いい男、の形
「すまなかったね、九十九。騒がしい別れになってしまった」
一花ちゃんが帰った後、リビングに戻って来た先生は言いながら、俺の隣に腰かける。
相変わらず俺と先生との間には人二人分ほどの距離があり、それに違和感を持つこともなく俺たちは自然に座っていた。
「まったくですよ。俺は昔から子供が苦手なんです」
いつもなら言わないようなことが、つい口を突いて出る。
「ふふ。それにしては、君もけっこう楽しんでいたじゃないか?」
何がおかしいのか、先生は目を細め、楽し気に俺を見る。
「……まあ、一花ちゃんはいい子でしたからね。子供って何を考えてるか分からなかったりして勝手に苦手意識をもっていましたけど、たまには遊んでみるのも悪くなかったです」
思い返してみればたしかに俺も結構楽しんでいたように思うので、あまり否定できない。
俺が素直に認めたのが面白いのか、先生はさらに笑みを深める。
「君が子供が苦手なのは、きっと傷つけてしまうことが恐いからだろうな」
「っ……!」
何気なく言った先生のその一言に、一瞬身体が強張る。
――傷つけたくない。
その言葉はここ数日、何度も考えて、問いかけては答えが出ずに行き詰っている難題だ。
「? どうかしたか?」
そんな俺の様子に不思議そうな顔をする先生。
「……いえ、それより勝手に部屋に入ったこと、あらためてすみませんでした」
取り繕うように言って、俺は再度頭を下げる。
誤魔化す意図もあったが、謝罪の言葉は本心からのものだった。
いくら一花ちゃんに誘われたからとはいえ、人様の家で勝手に部屋を覗くのは非常識にもほどがある行為だ。
そう思い、俺は割と真剣に頭を下げたのだが、当の先生は特段気にした様子もなく。
「ああ、そのことか。べつに気にする必要はないよ。あの部屋は寝室で、寝るときくらいしか使わないから見られて困るようなものはそうないんだ」
「……は?」
あっけらかん言った先生の言葉に、俺は意味が分からず首を傾げる。
「え? いやいや、だって先生めっちゃ怖い顔してましたよね? 一花ちゃんを叱る時とかすごく真剣な目で」
「そのことなんだがな。実はあの部屋に入らないように念押ししたのは、一花にあの話を聴かせるためのブラフなんだよ。迷子になって夏葉たちにとても心配をかけているというのに反省の色のない一花に、間違いに気付いてほしくて素人ながら一芝居打ったというわけさ」
何でもないように言いながら、「私の演技もなかなかのものだっただろう?」と顔の横でピースする先生。
そんな普段通りの先生とは対照的に、俺はわずかながら確かな衝撃を受けていた。
演技だった? あの目が? あの顔が?
つまり先生は最初から一花ちゃんに自分の間違いを気づかせるために、母親の気持ちに気づかせるために演技をしていた?
気づかなかった。今日先生に出会ってから今の今まで、先生がそんなことを考えて演技をしているなんてことは想像もしていなかった。
「ふふ、その表情では、君も私の演技にすっかり騙されていたようだな? 案外私には役者の才能があるのかもしれない」
俺の顔を見て、得意げに言う先生。
「……かもしれませんね。でも驚きました。俺はてっきり先生は一花ちゃんのことが」
――苦手なんだと思ってました。
言うと、一瞬先生が目を見開いたのが分かった。
「いえ、違ってたらすみません。ただ、俺と一花ちゃんが二人で話していることは多かったのに、そういえば先生と一花ちゃんが二人きりで話をしていたのってあの説教の時くらいだったなあと思って。これもそういう演技だったんですか?」
あらためて考えながら、気になったことを尋ねる。
「……驚いたな。まさか気づかれるとは」
「っ……てことはやっぱり先生は」
「ああいや、そういうわけじゃないんだ。一花のことはもちろん好きだし、子供もべつに嫌いじゃない。ただ……。君にそう見えたということは多分、……私も恐かったのかもしれないな」
言って、先生は一花ちゃんが帰って行った廊下の方に視線を向ける。
「恐かった、ですか?」
先生が恐がっている姿というのを想像して、妙な違和感に首を傾げる。
「むッ、なんだその目は……。そりゃ、私だって緊張することくらいある。仕事柄慣れているとはいえ、人を叱るというのは、一歩間違えればただ傷つけるだけ傷つけて終わってしまうことにもなりかねないからな。しかも相手は子供。私の発言一つで、将来を左右してしまうかもしれない」
俺に視線を向けられ、先生は居心地悪そうに口元をもにょもにょさせる。普段カッコいい大人のお姉さんぶっている先生のそういう反応はなかなか新鮮だ。
ただ、そんな先生の反応よりも、俺はその真剣な瞳に目が行った。
「傷つけたくないと思うことは、間違っていますか?」
脈絡もなく聞かれ、先生は一瞬きょとんと首を傾げる。
しかし、しばらくの間俺の目を見つめ返し、そして俺の本気を感じ取ったのかふと真剣な顔をする。
ふむと顎に手を置いてしばらく考え込む。そしてまるで子供に向けるような優しい目で。
「……君は、叱ることと怒ることの違いが何か分かるかい?」
質問に質問で返されるとは。しかしこちらも勝手に質問した手前、答えないわけにもいかない。
先生の目が優しくて、それはまるでさっきまで一花ちゃんに向けていたような何でも包み込んでくれるような温かいものだった。
「……いえ、これまで人に何かを怒れるほど綺麗な生き方をしたことがありませんから。誰かを叱ったことも、叱られたこともありません。怒りをおぼえたという経験もあまりないですね。イラっとしたとかならあるんですが」
少し考えてみて、言葉の意味なら分かるものの、実際に経験したことのない感情を理解したように話すのは違うと思い、素直にそう伝える。
「ふふ、君は真面目だな。怒ることと叱ること。よく混合されるが、この二つの言葉はよく似ている。けれど、中身はまったくの別物だと私は思うよ」
言いながら、先生は口の端をつり上げる。
「怒ることは簡単だ。感情に任せて自分の気が収まるまで心を吐き出し続ければいい。正直、怒るだけなら誰でもできるよ。何せそれが目的なのだからね。しかし叱るということは相手に責任を持たなければいけない。傷つけたいわけではないんだ。こんな言い方は変かもしれないけど、相手のことを思うからこそ傷つける覚悟をする」
ふいにふわりと頭をなでられる。
いつの間にか俺たちの間には距離がなく、すぐ目の前で微笑む先生を俺は静かに見つめていた。
「誰だって嫌われたくはないよ。嫌われることは恐いよ。けれど、それ以上に相手のことが大切だから。大切だから、相手が傷つかなくて済むように今、傷つけてあげるんだ」
変な言い方だけれどね。
先生は笑う。
「……たとえそれが嘘でも、ですか?」
けれどそれでも俺はまだ納得できない。
いや、先生の言っていることはとても正しいと思う。正しくて優しくて、先生らしい考え方だ。
ただ俺が正しくなくて優しくないから、まだその言葉に自信を持てない。
俺のような人間が、その言葉を信じていいのか? 信じていいと思っているのか?
自分に問いかける。
そしてその答えはすぐに出た。
俺なんかに――
「いいじゃないか! 嘘でも何でも! 君は何でもできるくせに不器用すぎる。器用になれとは言わないが、もう少し自分に優しくしてやってもいいと私は思うよ」
ぐりぐりと強引に頭をなでられる。
「っ……ちょっ。いたっ、いたいです先生。俺これでも一応怪我人なんですが」
気恥ずかしさを誤魔化すように大袈裟に痛がって見せる。
「ふふふ、我慢しろ。君が君自身を認められないのなら、その分私が目一杯甘やかしてやる! ああもうっ、本当に君は可愛いヤツだ。本当にめんどくさい!」
ぐりぐりぐりぐりと撫でられる。
「めんどくさいってそれ褒めてませんよね⁉ てかちょっ、もげる! 先生もげます! 俺も首の可動域そんなに広くありません! あと、首をまわしたときに微妙に肩に痛みを感じます」
「我慢しろ。これは罰だよ。私の可愛い可愛い大事な生徒を散々いじめてくれた罰だ。甘んじて受け入れろ。……それに、私だってこんなクサいセリフ………恥ずかしいんだぞ」
「っ!」
ふと、それまでがしがしと俺の頭を好き勝手撫でていた先生の手が止まり、蚊の鳴くような声が頭の上でぼそりと聞こえた。
目の動きだけで先生の顔を見上げる。
「っ……んん」
ふいっと逸らされた視線。赤らんだ頬が――……
「「…………」」
空気が止まる。
あああああああああああ―――っ‼
俺の思考回路はショート寸前♪
「それに、」
静かに、けれど確かに沈黙の中、先生は言葉を紡ぐ。
「傷つけるということは、君が思っているよりもずっと大切なことだよ。傷つけるだけで終わるなら近づくべきではないけれど、君はそんな浅い男ではないだろう? ……私が保証する。君は――」
ぐいっと俺の頭を引っ張って、無理矢理に視線を合わせられる。
「っ……」
あまりにも真剣な瞳に、思わず息を呑んだ。
「――君は、いい男だよ」
心臓の音がうるさかった。
告白みたいですね?とか言って恥ずかしさを誤魔化そうとする浅い思考が疎ましかった。
内臓をぎゅううっとしぼられるみたいな、よく分からない感覚が全身を襲った。
目の奥が熱かった。
それでも涙は流れなかった。
本当に、めんどくさい男ですみません。
変な奴でごめんなさい。
「……やさしいですね、先生は」
この頃、尋ねて来る人間が増えたなと思う。
脳裏に浮かんでしかたなかったあの人を、無理矢理に忘れようとしても忘れられなかったあの記憶を、忘れる瞬間がある。
痛いほど、扉がノックされる。
――居留守を使ってはいけません。
そんなことを言われても、どうしたらいいと言うのだろう?
悪質営業ばりに人の心に踏み入って来るこの人達を。
勝手に人の仮面に手をかけて、剥がすでもなく否定するでもなく、笑顔を向けてくれるこの人達を。
認めるわけにはいかないのに、心が揺れて仕方がない。
俺にそんなものはないはずなのに。偽物のはずなのに。
こんな感情を、あの人は教えてくれなかった。知る前にいなくなってしまった。
きっと自分で見つけないといけないものなのだろう。
果たして、俺にできるだろうか?
その答えは決まっているのに、つい期待してしまう。やはり偽物は出来が悪いと相場が決まっている。
ただ素直に先生の言葉を信じられたなら、きっと良かったのかもしれないな。




