重なる言葉と彼女の呪縛、の形
部室の廊下の前に座り込んで、ドア越しに二人の声を聞いていた。背中から感じる振動は少しだけ普段の彼女たちの声よりも低くくぐもって聞こえた。
「もう本当にミャーちゃんは可愛いですね。食べちゃいたいくらいです」
…………。
つくづくそっくりだ。そんな場面ではないと分かっているのだが、ついつい懐かしいあの人の顔が思い浮かんで、勝手に頬が緩んでしまう。まあ、あいつが一番あの人との時間が長いからな。……べつに羨ましくなんてない。ホントなんだから! 勘違いしないでよね! ……キモいな。
「――彼や姉さんを見ているとどうしようもなく負けている気がして――」
…………。
一ノ瀬は強い人間だと思っていた。そう思っていたかった。
一ノ瀬なら、俺の気持ちを分かってくれるかもしれないと期待していた。持つ者の苦悩や痛みを知る一ノ瀬なら、隣にいても傷つけないでいられるかもしれないと勝手に思っていた。
でもやっぱり、結局俺は繰り返してしまった。
あいつの弱さから目を背け、孤高な生き方に憧れ、己を求め続ける姿に過去の自分を勝手に重ね、あいつに答えを求めた。
きっと少し前までの俺なら、もう二度と関わってはいけないと本気で考えていただろう。今でもそう思う。
でも先生が教えてくれた。
傷つけるだけなら関わるべきではないけれど、たとえ傷つけてもその先があれば――……
――俺はまだ、一緒にいられる。
*
「……わたしはお母さんではありません」
……っ。
皇の声が聞こえた瞬間、ビクッと身体が跳ねた。
俺が皇に依頼したのは綾さんとして一ノ瀬と話してほしいということだった。
予想外のことだ。けれど予想していたことでもある。
皇に綾さんの面影を見ることはあっても、どこまでいってもあいつは綾さんではない。まして綾さんの代わりとして見ることなど決してあってはならない。
勘違いしてはいけない。
俺が依頼した相手は綾さんでも綾さんの代替人でもなく、皇流星なのだ。
「いいですか一ノ瀬さん」
背筋にぞわりとした感覚があった。なぜか今すぐ耳を塞ぎたかった。
「――お母さんはもう、いないんですっ」
っっ!
一瞬、目の前が真っ暗になった。普段より数秒長い瞬きをしたくらいの時間。ズーンと何かにのしかかられているような感覚が襲った。
なにを……っ、動揺しているんだ俺は……⁉
分かっていたことだ。気持ちの悪い感情だ。ずっと前から受け入れていたはずだ。
扉の向こうでは、俺と同じく狼狽した様子の一ノ瀬が皇の言葉を必死に拒もうとしている。
「いい加減にしてください!」
その声はこれまで聞いた皇のどの声よりも大きく、離れていてもしっかりと俺の鼓膜を揺らした。
「言葉にとらわれないでください! 痛みから逃げないでください! 思考を、止めないでくださいっ。……あなたはっ、……どうしたってあなたとしてしか生きられないんです」
……っ。
敵わないなと思った。
やっぱりあいつに頼んで良かったと思った。それと同時に少し悔しくもあった。
俺ではきっと言えない言葉を迷いなく伝えられる皇を、心底凄いなと思った。そんな言葉をかけてもらえる一ノ瀬が、羨ましいとも思った。
「私は強いあなたも弱いあなたも、不器用で可愛いあなたも、どんなあなたでも大好きです。愛しています。……それじゃあ、いけませんか?」
どうしてだろうな。
これは皇の言葉で、皇が一ノ瀬だけに伝えている一ノ瀬の為だけの言葉。
それなのに、目を閉じて声を聞きながら思い浮かぶのは、いつかの墓地でのあの人の顔ばかりだった。
*
『少年。いつか私がいなくなったとき、誰かは涙を流してくれるでしょうか?』
その時の俺は彼女の言っている意味が分からず、いつものように聞き流していた。
『……ふふ、柄にもないことを言いましたね。それに、やっぱり私はあなたたちには笑っていて欲しいと思うので、泣かれてしまうと悲しくもありますね』
墓地というロケーションだからだろうか。妙に彼女の言葉をいつもの冗談だとは思えなかった。
『どうしましょうか少年? 泣かせてしまうのも悲しいですが、かといって誰も悲しんでくれないのもそれはそれでショックです。我ながら、めんどくさい女ですね』
ニッコリと微笑を浮かべながらそう言われると、そうですねという感想が口を突いて出そうになる。
『ふふ、そんなあからさまに鬱陶しそうな顔しないでください。いいですか少年? 女の子はめんどくさい生き物なんです。……少年、私が女の子と言った部分について何か言いたいことがあるのなら聞きますよ?』
困惑する幼い俺を見て、綾さんは愉快気にクスクスと笑いながら、
『やっぱり私は、あと500年は生きていようと思います。そうすれば、少年がどんな大人になっても見ていられますものね』
本当に心から楽しみにしているのが分かった。それと同時に、『少年』という綾さんの言葉は俺だけに向けられたものではないことも何となく分かった。
『……その場合、年金っていつからもらえるんでしょうね?』
こういうとき何と答えたらいいのか分からない俺は、いつものようにどうでもいい軽口を返す。
『ふふ、どうなんでしょうね? 65歳から貰えるのなら、十分すぎるくらい元が取れますね』
『後の世代の僕たちからしたら、ちょっとした悪霊や呪いみたいなものですけどね』
言うと、綾さんはむうっと口を尖らせて、
『むう~っ、酷いですね少年は。こんなに美人な悪霊なら、むしろ取り付いてくださいと言う人の方が多いですよ。……それに、もしもの時は少年が私を養ってください』
そう言うと、綾さんは幼い俺の頭を自らの胸に抱き寄せた。
『……迷惑をかけるのは僕だけにしてくださいね』
いつも通りの無表情、しかしその奥にちょっとだけ照れくささを隠しながら言うと、綾さんは『もう~、本当に可愛いですね、少年は』と言いながらぐりぐりと俺の頭を撫でまわした。
『……ねえ、少年』
そうして一通りじゃれあった後、ふいに笑顔をしまった綾さんは、
『もしも本当に私がいなくなってしまったときに、誰かが私の死に囚われてしまっていたら。そのときはどうか助けてあげてください』
それから綾さんは珍しく真剣な瞳で俺の目を見つめて、
『これだけは覚えておいてください。少年、私は――……』




