似た者同士の瞳、の形
「あの日のお前の行動は、間違っている」
九十九さんがそう言った時、一ノ瀬さんは静かにまぶたを震わせた。彼女が今何を思っているのか、血を分けた身でありながら何も推し量ることは出来なかった。
どうして九十九さんが矢渡先輩と交代したのか。どうして九十九さんがわざと一ノ瀬さんを傷つけるようなことを言うのか。
すべて分かっていた。
彼が今投げかける問いは、この数日間の私たちの苦しみを救う最後の解への道しるべなのだと。
あの日彼が正せなかった一ノ瀬さんの間違いを、問い直すために彼はわざと一ノ瀬さんに勝負を挑んだのだと。
一ノ瀬さんが九十九さんの本当の実力を知りたくて、無理矢理に彼に本気を出させようとした彼女の行動は間違っている。
その一言を伝えるために、完璧であることに固執し、人に弱みを見せることを極端に恐れる彼女に弱さを突きつけ、彼女を故意に傷つけた。
九十九さんの放った一言は静かに一ノ瀬さんの心の奥に響き、雫となって切れ長の美しい瞳からあふれ出た。
「っ……そんなこと、分かってるわよっ!」
「一ノ瀬さん!」
涙に気づき、強引にそれを拭った彼女は初めての感情に戸惑う幼子の様に言って、この場から逃げるように体育館を出て行った。
慌ててその背中に声をかけ追いかけようとするが、そんな私を九十九さんが呼び止めた。
「皇、……少しだけ、俺の話を聞いてくれ」
「っ」
突然そう言われ、一瞬困惑する。そしてすぐにそれが一ノ瀬さんに落ち着く時間を作ってあげるための気遣いなのだと察して、戸惑いつつコクリと私は頷いた。
キ~ンコ~ン、カ~ンコ~ン
お昼休みの終了を告げるチャイムが鳴る。
先輩に教室に戻るように伝えた九十九さんは、場所を代えようと提案すると、ゆっくりと体育館の入り口に向かって歩きはじめる。私もその後を追ってゆっくりと歩いた。
一ノ瀬さんが向かったと思われる育才部の部室へと歩みを進めながら、私は普段より頼りない友人の背中を眺めていた。
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「ふふ、待ってたよ」
「「っ」」
一ノ瀬が向かったであろう育才部の部室を避けるように、特別教室棟の非常階段からそのまま屋上へと向かった俺達。
いつもの自販機横のベンチには、予期せぬ先客がいた。
「中庭から雅ちゃんが走っていくのが見えたから、君たちならきっとここに来るだろうなって思って待ってたけど、やっぱりね」
華さんは何の含みもない、あるいは含みしかない普段通りの声音で、何でもないように、こちらにあの記憶の中の彼女とそっくりな笑みを向けてくる。
「君はやっと、雅ちゃんを傷つけたね」
綾さんの声を聞きながら、俺はコーヒーを買うことも忘れ、ただベンチに佇む彼女の前で立ち尽くす。
「……ふふ、君の選択は間違ってないよ」
その言葉に、ぐっと胸の内から湧き出る感情があった。救われた気になって、肯定されたことに身を預けそうになる浅ましいそれを、俺は必死に押さえつけた。
「回答を導く目的がどうであれ、俺の出した結論を正当化することはできません」
口を開いた俺に、皇が泣きそうな目を向けているのが分かった。
何か言わなければいけないと思った。彼女の言葉を受け入れたくなくて、さりとて拒むこともできなくて、俺は自戒の言葉をもって彼女のその瞳から逃れようとしていた。
今だけは、会いたくなかった。
あの人と重なる瞳も声も笑顔も、今だけは見たくなかった。
華さんはそんな俺をじっと見つめる。
本当に似ている。ふと何かをこらえるような仕草も。本心を隠すための笑顔も。何もかもが懐かしい。
数時間にも感じられた僅か数秒の沈黙を、彼女は笑顔でもって終わらせた。
そして続けた。痛々しいとすら思えるいつも通りの微笑とともに。
「それはまだ分からない。そうでしょう? 君の答えが正しいのか正しくないのか。過程の段階がどうであれ、大事なのは導き出したその先。理想との差を、君が受容できるかどうかなんだから」
その一言で理解した。彼女は俺の行動をすべて見通している。いや、始めから知っていた。
あの日俺の間違いを指摘したその瞬間から、彼女にはこの未来が視えていた。
そして彼女は言っているのだ。
形だけの懺悔はやめろと。お前のすべきことはまだ終わっていないだろうと。
華さんは今、綾さんとして俺の前にいる。そして俺に伝えているのだ。
お前の罪を許してやるから、どうか彼女を守ってくれと。
「俺が間違えるとは思わないんですか?」
最後に聞いてみたかった。
目の前の彼女も。記憶の中の彼女も。一度だって俺を否定したことがない。
なぜそこまで俺を信じる? 信じられる? 自分のことすら信じられない、こんな俺を。
縋るような思いで尋ねると、華さんは一瞬その大きな目を見開いた後、何でもないように言った。
「君を信じることに、理由なんてないよ」
「っ……!」
まるでおかしな言い分だ。筋など通っていない。それなのに、その目は何一つ嘘偽りない本心を語っているように見えて、
「答えになっていませんね。俺みたいな奴を簡単に信用していると、今に酷い目に遭いますよ?」
逃げるように一歩下がって、彼女の前で今日初めての軽口を叩く。
「君みたいな人を信用しているわけじゃないよ。君を信じたお母さんを、私は信じてるの」
ああ、分かった。分かってしまった。どうして華さんの視線に心がざわつくのか。どうして彼女の言葉に一々心を乱してしまうのか。彼女の心を、なぜ見通せないのか。
華さんは俺と同じだ。俺と同じで、彼女もまた俺を見ていない。そして俺と同じで、彼女も自分を求めることを遠に諦めている。
だから彼女に固執して、その答えを見てみたいと思う。彼女の歩む道を、阻むものが許せない。
「それじゃ、私はそろそろ行くね。こりゃ現国は完全に遅刻だね~」
ゆっくりと立ち上がった華さんは、ぱっと話題を切り替えるように言って、階段の方へと足を向けた。
「九十九君。お母さんは生前、雅ちゃんに魔法をかけた。君はあの子の王子様になれる?」
黙って見送る俺に、階段前のドアに手をかけた華さんが尋ねる。
魔法にかけられたお姫様を、眠りから覚ます王子様。まるでお伽噺のようだ。
本当に俺からは縁遠い。俺はどちらかというと毎度毎度リセットする度にお姫様を自分の城へと連れ去る亀の怪物の方がお似合いだ。間違っても王子様になんてなれない。
……でも、それを言うなら、あいつもお姫様って柄じゃない。
「午前零時の鐘が鳴ってお姫様を普通の女の子に戻すのは、魔法使いの役目ですから」
たっぷりの皮肉と、ほんの少しの感謝を込めて言うと、華さんはふっと優しい笑みを残して去って行った。
鏡よ鏡の鏡の代わりに。
似た者同士の俺たちの瞳は、臆病者を映さない。




