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弱さを教える者、の形

 コンコンコン


「はい、どうぞ」


 部室のドアがノックされ、それに俺はいつも通り返事を返す。


「失礼します――あれ? 今日は、二人はいないの?」


 入って来たのはもちろん矢渡先輩。昨日お願いしていた通り、先輩は今日も俺たちの部に顔を出してくれた。


「いえ、二人はもう体育館で待ってます」

「あ、そうだったんだ。それなら僕もこっちじゃなくて……あれ? でも昨日、君は」


 待たせていると思い焦る先輩だが、昨日俺から昼休みにこの部屋に来るようにと伝えられたことを思い出し、困惑する。


「はい、実は少し先輩にお願いがありまして。その話を聞いてもらうためにここに呼び出しました」

「? お願いって、九十九君がぼくに?」


 俺の言葉の意味がまだ分かっていないのか、先輩は首を傾げる。


「はい。そんなに難しい事じゃないんですけど、あいつらの前で昨日の話をしてもらう前に、一つ踏んでおきたいプロセスがありまして」


 先輩には今日の放課後、俺達の前で昨日の話と、そして先輩の本当の依頼を聞かせてもらうつもりだ。

 しかしそれとは別に、この昼休みの間に俺はこの怪我の結論を出そうと思っている。その手助けを先輩には手伝ってもらいたいのだ。


「よく分からないけど………うん、僕にできることならいいよ!」

「助かります。では早速ですが――」


 二人でゆっくりと体育館に歩みを進めながら、俺は軽く先輩にやってほしいことを伝えた。やってほしい事というか、これからの俺の言うことやすることに驚かないでほしいというようなことだ。


「べつにいいけど、どうしてそんなこと頼むの?」


 理由も何も説明せず、ただ今日の昼休みも昨日と同じように一ノ瀬に“修行”を受けてほしいということとそれくらいしか伝えなかったため、理解できないのも当然だ。


「意味が分かるかどうかは、今のところ分かりません」


 そして意味が分かってほしい相手も、今のところ俺の目の前にはいない。

 困惑している先輩にそんなことを言ってはぐらかしながら、俺は傷つける覚悟を決めた。



 *



 この第二四半期と少しの付き合いで分かったことがある。誰かに指導するときの一ノ瀬の教育は厳しい。ゆとり教育を全否定するくらい厳しい。むしろ過剰だと言ってもいい。

 そしてそれはおそらく、これまでの彼女のやり方から来ていると考えられる。他人にも自分にも厳しく決して妥協を許さない一ノ瀬は、常に完璧な人間を目指してきた……か、どうかは本人の口から聞かなければ断定はできないが、少なくとも俺はそう考える。

 一ノ瀬は妥協を許さない。弱さを認めない。その瞳は理想を映し、決して停滞を望まない。

 その姿はたっとく、まったくもって敬うに値する。

 停滞と惰性と空回りばかりの俺には眩しすぎるほどに、一ノ瀬雅とは弱さを許さない人間だ。

 故に、その真っすぐな瞳は、純粋な瞳は、人の弱さを映せない。

 傷つき悲しむ心に、痛みに苦しむ表情に、決して彼女は気づけない。

 痛みに慣れすぎて、耐えることに慣れすぎて、傷だらけの足で常に前進し続ける日常を送る彼女には、弱い人間の心が理解できない。

 だから――

 教えるべき人間がいる。

 そしておそらく、それを教えられる人間で俺以上の適任はいないだろう。居てはいけない。居てほしくない。そう思った。


「そろそろ再開しましょうか」


 五分ほど休憩を挟んで、ちらと体育館の壁掛け時計に目をやった一ノ瀬はそう言って元の位置に戻っていく。


「あ、うん。よろしくお願いします!」


 休憩を終えた先輩が気合を入れなおすように言って一ノ瀬の後ろを追う。皇も少し遅れて二人に続いた。


「いえ、先輩はまだ休憩していてください」


 俺が言うと、きょとんとみんなが不思議そうな顔をしてこちらを見て来た。


「何を言っているの? 時間も限られているのだし、あまり休憩に時間をとっている余裕はないのよ?」


 手首を回したりして準備をしていた一ノ瀬が怪訝な表情で言う。


「いや、時間を無駄にするわけじゃない。試合はする。ただ選手は交代だ」


 みんなが立ち止まる中、俺は常通りの足取りでゆっくりと一ノ瀬の下へと歩いて行く。


「交代も何も、これはそもそも試合ではないし、あなたはその、怪我をしているのだから……」


 呆れたように言う一ノ瀬だが、俺の怪我について持ち出したところで言葉に詰まる。俺と一ノ瀬が交代すると申し出たと思ったのだろう。言い方こそきついが、一ノ瀬が気遣ってくれていることは分かった。


「いや、交代するのは俺と先輩だ。一ノ瀬、少しだけ俺の相手をしてくれ」

「「「っ!」」」


 先輩の横を通り過ぎ一ノ瀬の正面まで行くと、目を逸らすことなくはっきりと伝える。

 そんな俺に、この場に居る俺以外の全員が絶句した。


「九十九さんっ……っ」


 俺の腕の状態を知っている皇は悲痛な声を漏らすが、心配はないと伝えるために手を挙げた。そのついでに先輩にも一つ頷きを送る。先輩はそれを見て、ようやくここに来る前、俺が先輩に頼んだことの意味を理解した様子でこちらに頷きを返してくれた。


「っ、……何を言っているの? その、あなたは今」


 一瞬ビクッと身体をこわばらせた一ノ瀬は、痛まし気に俺の左腕を見て、息を詰まらせる。


「俺の腕のことは気にするな。もうほとんど完治している」


 言いながら俺は軽く肩をまわして見せる。

 当然嘘だが、多少の動作は問題ないだろう。

 訝し気な視線を向けながらも、一ノ瀬は俺の提案を受け入れてくれた。おそらく今の一ノ瀬は俺が何を頼んでも断らないだろうと分かっていながらあえて頼んだのだから、分かり切っていたことではあったが、弱みをちらつかせて人を脅すという最低な行為を平然とできる自分が少しばかり嫌になる。


「べつに少し相手をするくらいはかまわないけれど、これは一体どういう意味があるの?」


 皇が試合の始まりを告げて、油断なく構えを取りながら一ノ瀬が尋ねる。


「さあな。すぐに分かる」


 しかし俺はそれには答えず、曖昧に言って怪我をしていない方の腕だけで構えた。

 あえて隙を作り、一ノ瀬の攻撃を待つ。

 わざと途中で視線を切ってみたり、呼吸のリズムを変えてみたり、普通に試合をしていればまず間違いなくその瞬間、一ノ瀬は攻撃を仕掛けて来ていただろう。

 しかし、


「っ、……ほんとうに大丈夫なの?」


 そんな大きすぎる隙を見ても、一ノ瀬は攻撃してこない。

 こいつに限ってまさか隙を見逃したなんてことはないだろう。

 その証拠に、俺が隙を見せた瞬間、いざ攻撃の構えをとろうとはするものの、すぐに躊躇して、そしてぱっと引いてしまうのだ。

 眉根を下げて、少し前までの彼女からは想像もつかないような弱弱しい瞳で尋ねられる。


 違うっ!


 すべての思考を消し飛ばすように、脳裏に全力で叫ぶ。


 違うっ! 違うっ! 違う……っ!


 何度も何度も繰り返す。

 否定するために。

 その在り方は違うのだと、誰にともなく言い聞かせるように。


「負傷中の俺にも勝てないようなら、お前に先輩を鍛えられるような実力はないな」

「っ」


 ピリッと、ひりつくような空気が場に漂う。

 ギラリと一ノ瀬の瞳の奥が光った。

 ああ、その目だ。

 その刺すような視線に、いつからだろうか。随分と執着してしまう自分がいる。


「……いいわ。あなたがそう言うのなら、きっと間違いはないのでしょうから」


 構えを解いて目を閉じ一つ深呼吸した一ノ瀬は、迷いのない瞳で俺を見つめる。


「一ノ瀬さん……」


 皇の何かを心配するような声はお互い耳に届いている。けれどそれでも、俺達はその声をあえて耳から遠ざけた。でなければ、お互い次の行動をためらってしまうから。


「ッ」


 最初に動いたのは一ノ瀬だった。

 一ノ瀬が鋭く息を吐いた次の瞬間、流れるような動作であっという間に俺との距離を縮めた一ノ瀬は、鋭い突きを俺の左肩めがけて打つ。これは本気と本気の勝負だ。そして勝負において相手の弱点を攻めるのは当然のこと。

 無駄のない動きに一瞬目を奪われそうになるが、この程度の攻撃なら怪我をしていても防げないものではない。


「甘いな」


 本気の勝負でこれほどあからさまな弱点を突いてこないわけがない。そして最初からどこを狙われるのか分かっていれば、それを防ぐのは造作もないことだ。

 俺は身を後ろに逸らしてギリギリで一ノ瀬の突きを躱し、伸びきって威力を失った一ノ瀬の右腕を、俺の右腕で外にはじく。

 そしてその勢いのままこちらも一気に間合いを詰める。

 攻撃をいなされ、大きな隙ができた一ノ瀬の顎を狙って掌底を打つ。人間、顎を攻撃されると脳が揺さぶられ、最悪の場合気を失ってしまうこともある。顎は人体の構造上、最大級の弱点ウィークポイントであると言ってもよい場所だ。


「甘いのはあなたの方よ!」


 これで勝負を決めようとした俺だったが、俺の反撃を予想していたのか、一ノ瀬は身をひねって俺の掌底を躱し、左腕で俺の右腕を打つ。


「っ」


 利き腕であり、しかも現在唯一自由が利く右腕をはじかれた俺は、一瞬その痛みに顔をしかめる。そして一瞬できたその隙を、一ノ瀬が見逃すわけもない。


「はあっ!」


 初めて聞く一ノ瀬の気合の入った声に驚く余裕もなく、俺の攻撃をかわすと同時、左腕で俺の腕をはじいた一ノ瀬の体勢は左足に大きく重心が傾いており、その反動を利用して一ノ瀬は俺の腹部をめがけて鋭い蹴りを放った。

 これはまずい。

 選択は二つに迫られた。

 まず一つ。男女の身体的な能力差を利用し、一ノ瀬の蹴りを右腕の膂力のみで制する。

 これは至極簡単な選択であり、最も危険な手段だ。万全の状態であれば問題ないが、左腕が使えない今の状況で、筋力の差があるとはいえ相当な実力者である一ノ瀬の蹴りを受け止められるか正直怪しいところだ。それに加えて、たとえこの一撃を受け止められたとしても、一ノ瀬はすぐに第二撃三撃を展開してくるだろう。その場合、右腕の負担を考えると少し厳しい。

 そして二つ目。

 選択肢はこれしかない。

 一ノ瀬を一切傷つけずにこの状況を優勢に転ずる唯一の手段。簡単なことだ。それはつまり、


「っとおお――っ」

「ッ」


 流石に腕力の三倍以上あると言われる脚力を伴った蹴りに受けて立てるほど、俺と一ノ瀬との間に身体能力的な差はない。そして腕力で防げないのなら、同じくその三倍以上の力を有している脚力でもって防ぐのが定石だ。

 俺の腹部、鳩尾みぞおちめがけて繰り出される一ノ瀬の鋭い蹴りを右足の蹴りでもって防いだ俺は、俺達の蹴りと蹴りがぶつかって体勢が固まった一瞬を見計らい、男女の違い(リーチや膂力りょりょくの差)を利用してグッと真っすぐ一ノ瀬の体の芯に向かって一ノ瀬の足を押し返す。そして一ノ瀬の重心が完全に左足に移ったタイミングで――


 ――俺はほんの少しだけ本気を出した。


『勝つべからざるは守るなり、勝つべきは攻むるなり』


 攻撃は最大の防御とはよくいったものだな。



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