気まずい空気、の形
休日が過ぎ去り、整理のできていない頭で学校へと向かった。
いつも通り教室で一人きりの時間を過ごし、あっという間におとずれた放課後。
世界史の眠たい授業を寝て過ごしていたため、起きたらもう既に教室に残っている生徒はいなかった。
グ~っと伸びをして眠気を覚まし、二~三度首を回して凝りをほぐす。
まず考えるのは部活動のことだ。
最近バタついていたため、一度整理してみる必要がある。
目先の問題は空手部の矢渡先輩だろうか。
俺の怪我やらで現在、矢渡先輩からの依頼をすっかり放置している状況だ。具体的な解決策はすぐには思いつかないが、一度放置してしまった問題は早いうちに再コンタクトを取らないと後々面倒なことになりかねない。
華さんの嫌がらせ……もとい、文化祭の依頼なんかはまだ時間もあるし後回しでいいだろう。
そんなことをぼんやりと考えつつ荷物をまとめて、部室へ向かうため席を立つ。
ちらと時刻を確認すると、あと五分で五時になろうとしていた。
教室の戸を開き廊下に出る。
「――っ⁉」
「っ……と」
気持ちが急いでいたためか、ドアを開けると同時に廊下に飛び出した俺の胸にトンと何かが衝突した。いや、衝突する直前で大きく彼女がのけ反ったからギリギリ事故ではない。事故ではないが、そののけ反った拍子に思わず転びそうになった彼女をギリギリで抱きかかえてしまったため、刑事事件として告訴される可能性はある。過失はないが、動機だけは十分だからかなり分が悪い裁判になりそうだ。
「わ、悪い。……大丈夫か?」
しっかりと軸が安定したことを確認し、ゆっくり慎重に手を離す。この場面で下手に挙動不審な態度をとると、逆に相手の不安を煽りかねない。経験者は語るのだ。
「い、いえ、こちらこそごめんなさい! ……ってあれ? 九十九さん?」
ちょっと恥ずかしそうにしながらぺこぺこと頭を下げる彼女。しかし俺と目が合うと、いくらか安心したように首を傾げる。
俺も相手が知り合いだと分かり……罪の意識は跳ね上がる。だって俺、この子のお姉さん知ってるしね?
「なんだ、村崎さんか。どうしたんだ? もう教室には誰も残っていなかったぞ」
言いながら、教室のドアの前を譲る。
出る前に荷物がないことも確認し消灯したため、残っている生徒がいないことは確認済みだ。
そう伝えると、なぜか村崎さんは恥ずかしそうに視線をさまよわせた。
「いえ、その……じつは」
不思議に思いながら首を傾げていると、ちょっと照れくさそうに困ったように口をパクパクさせた村崎さんは、
「八時限目が終わってもずっと寝ていたので、もしかしたらまだ教室にいるかなと……」
ふむ……。
口ぶりからして俺の自意識過剰でなければ、わざわざ俺を起こしに戻ってきてくれたということだろうか。
「起こしに来てくれたのか? ありがとうな」
「っ、はいっ!」
素直に礼を言うと、村崎さんは嬉しそうに笑った。
せっかくなので、途中まで一緒に行くことになった。すたすたとリノリウム床に響く二人分の足音。俺の人生には希少な音だ。
「「…………」」
そういえば、こうして二人きりで話す機会はあまりなかったな。
妙な気まずさに包まれる俺達。
「待っててくれて助かったが、部活はよかったのか? 俺のせいで遅れたりしたらごめんな? 先輩からの風当たりが強くなったとかあったら言うんだぞ? 俺は土下座だけは得意だから」
「いっ、いえ! そんなことしなくて大丈夫ですから! 今日は部活休みですし、先輩方はみんな優しくていい人たちですから!」
さっきからチラチラ俺に視線を向けては口元をモニュモニュさせていた村崎さんは、あたふたしながら言う。
俺の唯一の取り柄。九十九万才最終奥義が必要ないとは。俺の存在意義が疑われる。
「いらないのか? 俺は人としての才能はゴミのクズのカスだが、サンドバッグとか、踏み台とかの才能なら天下一品だと思うぞ?」
「ど、どうしてそんなに卑屈なんですか……」
心底不思議そうなそしてどこか少しだけ寂しさを孕んだような視線で言われても、俺の場合、卑屈と言うか単なる事実なんだよな。
俺が何か言うべきかと思考を巡らせていると、グッと何かを堪えるように唇を軽く噛んだ村崎さんは、勇気を出すように一つ深呼吸すると、
「あなたがあなたのことをどう思っていても、私はそんな風には思いませんから!」
――絶対にっ‼
ずいっと詰め寄って念押しされてしまう。思わず引き下がってしまった。
さっきまでのちょっと緊張した空気が幾分か和らいだような気がする。
思えば、村崎さんとも知り合ってそれなりに時間が経った。二人きりで話す機会は少ないが、夏には皆で海にも遊びに行ったし、その程度には繋がりを持ったと言ってもよいのかもしれない。
まだまだ距離が縮まったとは言えないが、最初の頃感じていた二人の間の真っ黒な線は、今では少し薄くなったように感じる。
「そ、そうか。まあ、いらないのなら捨ててくれ。それより、部活がないのなら今日はこのあとどうするんだ?」
「お姉ちゃんを待つつもりだったんですけど、今日は遅くなるから先に帰るよう言われて。友達もみんな部活に行ってしまったので、今日はもう帰ろうかなと」
それを聞いてピーンと来た。そして突然「ぴーん!」とか叫び出した俺に「っ⁉」と困惑している村崎さんがちょっと可愛かった。
「そうか。なら俺たちの部にでも遊びにくるか? 先生を待っててもいいし、電車の時間まででも暇を潰せるだろ?」
あの気まずい空気の中、三人切りでいるのは正直困る。ここは部外者の村崎さんを連れていくことで、お茶を濁そうという作戦だ。
「いいんですか! うれしいです!」
ニコニコ笑顔で言われるとちょっと罪悪感を感じなくもないが、とりあえず空気清浄機が手に入ってよかった。
*
気まずいという感情を始めて抱いたのはいつ頃だっただろうか。少なくとも綾さんにそう感じたことは一度もなかったと思う。
始めにそれを感じたのはたしか家族にだった。
気まずさを感じているフリをして、いつの間にかそういう感情の抱き方を理解した。
俺の発言一つに心を揺らすまなみや母さんの真似をして、他人の心に触れたのが最初だ。
そもそも相手のことを思う心がなければ、気まずさなど抱きようもない。
逆説的に気まずさを理解した今の俺は、人の心を思える人間になれたということだろうか?
……その証明は偽だ。
所詮俺は偽物。真似事の存在で、そんな俺に誰かを心から思うなんてできはしない。
今日は先週の騒動で出来なかった、空手部の視察を行うことになった。
先日の話し合いであの一件については一応の決着はついたはずなのだが、それでもやはり前の様にとはいかない。
遅刻して行った俺に一ノ瀬が悪態をつき、それを皇がなだめるといういつもの恒例行事はなく、俺の隣に立つ村崎さんを見て、二人はわずかにほっと胸をなでおろしたように見えた。
「それにしても、空手部ってどんな練習をしているんでしょうね? きちんと運動部の練習している姿を見たことがないので、少し楽しみです」
中庭を通りながら、皇が話しかけてくる。
「そうだな。というか、あの部に練習とかないもんな。俺たちが特殊なだけで、運動部だろうが文化部だろうが、大体どの部も毎日頑張って練習しているんだぞ?」
いくら文化部とはいえ、毎日毎日部室に集まってお茶飲んで菓子食って駄弁ってるだけの部とか意味不明だ。入部から三か月以上経っているが、未だに俺はこの部のことがよく分かっていない。
「私たちの部もあんまりやっていることは変わりませんよ? 毎日集まって紅茶を飲んでいるだけですし」
「いや、それはそういう部だからだろ? ちゃんとした目的があって活動しているんだから、充分立派だ」
「そっ、そうですかね。えへへ」
別に深い意味で言ったつもりはないが、照れて笑う女の子って可愛いなと改めて思った。




