーとした表情で言う。
……こいつほんとに普段はアホの子だな。いざというときは誰よりも頼りになるのに………はあ。
「ちょっと! なんですか今のため息は? 心なしか悪意を感じますが」
……やっぱりこういうときだけ目ざといんだよな。
「いや、何でもない。気にするな。……まあ、対人相手の空手に慣れて来たと言った方が近いのかもしれないな。もともと先輩は空手の型自体は出来ていた。その使い方を少しずつ分かって来たんだろう」
まあ、だからといって一ノ瀬とまともに戦えるレベルかと言われると残念ながら否定せざるを得ないが。
「先輩。今日の放課後、部室で待ってます」
昼休みの修行が終わり、体操服から着替え終えた先輩に言う。
「……うん。この前の話の続き……ってことでいいんだよね?」
ちょっとだけ考え込んだ先輩は、真剣な瞳を返してくる。
「はい。先日はすみませんでした。俺達の方がいろいろバタついていて、依頼をおざなりにしてしまって」
お客様であるところの先輩には結構な迷惑をかけてしまった。カスタマーサービスにクレーム殺到レベルだ。
「ううん、気にしないで。何の見返りもなしにお願いを聞いてもらうんだもん。それより、この前の一ノ瀬さん、どこか様子がおかしかったけど……。問題は解決したの?」
しゅんとした表情の先輩は本気で心配してくれているようだ。
「ええ、おかげさまで今はそれなりに平和にやっています。まあ、ついこの前のことなんでまだ俺達も慣れないですけど」
「そうなんだ。良かった……のかな?」
慣れない? と首を傾げる先輩。それに俺が何か答えようとしたところで、「あの、矢渡先輩」と声がかけられた。
「っ! ど、どうしたの一ノ瀬さん⁉ ……その、ごめんね、全然強くならなくて。せっかく鍛えてもらってるのに」
いつものようにきついお説教が飛んでくると思ったのか、身構える先輩。……すっかり調教されてしまっているな。子供をいじめているようなその光景はなんかちょっと可哀想というか、悲しくなってくるレベルだ。……いや、先輩なんだけどな?
しかし、
「いえ、そうではなくて。……先日はすみませんでした。せっかくの練習の時間だったのに、私情で潰してしまって」
続いた一ノ瀬の言葉は先輩の予想だにしていなかった一言だったのだろう。目を見開いた先輩は、ぱちぱちと瞬きを繰り返している。どうでもいいけど金魚みたいに口をパクパクさせてる姿はアホ面っぽいのでやめたほうがいいですよ。
「それに……、少しずつですが先輩は強くなってきています。地道に努力できるところが先輩の長所ですから、このまま続けていれば必ず結果はついくると思います」
「っっ‼‼」
まさかあの一ノ瀬から謝罪された上に褒められるなんて思ってもいなかった先輩は、目玉飛び出るんじゃないかってくらいビックリしている。
「つつつ、つっくも君⁉ どど、どうしちゃったの⁉」
その言い方だと俺がどうかしちゃったみたいに聞こえるんだが。
まあ、その反応も分からなくもないが、ちょっと大げさすぎる気もしなくもないと……と思いかけたところで、そういえば先輩が一ノ瀬にダメ出し以外で話しかけられているところなんて見たことないなと思った。……これが正しい反応ですね。
バッと一ノ瀬から距離をとって俺の近くにやって来た先輩は、信じられないものを見るような、ツチノコでも発見したのかってくらい驚いた様子で一ノ瀬を指さして言う。こらこら、人に指を刺しちゃ失礼ですよ。……失礼の塊みたいな俺達が言えたことではないですね、はい。
「……流石にそんな反応をされるとは思わなかったわ。よっぽどだったのね、先日までの私」
それにちょっとだけ一ノ瀬が落ち込んでいる。というか過去の自分にドン引きしている。
「お前も立派な黒歴史持ちだな」
言うと、すこぶる嫌そうな顔をされた。心配するな。黒歴史マスターであるこの俺が先輩としてきちんと塗りつぶし方を教えてやる。まずはあれだな。……どれだ? ごめん、特にこれと言った方法はなかった。山の様に積み重なっているだけで、何一つ上手いこと処理できていない産業廃棄物だからな。諦めて開き直って受け入れて、たまに思い出して布団の中で身悶える。そういうもんだ。諦めろ。
……しかし。
「先輩、ちょっと褒められたくらいで調子に乗らないでくださいね? 一ノ瀬のデレを二番目に受けるのはこの俺ですから」
大槌で釘を刺す。
皇には逆立ちしたって勝てないにしても、デレ期到来中の現在、一ノ瀬に次にデレられるのはこの俺だ。
「ちょっ、なんで九十九君が怒ってるの?」
「いや、俺も褒められたことないのにと思って」
「嫉妬⁉」
「嫉妬じゃないです。ちょっとイラっとしただけで」
「いやそれ嫉妬でしょ!」
「だから嫉妬じゃないですって。………俺が相手をしましょうか?」
「本気で恐いよ、九十九君⁉」
「……まったく。……バカね」
「ふふっ、楽しいですね!」
…………。
向けられる呆れた視線に懐かしさや気恥ずかしさを覚えながら、日常が戻って来たことを実感した。




