厳しさの裏返し、の形
「すまなかったね九十九。せっかくの休日に担任の家で子守りなんてさせてしまって」
お互い人二人分ほどの距離をあけてソファに腰かけ、それぞれ紅茶とコーヒーを一口ずつ啜る。
あらためてそう言われ、俺も一口飲んだインスタントコーヒーが入ったコップを机に置いて少し身体を先生の方へ向ける。
「そんなこと気にしなくて構いませんよ。俺と先生との仲じゃないですか」
言いつつ、視線が重なった時のその先生の瞳から、俺は先生の言葉が一つのけじめなのだと察した。
「そうだね。でも君と私は教師と生徒。その線引きは、やはり明確にする必要があると思ってな」
ソファの端と端。このたった人二人分の距離が俺と先生の物理的距離だ。
先生の言葉に、同じ目線で腰かけるソファの間に一本、超えることのできない太い線が引かれたのが分かった。
俺と先生は教師と生徒。
あらためて先生の口からそう言われ、俺は自分の中で気づいたことがあった。そしてそのことに、俺自身、驚きを隠せなかった。
忘れていた?
いや、忘れていたわけでない。
分かっているのだ。言葉で言うのは簡単だし、この部屋に入ってすぐに俺も指摘したように、俺と先生の関係を表す言葉は生徒とその担任。それ以上でも以下でもない。
だがなぜだろうか。今俺の中にある感情を言葉にするとするなら、それに限りなく近い言葉は多分、「寂しい」だ。
当たり前のことをあらためて言われただけ。本当に、ただそれだけでしかない。
だから分からない。自分の、この気持ちの悪い妙な感情の正体が。
こっそり、目を逸らしていたのだろうか。もしかしたら、もっと別の関係があるのではないかと。
もしかしたら、俺は先生にとって……
「線引きも何も、それが事実でそれがすべてでしょう? 俺は今日、迷子の子供を保護して、どうしていいか分からなかったからたまたま通りかかった身近な“大人”である先生を頼った。そして一花ちゃんを安全に保護するためにやむを得ず先生の家に立ち入った。違いますか?」
先生の言おうとしているその先は俺が引き継ぐ。先生の口から聞くことに、僅かな躊躇いがあったからだ。
誰が何を言ったとしても、俺達の認識は変わらない。俺たちの間では、今日の出来事はこれが事実でこれが全てだ。
とぼけたように言う俺に一瞬おどろいたように目を見開いた先生は、それから少し俺の言葉の意味を探るように俺の目をじっと見つめた後、ふっと破顔させた。
「……いや、まだ甘いな。もう一つ、二人でいいわけを考えようか?」
いたずらでもする子供の様な笑みで、口元に人差し指を突き立てた。
*
「いっくん、かくれんぼしよ!」
昼寝から目覚めた一花ちゃんはしばらく眠たそうに目をしぱしぱさせていたが、やがて意識が覚醒すると、タタタっと俺に駆け寄ってきて元気よく提案する。
「うーん、さっき寝る前にも言ったが、家の中でかくれんぼはちょっとなあ。あんまり騒ぐわけにもいかないし」
「ええ~。一花さわがないからやろうよ~! ね? おねがい‼」
「ううっ……」
甘えたように言われ、心がぐらつく。
ぐっ……だがしかし、人様の家であまり騒ぎすぎるわけには。
「ふふ、構わないじゃないか。かくれんぼならば君の腕にも負担は少ないだろうし、娘のお願いだ。な? パパ」
ニヤッとからかうような笑みで言った先生は、
「この部屋は好きなように使ってくれてかまわない。ただし私の寝室には入らないでくれ。それじゃ~、はじめー‼」
立ち尽くす俺の返事も待たず、それはそれは楽しそうに遊び始めた。
「さて、どこに隠れたもんか……」
い~ち、に~いと数えだした先生から距離をとった俺は、廊下に出てそう独り言ちる。
「つっくん、つっくん。こっち。こっち来て……」
とっておきの隠れ場所でも見つけたのだろうか。シーっと唇に人差し指を当てて「静かにね…」と言いながら一花ちゃんが俺の手を引いた。
「ここは……」
一花ちゃんに押し込まれたのは先生に入らないよう念押しされた廊下の一室。
「ねっ⁉ ここなら隠れられるところいっぱいあるよっ!」
得意げに言う一花ちゃんはとても可愛い。しかしここは……
「たしかに隠れるところには困らないが。先生が言ってただろ? この部屋には入るなって」
カーテンが閉められ、日が差し込まない暗い部屋だった。大きめのベッドが一つあること以外は暗くて確認できない。先生の一番のプライベート空間だということもあってか、リビングやらとはかなり違った雰囲気が感じられる。
「で、でもほかに隠れられるとこないし……」
ぐうっ……。
しゅんと肩を落とす一花ちゃん。そんな様子を見ていると、なぜか俺が酷いことを言ってしまったような気がしてくるが、でもだからといって流石にダメだと言われたことをするのは先生に悪い。先生がプライベート空間を見られたくないというのなら、ここは何もみずそっとドアを閉めるのが正解だろう。
「家の中でかくれんぼするならやっぱ一軒家とかじゃないと難しかったな。まあ探せばほかにもっといい隠れ場所があるかもしれないし、とりあえずここから――」
言いながら一花ちゃんの手を取ってドアノブに手をかけた瞬間。
「――ここには入るなと言ったはずだが?」
俺が力を入れる前にドアが開いたかと思うと、ギイイという音とともに先生の冷たい声がやけに大きく聞こえた。
*
「勝手に部屋に入ってしまい申し訳ありませんでした!」
「でした!」
リビングに正座した俺は対面に座る先生に全力で土下座する。隣で俺を真似て正座していた一花ちゃんも続けて頭を下げた。言葉では謝ってはいるが、その姿は俺の真似をして楽しんでいるようだ。
「……九十九、君は少し席を外せ。私は一花と話がある」
そんな俺たちの謝罪を無視し、いつになく真剣な声で言った先生。
「は、はい」
先生の意図が読めず、しかしその怒りをにじませる瞳にただ黙ってそれに従う。
「え…? ええと、あの……」
言われた通り席を立って廊下の方へ向かう俺に、一花ちゃんが不安げな視線を向けてくる。
そんな一花ちゃんの様子に、俺は一瞬扉の前で立ち止まる。
「一花。私は九十九に言ったんだ。君は残れ」
俺について来ようとする一花ちゃんを、厳しい声でとどまらせる先生。
その視線をそのまま俺に向け、無言でさっさと出て行くよう促す。
「………」
ガチャ―――バタン。
振り向くことなく、俺はリビングから出る。
ドアを閉める前、一瞬漏れ出た「あ……」という一花ちゃんの声が、妙に耳に残った。
「ま、まお……ちゃん? あの…、ええと……。ごっ、ごめんなさい!」
リビングのドアに背を預け、中の声を盗み聞く。聞こえて来たのは一花ちゃんの声。
やはり不安げな、しかし先生の優しさに甘えるようなごまかすような、どこかまだ余裕を孕んだ声音だ。
きっと先生が本当に怒っているわけではないと思い、形だけの謝罪で誤魔化したいのだろう。
「……いいや、私は謝罪の言葉が欲しいのではないよ。まず確認するが、私の言いつけを破ってあの部屋に隠れるよう言ったのは君か? それとも九十九か?」
そんな一花ちゃんの魂胆など一切合切すべて無視し、容赦なく詰める先生。
知っているくせに、わざといいわけの道を残すところがいやらしい。
「っ……え、ええと……」
今にも泣きだしそうな声。
先生の本気を感じたのか、一花ちゃんから余裕が消える。
きっと今、一花ちゃんの頭の中ではいろいろな葛藤が繰り広げられているのだろう。
俺に隠れようと言われたと一言いえば、自分が怒られることはないかもしれない。しかしその代わりに今度は俺が先生に怒られることになる。自分のついた嘘によって巻き込まれた俺の方が。
罪の意識は誰にとっても等しく自分の善意に牙をむく。大小はあれど。大人であろうと子供であろうと。
一度自分が悪いと自覚してしまうと、自分の善意を疑うようになってしまう。
そして自分の善意を、正義を疑ってしまうと、今度はその優しさを疑ってしまう。
そうして自分が信じられなくなって、最後に行き着くのは諦め。失望。放棄。
醜い自我を受け入れ、こういうものだと生きていくのか。若しくはこんな自分はイヤだったと、後悔ばかりを口にして、ずっと下を向いて生き続けるのか。
べつにそうはならないかもしれない。むしろたったこれだけのことで人生をあきらめるような結論になることはまずないだろう。
しかし、今のように自分の醜さを認めそうになった時。自分の醜さに気づいてしまった時。人は無意識にそんな未来を想像してしまう。この結果が向かう先が絶望ではないかと、つい最悪の想像をしてしまう。
怒られることはイヤなことだ。つらい事だ。自分の存在を否定されている気になるから。相手の感情がどうであれ、嫌われているのだと感じてしまうから。
しかし一度ここで楽な方に逃げてしまうと、この先自分を信じられなくなるのではないか。そうなったとき、その先自分はどうなるのだろう。分からない恐怖。
そもそもここで嘘を吐いても、それがバレてしまった時、もっと怒られるのではないか。
きっと今、いろいろな感情が一花ちゃんの中では渦巻いている。
しばらくの沈黙の後。
ぎゅっと目に涙をためて、一花ちゃんは――
「い……、いちかが……つっくんにここに隠れようって……っ」
いい子だなと思った。強い子だなと。
リビングのドアに背を預け、座り込む俺。知らずぎゅっと拳を握っていた。
そんな一花ちゃんを見て、先生は一言「そうか」と告げる。
「私がなぜ怒っているのか分かるか?」
眼光を鋭くし、決して一花ちゃんの目から逸らさずに、先生は厳しい口調のまま尋ねる。
どうでもいいけどこの人ちょっと前までおままごとで一花ちゃんと張り合ってたんだよな……。
「っ……ま、まおちゃんがダメっていったのに……、かってにおへやに入ったから……」
もう可哀想になってくるくらい弱弱しい声音。先生の機嫌をうかがうようにぼそぼそと震える声で言う。
「そうだな。しかし私は君が部屋に入ったから怒っているのではないよ」
ほんの少しだけ優しくなった声音。責め立てるのではなく、諭すような声だ。
「……え?」
それに一花ちゃんは首を傾げる。
「私は君が、なぜ私があの部屋に入らないでほしいと言ったのかを考えず、自分の感情を優先して身勝手な行動をしたからこうして叱っているんだ」
ぽんと涙を流す一花ちゃんの頭に手を添える先生。
「勘違いするな。私は君があの部屋に入ったから君を嫌いになって、君が嫌だから怒っているのではない。自分のやりたいこと、楽しいことを優先して他人の気持ちを考えなかった君の行動は間違っていたと、それを教えるために今話している」
「ほ、ほんと? いちかのこと、……嫌いになっんじゃないの?」
鼻水をすすりながら、一花ちゃんは先生を見上げる。
「こんなことで嫌いになんてなるわけないだろう? むしろ逆だよ。君のことが好きだからこそ、大切だからこそ君にはちゃんとした大人になってほしいんだ。君が誰かを傷つけないように、君が傷つかなくて済むように、相手の気持ちを慮れる人間になってほしい」
鋭い瞳は慈愛に満ち、厳しい口調は柔らかく、冷たかった胸はぎゅっと抱かれた先生の温かさに包まれる。
「いいかい一花? 人の心のうちをすべて知ることは難しい。……本当に、本当に難しいことだ。けれど、それでもなぜその人がそれを言うのか。その行動によって相手はどう思うのか。そうやって相手のことを考え続ける努力は、やめてはいけない。君のお母さんは君をとても心配していたよ? 君にとってはただ待つだけの時間は退屈で、ちょっと一人で冒険に行ってみたかっただけなのかもしれないけど、治療が終わって君がいないことに気づいた夏葉が君を探しているとき、どう思ったと思う?」
「ええと……」
言葉にはできなかったけれど、言葉の代わりに涙が一花ちゃんの目からこぼれる。
「きっと凄く心配で、私から連絡がいくまで気が気でなかっただろう。君が九十九に会った時に泣いていたのは不安だったからだろう? そんな不安で泣きじゃくる君を、きっと夏葉は想像していたはずだ。……実を言うとね。今こうして君がこの家で遊んでいるこの時間は、本当は私が提案したんだ。夏葉は今すぐにでも君を迎えに来ようとしていたけれど、それに無理を言って君を預かったのは私だ」
言いながら、先生は胸に抱く一花ちゃんの頭を優しくなでる。
もうその瞳にも声音にも、どこにも怒りの色はない。
先生の言葉を、どれだけ一花ちゃんが理解できたのかは分からない。もしかしたら子供には少し、難しい話だったかもしれない。
でも、
「もうすぐ五時になる」
ピーンポーン
その言葉を合図に、部屋のチャイムが鳴った。
「うわああああん。まあああまああああ」
獣のような声で泣きじゃくる一花ちゃんが、先生の腕の中から、母親の夏葉さんの腕の中に帰っていく。
その様子を廊下に背を預け、小さく手を振って送り出す。
一花ちゃんと同じくらい真っ赤に腫れた夏葉さんの両目を見て、母親の偉大さを知った。




