ぬるま湯に広がる波紋、の形
九月も中旬になると、慣れていないくせにガッツだけはあるどこぞのナンパ師のようにしつこかった残暑もやっと諦めを見せ、クーラーなしでは耐えられなかったあの日々から遠ざかるように日に日に気温は穏やかになってきた。
いつもの特別教室棟の最奥。窓から吹き込む秋風に混じって聞こえる運動部の掛け声も、新学期に入ってすぐの頃よりも数段の成長が感じられた。
鼻孔をくすぐる濃くなった秋の香りは数か月前、桜の花びらをなびかせていたときと似ているようで、まったく違う。黄色く色付いた景色は確かな月日の経過を感じさせ、つい頬杖ついて窓の外に目を向けては――……
先の見えない現実からそっと目を伏せたくなる。
「……ねえ彼、正直に言って強くなってると思う?」
重々しく言った一ノ瀬はその視線を俺達に向ける。
あれから数日が経ち、お昼休みに体育館の隅を借りては先輩の稽古に付き合ってきたが、計三回目の今日の昼休みの練習を持って今の時点の先輩の成長を評価するのならば……。
「弱くはなってないと思うがな」
窓から視線を移して言うと、何が気に食わなかったのかキッと鋭い視線を返される。
ごめんて。だってそう言うしかないじゃん? 他に上手い言い方思い浮かばないし。
「で、でも初めての頃に比べれば成長しているんじゃないでしょうか?」
辛口評価で気まずくなりそうな空気を察してか、皇がわたわたとフォローする。
「そうね。最初に比べればいくらかマシになったわね」
…………。最近分かってきたが、皇の意見に続く一ノ瀬の言葉は大概信用ならない。そういえばこいつ最近、皇の意見を否定したことないな。
「確かにそれは間違いないが、それでもまだギリギリ慣れてきたと言える程度だ。先輩の目的が何なのか知らないが、試合に勝つにしても好きな子をめぐる拳と拳の語り合いをするにしても、今の時点ではまだまだだと言う結論だな」
出すべき結論は常に明確である必要がある。たとえそれが遠ざけたい事実だったとしても。
「……まあ、それが正直なところね」
静かになった教室。
もともと静かだったが、今は俺の人生のようなどうしようもなさを含む静寂だ。
「……というかあなた、本当はどれほどの実力なの? いくら先輩が弱いからと言っても、多少経験があるくらいではあれほど容易く受け流したりできないはずよ?」
話を逸らすためなのか一ノ瀬はそういえばと尋ねてくる。
いや、それならお前も大概だけどな。普通に部活で毎日練習している先輩に当たり前のように指導しているこいつも絶対おかしい。あと普通に弱いとか言っちゃうのは一ノ瀬さんの悪い癖ですね。もう少しオブラートに包んでほしい。オブラートってなんかちょっとあれな響きだな。
「定期的に飛んでくるお前の攻撃で耐性がついてんのかもな」
「私の技を受け流せることがそもそもおかしいのだけれど」
適当なことを言って煙に巻くと、一ノ瀬はジトリとした視線を向けてくる。だが俺に答える気がないと分かると、それ以上は言ってこなかった。ため息が心地いいです。
「……しかし、このままお昼休みの練習だけを続けていてもあまり成果はでなさそうね。効率も悪いし、やり方を変えましょう」
言うなり一ノ瀬は読んでいた本のページにかけていた指を栞に代えて、荷物をまとめ始める。
「どこか行くのか?」
「決まっているでしょう? 情報収集よ!」
口元に浮かぶ薄い笑みと好戦的にギラリと輝く瞳。
月日の変化は時に目を背けたくなるほど残酷である。しかし人の成長から感じるそれはどこか温かく――
やはり親バカはただのバカなのかもしれないな。
*
中庭を通って空手部のある第二体育館へと向かう。
季節によって色が変わるこの庭の景色は日に日に移ろいを見せ、『優美な貴婦人』を花言葉に持つカトレアや、九月九日の『菊の節句』を過ぎて鮮やかに咲き誇る菊の花が並ぶ花壇。不老不死を司る金木犀の独特の香りは『謙虚』という花言葉に似合わず存在感を感じさせる。金木犀には他に『真実の愛』という花言葉もあるが、俺は他の『陶酔』という言葉の方が好きだ。この香りを嗅ぐたびに俺は自分を戒める。
「フムフム、これってキンモクセイ……ですよね? なんだか甘くていい香りですね!」
一ノ瀬と先に教室を出たはずの皇がいつの間にか後ろにいた。
「お、おお、悪くないな」
香りを嗅ごうと身を低くしていた俺の寸前、ずずいっとつま先を立てて顔を近づけられ、近い近いと思わずのけ反って顔を逸らす。変などもった声になってしまった。
「んッ、なんですかその反応は? せっかくなかなか来ない九十九さんを気にして戻って来たんですから、もう少し何かあってもいいじゃないですか!」
近い近い近いいい匂いいい匂いいい匂い! 勘弁してください皇さん。いくら自称仏陀にもっとも近い男であるところの俺とて、耐えられる煩悩の数にも限界がある。そうだな、百八煩悩のうち八くらいはギリ耐えられると思う。正直者は辛いな。
「っ……消臭剤とかにも使われてるらしいからな。まあ、好みは別れるだろうがいい匂いだ」
言いつつ一旦皇から距離を取って意味もなく二〜三度首をひねる仕草をする。
「意外ですね。お花が好きなんですか?」
言いながらもその視線は俺ではなく、花壇で美しく整列する黄色い菊の花へと向けられている。
「そんなに以外でもないだろ? 俺は花が似合う男だからな」
心にもない冗談を返すと、むう~とその柔らかそうな頬をぷっくりと膨らませた皇だが、ふいに何がおかしいのかクスクスと笑い出す。
「もおー、なんですかそれ。……ふふっ、あなたのそういうところ、とっても面白いですねっ!」
ニコニコと白い歯を見せて笑う皇を見ていると、自然と俺も頬が緩んでいた。
秋の色で彩られる中庭の金木犀の下、俺達の間には笑顔の花が咲く。
俺にとって、花は一人で眺めるものだった。
花から感じる季節の移ろいは、不思議と嫌な気はしない。昔、あの何もない丘の上の墓で綾さんを待っている時間はただひたすら吾亦紅の揺れる姿を眺めていたものだ。面白いことに、地味で面白みのないあの花は彼の俳人、小林一茶が「吾亦紅さし出て花のつもりかな」と読んでいるように、たくさんの俳人に愛されていたらしい。あれでバラ科の植物らしいからな。詐欺もいいところだ。
このように、少し聞きかじった程度の知識でも、見える世界は結構変わるものだ。何気ないいつもの風景が途端に色づいて見える。暇つぶしには最適だ。
「ちょっと、あなたたち何をしているの? 私一人で体育館に着いたときの異物感たらなかったのだけれど?」
非常に不機嫌な足取りで体育館の方から歩いてきた一ノ瀬がむすっと拗ねたように唇を尖らせて言う。
「あ、すみません一ノ瀬さん。すぐに戻ろうと思ってたんですけど、思いのほかお花を観察するのも楽しくて……」
えへへへと頭の後ろに手を当てて甘えるように笑う皇。
「っ……そ、そう。なら仕方ないわね。何を見ていたの?」
凄い。というかちょろい! さっきまでの怒りはどこへやら。ころっと絆された一ノ瀬は言ってさっきまで皇が見ていた菊の花へと視線を移す。
「綺麗でしょう? 同じ花なのに色がたくさんあって、なんだか見ているだけで楽しいです」
「そうかしら? たしかに美しいとは思うけど、なんだかこうして整列された姿は作られた美という感じで少しわざとらしく感じるわね」
こいつ……。怖い。怖すぎる。
一ノ瀬の感想に一瞬で場の空気が凍り付いたが、恐ろしいことに本人はまったくそれに気づいた様子はない。何の悪気もなく言っているところがまた怖い。
いつもいつでも正直に、思ったことを思った通り裏表なく言えるところはこいつの美徳だが、正直者はときに人を傷つける。というか主に俺を傷つける。
「やめろ皇。そんな可愛い顔で見つめられても俺にはこの空気をどうすることもできないぞ? そういうのはお前の役目だ」
俺は皇からの救いを求める眼差しを無視して花の鑑賞を続けようとミツバチになった気分できょろきょろと辺りを見回す。
「ちょっと九十九君、いつまでも花なんて眺めていないで早く体育館に向かうわよ。もともとそのために外に出たのだから」
あっちへふらふらこっちへふらふら、どっちのみ~すが清いかな、としていた俺の腕をひねり上げた一ノ瀬は苛立ったように言って―――……え?
「いてててててば、バッカお前おれるって! ちょっ、人間の腕はそっち側には曲がらなあいててててててて! ちょっと一ノ瀬さん⁉ ちょっ本気で折れるって! おい! 一ノ瀬さーん⁉」
本気で痛い。マジで痛い。シャレになんないくらい痛い。語彙力死んじゃってただただ一ノ瀬の名前を叫び続けることしかできないくらい痛い。
「大丈夫よ。腕の一本くらい安いものだから」
「ふざっけんっあああああっ! ふざけないでください一ノ瀬さん! お前のそれはお前の中での俺の腕の価値の話だろ! ちょっやばいって! ほんとのほんとに折れちゃうから! 新しい関節出来ちゃうから!」
なんの躊躇も遠慮もなく俺の腕を全力で反対方向に捻り上げて、そのまま体育館に引きずって行く近海の主であるところの一ノ瀬さん。
不味い不味い不味い不味い。シャレや冗談ではなく本当に不味い。……あ、今左手の先っちょがピキッて鳴った。もう半分くらい感覚ないから分かんないんだ(テヘ)。その証拠に、見る限りではさっきからちょんちょんと当たっているはずの一ノ瀬の胸の感触はまったくしなだあああああああああああああ! なんかさっきより締め付けがきつく……
「ちょっ、大丈夫ですか九十九さん⁉ あの一ノ瀬さん、そろそろほんとに九十九さんが壊れてしまうんじゃ」
「大丈夫よ。私は九十九君を信じているから」
心配する皇にもう本当になんでそんな顔ができんの?って純粋に聞きたくなってしまうくらい爽やかに言った一ノ瀬さんは、にっこりと微笑を浮かべる。
「バカじゃねえの⁉ ねえっ、ホントにお前バカじゃねえのっ⁉ 無理だって! 折れるって! というか俺じゃなかったらもうとっくにポッキリ逝ってるって‼」
正直に言えばこのまま一ノ瀬の拘束から逃れることは簡単なのだ。油断していたため抜け出そうとすると少し強引な手段に出なければならなくなってしまうが、このまま何とか体勢と立ち位置を変えてギリギリで一ノ瀬のかけてくる力を和らげ続けるのが精いっぱいの現状から抜け出すだけならば造作もない。ただそれを実行してしまうと、俺は多分後で自殺することになるというだけだ。
「ふふふふ、まだよ、あなたならまだ上に行けるわ。大丈夫。これは修行よ。あなたが先輩に稽古をつけるのなら、あなたもそれ以上の技量を身に付けないと」
「嘘つけお前ちょっと楽しんでるだろ⁉ というか体育館に行くんだろ⁉ こんなじゃれてる暇ないって言ったのはお前じゃなかったか⁉」
「少しくらい遅れても問題は無いわ。空手部の練習風景を少し観察できればいいのだから」
「嘘つき! 言ったじゃん! 早く行くわよってお前言ったじゃん!」
わめく俺を無視して、一ノ瀬はほんとに君人間? 悪魔から魂買い取った魔王じゃないよね? ってくらい一切の手加減なく俺の腕を絞め続ける。
「ふふ、……ほら、いい加減本気を出さないと本当にあなたの腕が使い物にならなくなってしまうわよ? それともあなたの実力の底はこの程度なのかしら?」
上機嫌に笑っていた一ノ瀬の表情がすっと冷めたかと思うと、まるで今この瞬間、本当に武道の大会で試合をしているかのような真剣な目で言う。挑発的な口調とは異なり、触れあう個所から伝わる圧力は力強く、隙の無い身体運びは本物で、いつ俺が拘束を解こうと抵抗したとしても対応できるように神経を張りつめているのが分かった。
「お、お前……っ」
うめき声ともつかない声をあげる。不意を突かれ、一瞬身体が強張った。その拍子にそれまで絶妙な身体運びで拮抗を保っていたパワーバランスが崩れ、まずいと思ったときには俺の腕は反対に曲がっていた。………え?
「っぐあああああ」
「っ……! ちょっ、ちょっと一ノ瀬さんっ⁉」
デロンと肩から垂れ下がった腕を見て、皇が悲鳴にも似た声で一ノ瀬の名を叫ぶ。
「ッ――‼ え……なんで……っ、ごめっ……ごめんなさい……っ」
手ごたえの無くなった俺の腕と皇の慌て声から事の重大さを理解した一ノ瀬は、はっとした表情で、ぱっとすっかり力の入っていないか細い腕を力なく垂れ下がる俺の腕から離す。ぎゅっと腕を抱くような仕草で瞳を揺らした彼女は、怯えた子供の様な表情で謝罪の言葉を口にする。酷く弱弱しい、いつもの一ノ瀬雅らしくない姿だ。
「……ッ、だ、大丈夫だこのくらい。じゃれあいの範疇、よくあることだ」
失敗した。
真っ先に思い浮かんだのはそれだった。
予期せぬ痛みに思わず大袈裟に声を上げてしまったが、必要以上にこいつらを不安にさせてしまう結果になった。
「だ、大丈夫って……一ノ瀬さんっ! いくらなんでもやりすぎです! さすがに怪我をさせてしまっては!」
「いや、いいんだ皇。大丈夫だ、この程度なら自力で何とかなる」
「っ! ……っ、あなたはどうしてそんなっ」
痛みに歪みそうになる顔を無理矢理に引き攣らせて、いつもより数段明るい声で言って一ノ瀬に詰め寄る皇を手で制する。
そんな俺を見て酷く辛そうな表情の皇が今にも泣きだしそうな声を上げる。ぎゅっと握った手のひらは震えていて、俺はその感情を前にも見たことがあるような気がした。
「一ノ瀬も、あんま気にすることないぞ? むしろいろいろ美味しい思いができて、俺的にはプラマイプラスだからな」
そのまま一ノ瀬に向き直って、いつも通り軽口を叩くが、当然その表情が和らぐことはない。
目元がぎゅっと揺れ、息を詰まらせて唇をかみしめる姿は後悔の色に滲み、その姿を見ているとなんだか俺の方が酷いことをしている気分になる。
キッと普段の彼女からは考えられない怒りを孕んだ鋭い視線を最愛の親友から向けらる一ノ瀬の心境は、どうしてか痛いほど伝わって来た。
場に漂う身を裂くような沈黙は誰も幸せにはしないものだ。それなのにどうしてかそれをどうにかしようと口を開くことは誰にもできなかった。
もう空手部を訪れるどころの話ではない。それどころか、このことが二人の関係に負の効果をもたらすことは明白だった。
もしかしたら、いや、本当であれば。この場合の正解は、もしかしたら糾弾なのかもしれない。一ノ瀬が何故今日に限って俺の腕を絞め挙げたのかは分からないが、やったことは暴力行為だ。俺が訴訟すれば、ほぼ間違いなく罪に問われるだろう。その意味では皇の反応はきっと正しい。人を傷つけ、非難されるのは社会の法則。もしこれが俺でなく赤の他人であったなら、こいつは取り返しのつかない愚行を犯したことになる。であるならば、俺もまた今後の彼女のことを考えるのなら、皇同様非難するのが彼女のためなのかもしれない。
だが、甘いと言われるかもしれないが、それでも俺は一ノ瀬を責め立てようとは思わなかった。むしろ俺が気を抜いたことでこいつを傷つけてしまったことに、酷く後悔していた。
「悪いが、今日は俺先帰るな。ほんと気にしなくていいぞ? 明日には治ってると思うし」
できる限り明るく言ったつもりだ。根が暗いのであんまり意味はないかもしれないが。
「で、では私が病院に同行します!」
すぐにその場から去ろうとする俺の前にさっと現れた皇が、ずいっと身を乗り出して言う。
「いや、一人でかまわな」
「ダメです!」
「っ……、わ、分かった。ならよろしく頼む」
絶対に認めません、といつになく強気に言われ、断ることをあきらめる。
「あ、あの……」
「一ノ瀬さんは空手部の観察をするんじゃないんですか? 部室の戸締りもありますし、あとのことはお願いします」
「っ……あ……」
いつもの柔らかく懐いている猫のような態度とは全然違う。義務連絡のみの硬い声音で言われ、一ノ瀬は視線をさまよわせあうあうと所在なさげに戸惑っている。
「…………。悪いがあとは頼んだ。また明日な」
言うべき言葉が見つからず、定型的な決まり文句を音に出して、そっとその不安ににじむ瞳から視線を移す。
立ち尽くす一ノ瀬に背を向けて、金木犀のあまい香りの中を皇と並んで歩く。
今、彼女がどんな表情でいるのか、それは俺には分からない。俯いているのか、こちらにすがるような視線を向けているのか。あるいはそのどちらでもないかもしれない。
隣を歩く彼女を見る。
唇をぎゅっと噛み、俯いた視線。前髪に隠れて見えないが、ぽつりとこぼれた雫は、夏の暑さが原因だったらいいなと思った。
「……ごめんな」
何の意味も持たないどうしようもなく空っぽの言葉をつい口にする。
その言葉に、返ってくる声はない。
あれだけ色づいて見えた中庭の景色が、今は何も感じられなかった。




