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終わりから得たもの、の形

「――助けて……っ。……お母さん」


 今にも泣きだしそうなすがるような弱弱しい声。


「ええ、もちろん。いつだって頼ってください」

「……っ!」


 その()()()()()()()今にも崩れてしまいそうな華奢な背中に、私は精一杯の優しい声で手を添えた。

 いつもいつも守ってくれた彼女を、今度は私が守れるように。

 何にもできない私だけど。彼や彼女に比べれば本当に無力で、いつも助けてもらってばかりだけど。

 無力な私でも、一人じゃなければ――


「すめらぎ……さん……っ!」


 震える肩をそっと抱き寄せながら安心させるように頭を撫でると、一ノ瀬さんはとても慌てた様子で目を見開いた。


『一ノ瀬を助けられるのは、お前しかいない』


 ここに来る前、屋上で九十九さんに言われた言葉が脳裏をよぎる。今までたくさん彼の表情を見て来たけれど、あんなに、いつものあのつまらなさそうな寂しい瞳からは考えられない真剣な眼差しを向けられたのは初めてだった。

 ちょっとだけその表情に不安の色が見えたのは、たぶん彼が本当の意味で人を頼るのが初めてだったから。

 だからこそ、彼の言葉が本心なのだと迷うことなく確信できた。

 何でも出来る彼も彼女も私の自慢の友人だけれど、そんな二人を助けられるのは私しかいない。そう彼が本気で思ってくれている。


 ……初めての感情だった。


 初めて、誰かに頼られた気がした。

 初めて、心の底から人を助けたいと思った。彼の期待に応えたいと思った。

 だから――


「ふふ、()()()()()()はいつも頑張っていて偉いですねえ。私の自慢の()です」

「っ! ……すめらぎさん? なにを言って……」

「むう~、実の母親の名前を間違えるなんて、いじわるですねミャーちゃんは。ママ、ちょっとショックです」

「っ……じつの母……な、何を言っているの? だってあなたは……っ」


 一ノ瀬さんはひどく狼狽した様子で、その美しい顔には似合わない大きく目を見開いた表情で私の目を見つめていた。


「おかしい話ではないでしょう? 私はあなたの母親ですから、あなたが辛い時や苦しい時はいつだってこうして助けに来ます。だって私は、」


 ――あなたを愛していますから。


 借り物の言葉ではなく、これだけは()()()の言葉でもあった。


「っ!」


 その一言に、一ノ瀬さんが言葉を失くして驚いていた。私を見ているはずなのに、その大きく見開かれた瞳は私を映していない。いつもの妹に接する姉のような目ではなく、きっと今よりずっと幼かった彼女が母に向けていた目だ。

 ずっと昔にもらった優しい言葉や微笑みを思い浮かべながら、もしもの未来を想像してチクリと感じた心臓の痛みに唇を噛む。


「お母、……さん?」


 弱弱しい声で縋るように呼ばれた。


「はい、お母さんですよ。私はあなたのママで、この世界で誰よりもあなたの幸せを願うユアスイートマムです」


 ……たぶん、こんな感じだったと思います。ちょっとだけ今部室の外で待ってもらっている九十九さんからの評価が気になりますが、私の中での綾さん()はこういう人です。


「おかあさん……。おかあさん……っ。……あのっ、わたし……っ」


 まるで何か悪いことをした子供が恐る恐るごめんなさいをするような表情で、視線をあちこちさまよわせながら、隣に腰かけた私を見上げるようにもじもじと何かを言おうとしている一ノ瀬さん。

 ……かっ、かわいい。……っ! い、いけませんいけません。今の私は綾さんです。綾さんらしく答えなければ。


「もう本当にミャーちゃんは可愛いですね。食べちゃいたいくらいです」


 全力で脳内綾さんにデコピンする。

 まったくあなたという人は! イメージの中でも傍若無人ですね! そういうところ、九十九さんにそっくりです。……さては彼があんな風になった原因はあなたですね?

 脳内で思い至った衝撃の英才教育に頭を抱えつつ、まあこういう人だったなとあらためて受け入れる。

 ……そうだ。あの人はこういう人だった。こうやって、不安も恐怖も簡単に振り払ってしまう変な人だった。

 俯いて不安げな表情で目を伏せる一ノ瀬さん。


「……ふふ、本当に、あなたは可愛い人ですね。さあ、何でも話してください。私はあなたの母親ですから、どんなことでも大歓迎です」


 内心の不安を悟られないように、精いっぱい余裕のある大人を装う。

 一ノ瀬さんは何度か視線を巡らせ、目尻に浮かぶ涙を拭おうとして、でもその涙を認めたくなくて拭おうとした手を止めて、代わりにぎゅっと制服のスカートを握りしめ、唇を噛み締めた表情はクシャリと歪んで、その拍子に涙が一条その瞳からこぼれた。


「わたしは……っ、わたしは……っ。……私は、私が分からないっ。……なんで? なにが間違っていたの? なんで私は、あんなことをっ……」


 詰まり詰まりしながら、嗚咽交じりに漏らす言葉は支離滅裂で、普段の彼女からは想像もつかない拙いものだった。私はそれを隣に腰かけ彼女の背中に手を置いて、何も言わずに見守っていた。


「私はあんなことがしたかったわけじゃないっ! わたしはっ……、わたしはただ、お母さんみたいな……っ。……完璧な人間になれば、私は私を証明できるって思ってた! ただそれだけだった!」

「……ええ」

「っ……なのに、彼や姉さんを見ているとどうしようもなく負けている気がして……っ。でもその理由が分からなくて……っ。なのに、心の底ではそれを受け入れている自分がいて。……でも、そんなのは完璧とは言わない! 一番にならないと私は私じゃない。誰かに頼っている私も、誰かに負けていると感じる私も、それらを受け入れてしまう私も、そんなのは全部私じゃない! ……私は私を証明したかっただけなのに、どうして私はこんなに弱いの……っ。ずっと頑張って来たのに……っ」


 堰を切ったように吐き出される彼女の言葉はそのどれもが彼女自身を責め立てていて、傍で聞いているだけなのに心臓の鼓動が上がっていく。


 何と言っていいのか分からなかった。

 彼女の痛みを、私は知らない。

 彼女は強い人だと思っていた。強くて優しくて、でもその伝え方を知らない不器用な人だと思っていた。そんな彼女を可愛いと思っていた。


 でもそれは少し違った。

 彼女が人を避けるのは、弱さを知られるのが恐いからだった。完璧な存在であることを求める彼女は、人と関わることで浮き彫りになってしまう自分の弱さに気づいてしまうことを恐れていた。だからいつも一人でいた。孤高を貫き、流れに飲まれず、波の中にあってもその足で立ち続けた。


 その姿は尊く、それ以上に脆く危うい。


 彼はそれに気づいていた。気づいていたうえで彼女と関わり続けた。その結果、必然的に生まれたのが彼の左腕の怪我と今の彼女の涙。

 だから彼は彼女を責めなかった。そして責めなかったからこそ、私たちの関係にひびが生じた。


 ああ、今になって分かった。

 あの日から、彼が私に向ける申し訳なさそうな目はきっと――


 ……まったく、彼も彼女もそれから私も、みんな似た者同士で困ったものだ。

 みんな自分が悪いと思っている。

 それ以上に誰かを助けているとも思わないで、傷つけたことばかり気にして後悔ばかりしている。


()()()()()

「っ! ……え? お母……さん?」


 背中に添えていた手で彼女の肩を掴んで、力を込めて私と向き合わせる。いつも頼ってきたその肩は少しの力で簡単に動いて、このまま溶けてしまうのではないかと思えた。


「……わたしはお母さんではありません。いいですか()()()()()、」


 九十九さんには綾さんの言葉で一ノ瀬さんと向き合ってほしいと言われていた。誰の言葉も届かなくても、彼女の言葉だけは届くはずだと。

 だからこれは私の独断だ。勝算はない。当たり前だ。九十九さんが出来ないというのなら、きっとそうなのだろう。あの人はいつも適当でダメダメだけれど、母のことでは決して嘘はつかない。そんな彼が母の言葉しか届かないと言ったのだから、きっと私の言葉は彼女には届かないのだろう。

 それでも、


「――お母さんはもう、いないんですっ」


「っ!」


 言った瞬間、彼女の肩を掴んでいた手を強引に跳ね除けられた。当然これまでそんなことをされたことはない私はどうしていいか分からず、私の腕はされるがまま彼女の肩から宙に飛ばされる。


「あなたっ……、何を言っているの? だっていま、目の前にいるじゃない? ……お母さん? お母さんなんでしょ? ……ねえっ、わたしは私らしく生きてるよ? 私はお母さんが教えてくれた通り、私らしくっ」


 ……っっ。

「いい加減にしてください!」


 思い切り叫んでいた。

 彼女の肩を掴みなおして、揺れ動く瞳に語り掛ける。


「完璧な人なんていないんです! あなたらしく生きてほしいと母が望んだのは、別にあなたに完璧になってほしかったわけではないんです! 強くなって欲しかったわけでも優しくなって欲しかったわけでも無くて、お母さんはあなたに、()()()()()()()()()()()んです!」


「っ!」


「言葉にとらわれないでください! 痛みから逃げないでください! 思考を、止めないでくださいっ。……あなたはっ、……どうしたってあなたとしてしか生きられないんです」


 母の死を受け入れきれず、母の言葉に縋り、それを信じ続けることで彼女の中から綾さんの存在が消えるのを必死に遠ざけていた。

 弱さを否定し、完璧を求め、自分という存在を形にしようと足掻き続けた。

 彼女にかけられた魔法は、彼女自身が自分にかけたものだ。大切な人を失う悲しみから逃れるために、自分で母の呪縛に捕われ、母の存在を身近に感じていた。

 だから彼女には誰の言葉も届かなかった。なぜなら彼女の中からはまだ、お母さんは消えていないのだから。


「っ……だって、だっていなくなっちゃったじゃない! 約束したのにっ! もうどこにもいかないって……、休みの日は一緒にいてくれるって! お母さん、私にそう言ったじゃない!」


 っ!


「……お母さんはもうっ……、どこにもいないんです」

「っ……」


 彼女の悲しみや寂しさが伝わって来た。そしてその一部に、私の存在が奪ってしまった時間があることにも気づいてしまった。

 それでも引けなかった。ここで私が迷ってしまったら、私の言葉は届かないと思ったから。


「っ、……だったら、だったら私はどうしたらいいの⁉ こんな私は私じゃない! 本当の私はもっと強くて、お母さんみたいに完璧な……っ」


 それ以上の言葉を遮って、私はぎゅっとこの胸に一ノ瀬さんを抱き寄せた。


「……たしかに今のあなたは強くはないのかもしれません。自分が思っているよりも完璧ではないのかもしれません。弱くて、頑固で、意地っ張りで、面倒くさくて、わがままで不器用で、お母さんみたいな憧れの大人とは、程遠いのかもしれません。あなたが必死に目指し演じて来た理想のあなたとは、違うのかもしれません」


 でも――


 私の言葉を否定できなくて、腕の中でぎゅっと唇を噛み締める一ノ瀬さん。そんな彼女を抱き寄せる手に力を込めながら、代わりにそれを否定するように続けた。


「私は強いあなたも弱いあなたも、不器用で可愛いあなたも、どんなあなたでも大好きです。愛しています。……それじゃあ、いけませんか?」


 彼女が認めらないのなら、彼が選べないのなら、代わりに私が――……



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