それでも俺は怒れない、の形
「それでは、まずは現在の依頼を確認するところから始めましょうか」
華さんが部室を去った部室で、一ノ瀬がそう切り出した。
時計の針は夕暮れが近いことを告げている。
華さんというイレギュラーな存在がいたさっきまでは存外普通に話せていたが、その彼女が去った今、部室には息苦しい空気が漂う。
その中で話を切り出した一ノ瀬は平素と変わらぬ冷静さを装ってはいるが、やはり相当な勇気を振り絞ったのだということが瞬きの多さからも見て取れた。
罪悪感からなのか成長なのか。はかりかねるところだが、しかしどちらであろうと俺たちの次の言葉は決まっている。
……俺はそう思っていた。
普段であれば俺たちはそれに話を合わせ、沈んだ空気を見ざる聞かざる言わざるの三猿でこの話を終わりにしたはずだ。
事実、俺はそうしようとした。
「まだ未解決の依頼というと、矢渡先輩を強くするって話と、さっきの華さんの文化祭の話か?」
「……ええ。後者はともかく前者は一度先輩と話を――」
「待ってください」
俺が普通に答えたことでいくらか肩の力が抜けた一ノ瀬がそのまま話を進めようとするのを、皇が思いのほか鋭い口調で制した。
聞き慣れないその強張った声音に、一瞬俺たちは言葉を詰まらせる。
「その話も大切ですが、その前に一つ、片づけるべき事項がありませんか?」
諭すような声音。
子供を叱るような、怒りではなく、悲しみではなく、もっと別の何かを孕んだ視線。
そんな皇の視線に、一ノ瀬は息を呑んだ。
俯いて迷子の子供のように視線を逸らし逸らしするその様子が、何とも彼女らしくない。皇と視線が重なる度、悲し気に眉根は下がり、そして盗み見るように俺の左腕へと視線をやってを繰り返す。
そんな一ノ瀬の様子を見ても、決して視線を逸らそうとしない皇。
「全治二週間だそうです。今回はたまたまそれだけで済みましたが、下手をするともっと重大な怪我になっていたかもしれません」
昨日、俺が診断された内容を簡単に伝える皇。一ノ瀬の表情がさらに強張った。
「普段から一ノ瀬さんは九十九さんに対して酷いことを言いますが、それは決してそのままの言葉があなたの本心ではないと思っているから私も九十九さんも笑っているんです。笑っていられるんです。あなたは本当は優しくて、九十九さんのことを本心から嫌っているわけではないと信じているから、私は一ノ瀬さんも九十九さんも、お二人のことがとっても大切なんです。大好きなんです」
「っ……」
皇の言葉に、一ノ瀬は何も言い返さなかった。
「お二人の間には確かな信頼があって、どれだけ言葉では酷いことを言ったとしても、通じあう何かがあるから壊れないのだと、私は今日までお二人といて、そう思っていました」
俺と一ノ瀬との間の信頼。
そう言われて、とくにピンとくるものはなかった。それはあくまで皇の主観なのだろう。
基本、一ノ瀬の言う俺への罵倒も暴言もだいたい事実だ。事実であるならば否定することはない。
通じ合う何かと言った時、一瞬だけ皇の表情に寂しさのようなものが見えた気がした。気のせいだったかもしれないが、俺と一ノ瀬との間で何か一つ共有する心があるとするなら、その本人である彼女がそう言うのならそうなのだろう。
「私はお二人が大好きです。お二人との時間が、この部活動の時間が、私はとても大切です」
――ですが。
そこで一旦言葉を区切った皇。
大好きの反義語であるのなら、続く言葉はほぼほぼ一つだ。
苦々しくぎゅっと目を閉じた皇の表情を見るまでもなく、母親に叱られて泣きじゃくる子供の様な表情の一ノ瀬を見るまでもなく、その次に続く言葉を俺たちは悟っていた。
……分かっていても、分かりたくないことはある。
だから聞かなかったことにして、言わなかったことにして、そっと目を伏せるのが人間だ。
けれど、本当の幸せを願うなら。本物の繋がりを望むのなら。決して逸らしてはいけない何かがあるのだろう。
「……私は、友人を傷つけるような人は大嫌いです」
一ノ瀬と皇の視線が一瞬だけ重なった。
泣きそうな顔で見つめ返す一ノ瀬。だが、最初の一滴を流したのは皇だった。
「っ……、大嫌いですっ」
再度告げられた拒絶の言葉。声が震えている。
ぎゅううっと心臓が締め付けられるような感情に襲われる。
こんな気持ちは始めてだ。
つい先日まで、この部屋で二人は笑いあっていた。
好きだと、大好きだと言葉は無くても、二人はお互いに心を通い合わせていた。
それなのになぜ、今「大嫌い」なんていう拒絶を示す言葉が皇の口から告げられているのか。
俺が悪いのだといつものように言ったとしても、きっと解決にはならないのだろう。
何もできないもどかしさに、知らず拳を握りしめていた。
「……わ、わたしは……っ」
一ノ瀬の声も震えていた。
涙が頬を伝って、それを必死に拭う姿が妙に子供じみている。
そんな二人の様子をどこか遠くから眺めながら、けれど俺の赤い瞳は乾いたままだ。
この中で、俺だけが何の覚悟も持たない。
傷つく覚悟も、傷つける覚悟も、何も持っていない。
だから二人のように涙を流せない。
「言い訳でもいいんです。なぜあんなことをしたのか、あなたの口から聞かせてください」
この一言のために、その小さな胸にどれだけの勇気を抱え込んだのだろう。振り絞ったのだろう。
そして思う。本来、その一言を言うべき人間は皇ではないのではないかと。
俺なのだ。
傷つけたくなかった。傷つけないと誓ったからだ。
痛みを知るのは俺だけでいいと思った。誰かの痛みを俺はどうすることもできないから。
その感情は間違いではないはずだ。
大切だから傷つけないことを望む。傷ついてほしくないと思う。
綺麗事だが至極当然の、正しい回答だ。お手本のような解答だ。
それなのになぜ、皇が泣いている? 怒っている?
これは俺と一ノ瀬との問題のはずだ。
加害者は一ノ瀬で、被害者は俺。
なのに何故、この場で一番怒りを抱いている人間が俺でも一ノ瀬でもなく皇なんだ?
「……わたしは……九十九君の、本当の実力が知りたかった……っ。彼は決して私たちに手をあげるようなことはしないけれど、……ああして無理矢理にでも抵抗するしかない状況に持ち込めば、彼の本気が見られると思った」
自分の心の中から言葉を探すように、ゆっくりと考え考えしながら一ノ瀬は語る。
「だからといって、怪我をさせるのはやりすぎだと思います」
「っ……ち、ちがうの! あれはっ………いえ、少し調子に乗ってしまった。本当は腕を拘束するだけのつもりだった。けれどあまりにも彼が抵抗しないからじれったくなって……」
小さな子供が母親に叱られているような光景。昔の母さんとまなみの姿を思い出した。
「私には正直、武道のことは分かりませんし、あなたのように勉強もできません。だからお二人がお互いにスポーツとして拳を交えていても、それを私に判断することはできません。ですが、今回のことはどう考えてもあなたのわがままです。もし九十九さんの実力が知りたいというのであれば、そう九十九さんに言うべきでした」
皇のお説教は至極真っ当で、一ノ瀬はただ黙って聞いている。
「もちろん言ったとしても九十九さんのことです。きっとまた適当なことを言って煙に巻こうとするでしょう。ですが、それでも今回のように無理矢理に勝負に持ち込もうとするのはただの暴力行為に他なりません。あなたの今回の行動を正当化することはできません」
一切の同情もなく、糾弾する皇。しかし言葉こそきついが、その表情はどこか悲しげだ。
「ごめん……なさい」
「私にではなく、それは九十九さんに言うべきではないでしょうか?」
弱弱しく謝罪の言葉を口にする一ノ瀬。しかし皇はまだ認めない。
「っ、その……、ごめんなさい。今回のことは私が全面的に悪かった……。わ、わたしにできることは……その、なんでもするからっ……、その」
言葉を詰まらせながら、赤くなった目を拭いながら、一ノ瀬はすがるような瞳を向けてくる。
皇からも視線を向けられる。
まるでこれから被告に罪状を述べようとする裁判官の気分だ。
お互いを傷つけあうことに、何の意味があるのだと、思わないわけではない。
嫌なことは忘れてしまえばいい。嫌いなことからは目を背けて、見ないようにしてしまえばいい。
そうすれば誰も傷つかず、いつもの作り物じみたぬるま湯の日常が続くのだから。
けれど誰もそれを望まなかった。
一瞬逃げようとした一ノ瀬も、自らの間違いに気づいて立ち上がった。
逃げ出さず、偽物をよしとしなかった皇は、きっとこの場の誰よりも強く正しい。
唯一、俺だけは望んでいた。ぬるま湯の関係を。もしかしたら、昨日のことには誰も触れず、俺の腕の回復をもってこの一件が時効になるのではないかと。
二人からの視線はまったく別の種類のもので、しかしその根本の部分が重なっていた。
きっと、俺が言うべき言葉はこれではないのだと心のどこかでは分かっていた。
分かっているのに、それでもやはり俺は選べない。
傷つけたくない。
酷く耳心地の良い言葉だ。
嘘だと分かっていて、欺瞞だと知っていて、偽物だと思いながら、それでもそれが正解だと嘯いて――
「いいよ。見かけほど大した傷じゃないし、お前は気にしなくていい。傷なんて、いつかは勝手に治るもんだ」
窓ガラスに映った自分の姿を見て、その完璧な笑顔が酷く腹立たしかった。
*
今日は解散となり、帰る前にコーヒーでも飲もうと屋上に立ち寄った。
いつものブラックコーヒーを購入し、ベンチに腰かけてカシュッとフタを開ける。
見慣れた屋上からの景色。
コーヒーの味というのは初めてのうちは苦味が強い気がするが、慣れてくるとその奥に甘みや酸味を感じ取れるようになってくる。その味の感じ方は慣れれば慣れるほど豊富になり、豊富になった分だけ好みの幅が増える。
好みが増えればその逆もまた増えるのは自明の理。平たく言えば、好き嫌いは好きが増えた分だけ嫌いも増えるものだ。新人の時は何も知らずいろいろ質問とかしてきて可愛がっていた後輩も、だんだん慣れてくると自分の意見を持ち出してめんどくさくなってくるという社会人あるあるも似たようなもんだ。まあ、俺は社会人ではないから知らないが。
本当に美味しいコーヒーを飲んだあと、缶コーヒーを飲んでも味気ない気がするのは仕方ない。
だから、慣れ親しんだ光景と慣れ切った苦味を同時に感じながら、それでも俺の心がこんなにも空虚なのは、きっと慣れてしまったからだろう。
知らずにいれば好きなままでいられたのかもなんてのは、弱い人間の常套句だ。
苦味に慣れてしまった俺には、甘みが少し際立っていたのだ。
少しベンチに腰掛けるだけのつもりが、いつの間にか随分と時間が経っていた。
手元の缶コーヒーはとっくの昔に空になっていて、無意識にへこませたりしていたのかあちこち凸凹している。
「やっぱり、君は逃げて来たんだね」
一人きりだと思っていた屋上で、急に背後からかけられたその声に一瞬びくりと身体がはねた。
「……華さん」
流石の俺もこんな風に虚を突かれては上手い返しが浮かばず、ただ目の前の女性の名を口に中だけでつぶやくことしかできなかった。
「相変わらず逃げてばかりだね、君は」
「っ……」
まるでこれまでの俺を観てきたような言葉だ。
そんなはずはないのに。けれどこの人にそんな風に言われてしまうとそれはまるで綾さんに言われているような気がして、俺は一瞬心が揺らぐ。
「逃げるは恥だがってやつですよ。恥の多い人生を送ってきた俺が逃げてばかりなのは当然でしょう?」
相変わらずバカなことを返しながら、俺はこの場をどうやって切り抜けようか考えていた。
誰にでも優しくどんなときも紳士としての対応を忘れないジェントルマンと噂の俺だが、苦手な人間というのはいる。
特に、目の前の彼女がそうだ。
適当言って煙に巻こうにも、さっと前に回り込まれて逃げ道を塞がれる。
記憶の蓋に無遠慮に手をかけては、けれど開けるでもなくただノックを繰り返す。
べつに嫌いだとかそういうわけではなく、ただどうしていいのか分からないのだ。表面ではなく、俺の本質を見抜こうとしてくる人間への対処の仕方が俺には分からない。
「あはは……。……そうやって心に近いことほど煙に巻こうとするところ、お母さんにそっくりだなあ」
ふいに華さんの口から出た彼女の名前に、自分の身体が強張るのが分かった。
当たり前だがこの人は綾さんではない。
どれだけ似ていようと、たとえ親子であろうと、まったく別の人間に変わりない。
それなのに、この人の口からあの人の話を聞くと、どうしてかあの人の存在がもうないのだと突きつけられているようで、つい耳を塞ぎたくなってしまう。
「コーヒー飲みますか?」
だから俺は話を逸らそうとベンチから腰を上げ、自販機に小銭をツッコみながら言う。
「おごってくれるの? なら、レモンティーがいいな」
「っ……了解です」
ポチっといつものレモンティーを購入し、ついでに自分の分の缶コーヒーもと追加で小銭を投入する。
「君はコーヒーでいいの? そういうところもやっぱり似てるね」
追い打ちをかけるように華さんは俺の買ったブラックコーヒーの缶をのぞき込んでくる。
「……まあ、苦さに」
「苦さに慣れておけば傷つかなくて済む。悲しみに慣れておけば悲しまずに済む。お母さんがよく言ってた言葉だね」
俺の言葉に重ねるように言って、華さんは「やっぱり似てるねー」となんでもないようにレモンティーの入ったボトルに一口くちを付ける。
っ……。
俺にしては珍しく。本当に珍しいことに、胸の内にわずかな苛立ちのようなものを感じていた。自分に対して抱くことはあっても、誰か他人に向けて抱いたことはあまりない。そういう類の、芯に近い感情のような気がする。
「俺に何か用があるんでしょう? ……逃げないのでさっさと用件を言ってください」
これ以上乱してくれるなと言外に伝える。あまりこういった感情に慣れているわけではない。感情とは行動に結びつく最初のプロセスだ。この感情が起因する行動を制御できる自信が完璧と言えない今、これ以上この会話を続けることは危険だと結論付けた。
「ふふ、君でもそんな顔するんだねえ。……うそうそ、冗談だよ。君を怒らせたいわけじゃないしね」
そんな俺の心中のいいわけなどお見通しと言わんばかりににっこりと微笑んだ華さんは、少し大袈裟に身を引いて、それ以上は踏み込まないと示してくる。
「さっき言ったこと、ちょっと訂正しときたくてね。てゆか、君の逃げ道を塞いどこうと思って」
勝手に俺の横に腰かけた華さんはレモンティーを弄びながら言う。
「依頼の内容のことなら、あいつらもいないと意味なくないですか?」
「違う違う、そうじゃなくて、その前に生徒会室で君に言ったことだよ。それにもし依頼の内容だったとしても、君に言えばそれで充分でしょ?」
「……まるであの部の依頼は全部、俺一人いれば解決できるみたいな言い方ですね?」
妙に引っかかる言い方に、じろりと睨むような視線を向けてしまった。
しかし華さんはそれを気にすることもなく、無視して話を進める。
「さっき私は君に雅ちゃんを見限らないでって言ったけど、やっぱり君には正しく伝わっていなかったみたいだね」
「そうですか? 俺はあいつが拒絶しない限りあいつを否定しないって理解で頷いたつもりだったんですけど」
具体的なことは聞かず、曖昧な理解のまま返事をしたからな。細かい事まで共有できていないのは仕方ない。
「君は優しいね。強くて優しくて、君ならきっと言葉通りの行動であの子たちを見守ってくれるんだろうね」
ふいにそんな風に言われて、なんと言っていいか分からず言葉に迷う。
そんな俺の態度にくすりと頬を緩めた華さんは、ふと真面目な顔をする。
「知ってる? 昨日、雅ちゃん、真っ青な顔して家に帰ってきたと思ったら、お風呂と夕飯を済ませたあとはそのまま部屋に引きこもっちゃって出てこなかったんだよ? 何にもないって言ってたけど、気になってしつこく聞いたら珍しく泣きついてきて。……あの子があんな風に泣いてるところ、ほんとに久しぶりに見たなあ。君に怪我をさせて皇さんに嫌われたーって」
思い出を回顧するようなまなざし。口元には笑みが浮かんでいる。
しかしその表情とは裏腹に、言葉一つ一つは重たく、俺に逃げ道を許さない。
「それ、どちらかというと俺に怪我をさせたことより皇に嫌われたってことの方に泣いてませんか?」
まあ、あいつにとって皇は唯一心を許せる友人だ。そんな彼女に拒絶されたとなれば、泣きたいほどの悲しみに襲われたって無理はない。
詰みを自覚したあとの無駄あがき。金、銀、飛車、角とられて王将一匹で逃げ回っている。
「そろそろ認めたらいいのに。君も諦めが悪いね。そういうことを言いたいんじゃないって、もう分かってるでしょ?」
もう飽きたよ?とでも言いたげな視線に、これ以上の誤魔化しは無駄なだけだと悟る。
「っ………はあ。あの一ノ瀬が泣いている姿なんて、俺には想像もつきませんね。……すみません、俺がもう少しうまくやれていれば良かったんですが」
いつまでも逃げ回るわけにもいかない。敗けは敗け。
いい加減受け入れて、正直な心のうちをのぞかせる。
「……きみは何も悪くないよ。悪いのは雅ちゃんだから。自分の気持ちも他人の気持ちも知らないのに、下手に君に甘えようとした。その結果君に怪我させちゃったなんて、我が妹ながらほんとバカな子だよね」
「っ!」
「ちょっ、ごめんごめん、ちょっと言い過ぎたね。だからそんなに睨まないでよ」
俺の目から冗談の色が消えたのを見て、華さんは慌てたように言う。
「君はあの子のことを許してくれたけど、私は、ほんとうは君に《《怒ってほしかった》》」
俺は間違ったのだと言外に言われている気分だ。もちろんそんなことは言っていない。
いま彼女が言っているのは彼女の理想であり、お願いだ。
「怒るほどのことでもないですから。こんなこと」
嘘ではない。
ほんとうにこんな怪我、放っておけばいつかは治る。ただ俺が耐え忍べばそれで済むのだ。
怒りなど抱くはずもない。
「君にとってはそうでも、まわりの子たちはそうじゃなかったんじゃない? キララちゃんは、それを君に伝えてたでしょ?」
見てきたように言う。
だいたいなぜそんなことまでこの人が知っているのか。皇と話したのは今日が初めてのはずだが。
「……もし俺が怒っていたら、どうなっていたと思います? 俺にはそれがわかりません」
本当に分からない。分からないことは素直に聞く。昔からそれだけは教わって来た。
言いたいことは分かるのだ。
皇にしろ華さんにしろ、彼女達の言いたいことは分かっているつもりだ。
あの場で一ノ瀬を許した俺の行動は、彼女のためにはならなかったのではないか。しっかりと怒って、叱って、彼女の行動を正すことが彼女のためになったのではないか。
皇が俺に代わって彼女を裁かなければ、きっと何も進まなかった。
俺もあいつも痛みから目を背けて、きっといつものぬるま湯に逃げていた。
だからこそ、俺の行動が間違っていたと言われるのは理解できる。
……ただ、
「間違いなく一ノ瀬を傷つけることになったはずだ。心にもない怒りをぶつけて、今の関係を壊して、あいつらの居場所を奪って。それに意味なんてあるんですか?」
それが分からないのだ。
だから正直、なぜ皇があれほどまでに一ノ瀬に怒りを抱いていたのか未だによく分かっていない。あいつも同じ思いだと思っていた。一ノ瀬を傷つけたくないという思いは、俺と一ノ瀬が皇の幸せを願うことと同じく、彼女と共有していた一つの心理だと思っていた。
俺一人が我慢すれば保てる関係に、壊れない優しさに、一体何の不満がある?
二人の居場所を守るためならどれだけ理不尽な暴力だろうと耐えられる。傷つけられても関係ない。拒絶されてもどうでもいい。
俺にそれを恨む理由も、資格もないから。
知らず自分の声が大きくなっていることに気づいた。いつになく熱量を持った声音。
「意味はあるよ。……意味はある。だって君があの子を怒ってあげないと、あの子はずっと変われないままでしょ?」
「っ……だからっ。変わらないならいいんじゃないですかっ⁉ 変わらないあいつのままで! 完璧な自分を貫こうとする一ノ瀬雅で!」
分からない。分からないことは怖いことだ。無知とは弱さであり、恥だ。分からないから自分が損をするのなら構わない。何も分からないまま誰かを傷つけ、そしてその傷つけたことにすら気づかないままのうのうと生きているという事実が、俺は一番怖い。
恐怖にも似た感情に、自分でも似合わないと分かる慌てたような声で華さんに詰め寄る。
そんな俺を、華さんはどこか遠くを眺めるような目で見ていた。
視線が重なる。
その目が一瞬、悲し気に揺れた。
「……そんな可哀想なこと、私には言えないよ」
「え……?」
意味が分からず聞き返す俺に、しかし華さんはすっと口元にあの怪しげな笑みを張り付けると、「んーん」と首を振ってごまかす。
「それに分からないならいいんじゃない? こんなこと、口で言って伝わるとも思えないし。何より自分で気づかないと意味ないしね」
よいしょっと可愛らしく言いながらベンチから腰を上げる華さん。大きく伸びをして、俺の前に回り込む。
左手に持ったレモンティーのペットボトルからは結露した水滴が滴っている。ぽつりとこぼれた一滴の雫がアスファルトの色を変えるのを見て、次の彼女の一言が最後だと悟った。
「俺がそれに気づけなかったらどうするんですか? 気付かないままあいつらを傷つけてしまったらっ」
だから最後に聞いておきたかった。
立ち去ろうとする彼女に手を伸ばすように問いかける。しっかりと立つわけでの座るわけでもなく、なんとも不格好な体勢。
人に何かを頼むという行為に慣れていない俺には、その中途半端な姿勢が精いっぱいだった。
きっと答えてはくれないのだと分かっていたが、それでも何かヒントをもらえはしないかと。
俺の問いに一度暗くなってきた空を見上げた華さんは、それからちょっとだけにこりと人好きのする笑みを浮かべると、
「――それでも私は、傷つけて欲しかった」
見慣れたはずの屋上の景色。
だからだろうか。彼女の声だけがやけに鮮明に聞こえた。




