新しい風、の形
九月は秋だ。というか、夏だ夏だと言っていたが立秋は八月にあり、そこから十一月の立冬までが暦の上では秋とされている。
そんな細かいことを一々気にする必要はないが、とにかく秋は良い季節だ。
秋は涼しく過ごしやすい季節で、旬の食材は豊富、景色も美しく、何より変化がない。これがいい。春はまだ新しい環境に慣れず慌ただしく、夏は暑いし冬は寒い。その点、何の変化もなく、ただ穏やかに日々が過ぎ去る秋は心安らぐ季節だ。
とはいえ、暦の上では一月近くも前に秋になってはいるものの、しかし夏の残暑は未だしつこく停滞している。木々の青葉もまだまだやれるぞとばかりに青々としており、身を刺す日差しは強く、室内にいてもエアコンのリモコンを手放せない。今月でエアコンの使用期間は終わるらしいが、果たしてあと数週間で何とかなるものだろうか。そういえば、十月の体育祭までは夏服で過ごしてもいいらしいが、教室内では偶にブレザーを羽織っている生徒もちらほらみかける。教室のエアコンって寒いからな。誰が設定しているんだろうな。ついていると寒いが使えなくなると暑い。面倒な季節だ。
テニスコート側の窓からパンだかポンだか分からないあの軽快な音に混じって「せー」だの「らあッ」だの威勢の良い掛け声が聞こえる。夏休みもほぼ毎日のように聞いていたはずだが、やはり季節が違うからなのかその声は違って聞こえる。
部活動といえば、そういえばそろそろ世代替えの季節か。これまでまったく考えたこともなかったが、そう思えばこそ今耳に入る耳慣れない掛け声も秋風の一つということか。
「そういえば、クラスの出し物ってもう決まった?」
静寂の中、それまで珍しく皇と話をするでも勉強するでもなく静かに本を読んでいた一ノ瀬が何の脈絡もなく言った。
一ノ瀬の声に俺達は静寂で答える。
「…………」
先ほどまでの静けさに居心地の悪さが追加されたこの空気はどうしたらいいものか。最後の一仕事とばかりにブォーっと作動するエアコンの音が耳障りだ。……てか、なんで窓開いてんのにエアコンついてんだ? あれか? 換気か?
「………ッ」
じわじわとその白い頬が朱色に染まっていくさまは、一足早い秋の絶景を思わせる。
「っ……なぜ誰も何も言わないのかしら?」
こらえきれないと、ぼそりと唇を尖らせる一ノ瀬。
「? 皇に話しかけたんじゃなかったのか?」
てっきりいつも通り皇に話を振ったのだとばかり。一ノ瀬から話しかけられることなんて本当に数えるほどしかないからな。
「私と皇さんは同じクラスなのだから、クラスの出し物を尋ねるのはおかしいでしょう?」
そう言われればそうだな。あまり深く考えていなかった。というか、クラスのことについて聞かれることなんてほとんどないから、まずその思考に直結する回路がそもそも俺の中に存在しなかった。
「なんだったか。……たしか結局、多数決でお化け屋敷になったはずだ。でも人手が余ったからって、集客のために、もし許可が下りればステージイベントで何かの劇をやるって言ってたな」
俺は思い出し思い出ししながら答える。あの後の話し合いでも演劇やステージパフォーマンスなどの案が出たぐらいで、特に真新しい案は出なかった。
「お化けですかっ⁉ いいですねえ! 私お化けって見たことないです」
いや、見たことある奴の方が少ないと思うけどな。
「まあ、まだやることが決まっただけで、どんな風になるかとかは分からないけどな」
役割分担まで終わったところでチャイムが鳴り、具体的な話し合いは次回以降に持ち越しとのことだ。
「あなたは何の仕事をもらったの?」
興味を持ってくれたらしい一ノ瀬が首を傾げる。
それに俺はニヒルな笑みを浮かべると少しだけ得意げに。
「……総合業務担当者の任を仰せつかったな」
「よく分かりませんが、なんかカッコいいですね!」
目をキラキラさせて期待の眼差しを向けてくる皇。
ちょっとだけ視線を合わせづらくなった俺は、その視線を窓の外の木々に向ける。
「まあ……、別名、余剰業務引き受け係とも言うが」
「?」
首を傾げる皇に、「それって……」と一ノ瀬が呆れたような声で、
「要はただの雑用じゃない」
まあ、そういうことだな。一ノ瀬の頭を抱えるような仕草を見て、皇はいろいろと察したのか「あ、あはは……」と曖昧な表情で空笑いする。
期待させちゃってごめんね? でもほら、俺、多分結構知らんけど、こういうのきっと向いてると思うんだ。ボロ雑巾みたいに使い潰される未来をいつも想像してるから! そんで枕濡らしてるから!
「二人のクラスはどうなんだ? 何かやるのか?」
「「っ!」」
言うと、なぜか二人は同時に声を詰まらせた。
二人で顔を見合わせ、ちらちらと俺に視線を向けてくる姉妹。こうしてみると本当にそっくりだ。出会った頃はそんなに思わなかったんだがな。
「なっ……、なんでもいいでしょう!」
「でっ、ですね! 本番でのお楽しみです!」
わたわたと何かを誤魔化すように愛想笑いを浮かべる皇と、そもそもそれ以上踏み込んでくるなと誤魔化すことすらなく拒絶する一ノ瀬。同じようなことを考えているはずなのにこうも反応が違うのはなかなか面白い。
二人がそう言うのならまあ、気にしないでおこう。どうせそのうち耳に入ることもあるだろうし、何よりここで聞き出したところで、まだまだ文化祭までには時間がある。
「この部ってなにか出し物とかやるのか?」
だから俺は話題を逸らそうと、手元のペットボトルを弄びながら尋ねる。いつもいつも来る前に屋上で飲み物を購入しているのだが、夏休み中いちいち外に出るのが暑くて面倒だという意見の一致により、順番にみんなの分を購入してくるということになった。今日は一ノ瀬が買ってきてくれたのだが、俺の分はなんの色もないただの水。屋上の自販機で一番安いやつだ。……健康に気を遣ってくれてるのかな?
「? やらないわよ? というか、やったとしても何をやるの?」
きょとんと心底不思議そうに首を傾げられてしまった。
「……何をやるんだろうな?」
俺も特に何か考えていたわけではないので質問に質問で返す。
「わ、わたしに言われても困りますが……。……あれ? そういえばこの部って何をする部なんでしたっけ?」
巡って来た視線に慌てる皇だが、真面目に考えようとしてふと小首を傾げる。そしてうーんうーん一つ二つと唸ったところで、そういえばと俺達に問う。
「っ。え、ええと……」
その質問に一瞬ぎくりとしたのは俺だけではなかったようで、困ったようにいじいじと耳にかかる長い髪を弄ぶ一ノ瀬。たいやきくんのように泳いでいるその目は自然と俺に向けられる。
……たしかボランティア活動だの生徒の困りごとだのの相談などと入部したときに説明を受けた書類には羅列されていたと思うが、この部に入部してから一度もきちんと活動した記憶がない。一応皇のときや村崎さんのときなどに働いたような気もするが、この頃は具体的な活動は何一つしていないので返答に困る。
「あ、あれだ。生活――」
と、俺が必死に絞りに絞り出した回答を伝えようとしたところで、ノックもなく教室のドアが力強く開けられた。
「失礼します! 育才部ってここですかっ!」
うるさい。
何よりも先に思い浮かんだ言葉はそれだった。一ノ瀬なんて思いっきり顔しかめちゃってるし。なんでこいつ初対面の相手にいつもこの顔すんの? あれか? 猫か? ネコ科? ……というか、初対面ではないはずなのに俺も偶にされるな、その顔。むしろあれがこいつのデフォルトなのかもしれない。
「……そうだけど、何かご用ですか?」
ドアの前に立つその生徒を観察しつつ答える。
小柄な体躯。長いまつげと大きな瞳。幼さの残るあどけない顔立ち。短くさっぱりとした髪が幼い印象を受ける。
「はいっ! 困りごとの相談に乗ってもらえるってきいたんですけどっ!」
一々声を張って言うその仕草は鬱陶しいくらいなのだが、しかし頑張っている小動物を見ているようでなかなか愛嬌がある。
「ああ、その前にもう少し声小さくしてくれないか? ちょっと室内じゃうるさい」
とはいえ、いちいちそんな大きな声でしゃべられては会話にならない。
俺が言うと、
「あっ、すみません! つい癖で……。こ、このくらいですか?」
慌てたように言って声をすぼめる彼は、若干の上目遣いで言う。不安げに揺れる目がなんだか照れくさい。……いや、男なんだけどな。
「相談に来たのか? それならとりあえずそこの席に座ってくれ」
言って手で席を示すと、「は、はい」と緊張した様子で言って腰を下ろす。
「え、えと……」
座ったまま、どうしていいか分からないのか、助けを求める様にきょろきょろと視線を泳がせる。
妙な沈黙。せっかくなので……と二人を見るが、一ノ瀬は本の適当に開いたページを凝視しているし、皇はぎこちない笑みを浮かべている。やはり俺が話すしかないか。
「で――」
俺が話を聴こうと口を開こうとしたそのとき、「……では」と俺の声ではない、小さな声ではあったが確かな前置きが聞こえた。
「自己紹介をお願いできるかしら?」
驚いてそちらを見ると、一ノ瀬がさっきまで読んでいるふりをしていた本を閉じて彼の方を向いている。その姿に驚いたのは俺だけではなかったようで、隣の皇も目を丸くしていた。
「二年の矢渡武っていいますっ。この部に来たら困ってることを解決してくれるって聞いたんだけど……」
……先輩だったのか。下手したら中学生くらいに見えるが。てか、見た目に反して『武』って名前カッコいいな。
一ノ瀬に言われ、礼儀正しく名乗った先輩は、不安げな瞳でそう尋ねてくる。
「まあ、おおむねそれで合っています。私は部長の一ノ瀬です。こちらが皇さん、そしてこちらが……? あなた誰? 部外者は立ち入り禁止よ?」
「さっきまで話してたはずなのにお前の目には何が見えてんだよ。というか、分かり切ってる嘘をなんでそんな真顔で言えんの?」
泣いちゃうよ?と目元を拭う仕草をすると、一ノ瀬はふっとその口元をほころばせる。
「……失礼、彼は九十九くんです。以上三名がこの育才部の部員です。この部は主に生徒の学校生活支援を行うもので、先輩のおっしゃっていた通り生徒の悩み事などの相談やその解決に努めます」
どこのテンプレ文句だよ。顔も若干強張っているし、声音もカチカチだ。
とはいえ硬すぎる文面だが、以外にも一ノ瀬はきちんと話せている。そういえばこうして一ノ瀬が知らない誰かと話している姿は初めて見たな。
一ノ瀬が「では相談をどうぞ」と続けると、一瞬ぐっと息を呑んだ先輩はあっちへこっちへ視線をさまよわせた後、覚悟を決めたようにぐっと唇をかみしめ、
「実は――」
つまりはこういうことだった。
先輩は意外なことに空手部の主将で、つい先月三年が引退したのだが、二年が一人しかいなかったため先輩が主将を務めることになったらしい。それはいいのだが―――……
「要は、先輩を強くしてほしいってことですか?」
言うと神妙な面持ちでこくりと頷く。なんだそれ。小動物っぽくて愛でたくなるんですけど?
「ぼく、中学はいってから空手始めたんだけど、ぜんぜん強くならなくて。二年生だからキャプテンになっちゃったけど、正直ぼくが一番弱いんだ。それに今年入って来た一年生にすっごく強い子がいて、ぼくなんかよりその子の方がって思っちゃったり……」
言いつつ、来た時とは違い弱弱しい声音でだんだんとその視線が伏せられていく。儚さを孕んだその瞳からは諦めのようなものを感じた。悔しさというか対抗心というか、そんなものはあまり感じない。
「強くなったら、何か変わるんですか?」
だから俺は聞いてみた。何のために強くなりたいと願うのか。何のためにここに来たのか。
「っ……分からないけど、……でも、弱いままじゃ嫌なんだっ!」
その声は決して大きくはなかったが、たしかに部屋中に響き渡った。歯を食いしばるその表情は悔しさに歪んでいる。ぎゅっと握られた拳を、一ノ瀬は静かに見ていた。
そしておもむろに口を開く。
「分かりました。ではさっそく明日から修行に入りましょうか」
一ノ瀬の言葉に俺達は頷く。修行って単語をまさか現実で使う日が来るとは思わなかったな。
それから一ノ瀬が先輩と日程の調整について話をしているのを俺達は特に口を開くことなく、手持ち無沙汰にただ黙って二人の会話を聞いていた。
「ふふっ、なんだか初めてちゃんとした部活動ができますねっ!」
何が嬉しいのか、言って笑顔を向けられる。
「これまでも一応部活は来てたんだけどな……」
そう返しつつ、俺も皇同様少しだけ楽しみに思っていた。
*
翌日のお昼休み。第二体育館の道場では先ほどからバタンバタンと先輩が床を転がる音が響いている。畳の上、真っ白な道着に巻かれた申し訳程度の黒帯があっちへこっちへ転がる様子は、なんとも違和感がある。
「…くっ……もう一回っ! もう一回お願い!」
言って今日何度目かになる再チャレンジを試みる先輩。空手の道着に身を包み挑みかかっていく先輩とは対照的に、体操服に身を包んだ一ノ瀬の一挙手一投足には無駄がなく、一切の隙も無く構える様子は完成されていると言っていい。
「たああっ!」
「……フッ」
「っ⁉」
形にはなっているものの、やはり無駄な動作の多い大振りな突き。それをこともなげに最低限の動作でいなした一ノ瀬は、その勢いのまま先輩を転がす。
「あいてててっ……も、もう一回っ!」
体勢を崩して畳みに倒れた先輩は腰をさすりながら立ち上がり、またも無防備に突っ込んでいく。何度も立ち上がる姿は立派なのだが、考えなしに繰り返したところでいつまでも一ノ瀬には勝てない。いや、べつに一ノ瀬に勝つ必要はないのだが……。
また同じように作戦もなくつっこんでは軽くあしらわれる先輩の様子を眺めていると、なんだかちょっとかわいそうになってきた。というかだんだんと一ノ瀬の眉間に皺が寄ってきているし、このまま続けてもあまり意味はないだろう。うっかりイラっとした一ノ瀬が怪我を負わせる可能性も十分に考えられる。いや、考えられちゃだめだろ。
「……先輩には悪いが、これは少しレベルが違いすぎるな」
そんな二人の様子を隅っこで座って眺めていた俺だが、このまま続けてもあまり意味はないと判断し、そう一言つぶやいて二人の間に割って入る。
「ストップストップ。一度休憩しませんか?」
言うと、二人は構えを解いてこちらに視線を向ける。
「ハア……ハア……っ、う、うん。ありがとうございました」
滴る汗を拭って息を整えた先輩は律儀に礼をして畳から下りる。それに皇が先ほど購入してきたスポーツドリンクと汗を拭くためのタオルを渡している。
「どうだ? お前から見て、このまま修行していれば先輩は強くなりそうか?」
勝手に休憩を取って悪いなと言外に伝えつつ、意見を求める。
俺の見た限りではこの練習ではあまり効果がないだろうという結論に至ったが、実際に手合わせしていたのは一ノ瀬だ。外から見るだけでは分からないこともあるかもしれない。
「そうね、このまま何年も同じ練習を続けていればそのうち慣れてくるかもしれないわね。継続は力なりという言葉があるように少しずつ少しずつ、今は形には見えなくとも続けていればいつか形になっていく可能性はあるわ。もっとも……」
そこで一つ言葉を区切ると、
「どれだけかかるか分からないし、それに付き合うつもりは私にはないけれど」
言って一ノ瀬はちらと先輩たちの方を見る。皇に励まされ、先輩は曖昧な笑みを浮かべている。
「でもそれじゃあ依頼は達成できないが、どうする?」
俺もそちらに視線を向けつつ、つい試すような口調になってしまった。キッと視線を細められる。ひいいっ、蛇に睨まれた哀れな蛙であるところの俺はすぐに降参ですと両手を挙げる。……なんか俺カエルばっかりだな。あんまり根性はないんだが。ピョコン ペタン ピッタンコ――
「……もちろん、やり方を変えるしかないでしょうね。私たちがいつまでもこうして練習に付き合えるわけでもないのだし」
思案するように言って目を伏せ、考え込む一ノ瀬。
先輩を強くするという依頼だったが、まずは目標を設けるべきだったな。どのくらいのレベルまで強くなれば依頼は達成になるのか。たとえば誰かに勝ったらとか、何かの試合で優勝したらとか。そういう目標をまず先輩から聞き出すのが本来まず始めに取りかかるべきプロセスだったのが、それをする前に実戦練習を始めてしまった。
それを一ノ瀬に伝えてしまうのは簡単だが……滅多にない部活の機会。部長である一ノ瀬のやり方にまかせてみよう。
休憩を終えた先輩が戻ってきて「お願いします!」と一礼して畳に入ろうとするのを一ノ瀬はとめる。そして俺達を一か所に集めると、ふむと腕組みして考えをまとめるように言う。
「さっきので一通りの実力は理解しました。おそらく先輩の弱点は対戦経験の浅さにあります。それが必要以上の恐怖心の原因となり、身体が強張ることで重心の偏り、踏み込みの弱さ、その他集中力の低下などに繋がっていると考えられます」
つらつらと問題点を挙げる一ノ瀬。先ほどの手合わせだけでそこまで先輩の実力を見定めるとは大したものだ。まあ、あれだけ実力差があればむしろ手加減する方が難しそうだが。
「そ、そうだよね」
一ノ瀬の挙げた問題点には先輩も気づいていたらしく、言って落ち込んでいる先輩。なんとなく頭を撫でたくなったが、絵面的にちょっときもいのでやめておく。
「でもそれってすっごく難しくないですか? 相手によっても変わりますし、そもそも性格が向いていないということもあるかと」
「お前にしてはとても鋭い意見で驚きを隠しきれないが、たしかに皇の言うことはもっともだな」
スポーツ、特に格闘技において性格や相性はとても重要だ。どれだけ技を極めていても、結局相手を攻撃できなければ敗けてしまう。技の型のみを評価するのであれば問題なく合格点をもらえるレベルなのだが、実際の強さを競う対戦をするのならやはり精神面で先輩はこの競技に向いていないように思う。
「私にしてはってどういうことですか⁉ 私は普段から鋭い視点で意見を述べていますよ! ですよねっ、一ノ瀬さん!」
「え? え……ええ、そうね。そうかもしれないこともないわね……」
皇に詰め寄られ、一ノ瀬は視線をあっちへこっちへ巡らせながら曖昧な笑みを浮かべる。やめろ。その視線を俺に向けるんじゃない! 何とかしなさいと言われてもごめんなさいとしか言えないぞ。
「外から見てて思ったんですが、先輩の場合、攻撃の瞬間、無意識に必要以上に力を弱めてしまっていて、そのせいでバランスが崩れて不格好な形になっていますね。よければ一度俺と手合わせしてみますか? 女の子が相手ってのも多少あると思いますし」
一ノ瀬からの恨みがましい視線から逃れるように真面目腐った調子で先輩に言う。
というかもしも先輩が女子相手に本気で殴りかかれるような人間なら、そもそも俺が始めから相手をしている。実力差があるから許容しているが本音を言えばあまり危険なことをしてほしくはない。……いや、この思考はダメだな。量は毒なり。こんな感情は毒親の始まりだ。俺はべつに二人の親でも何でもないが。
「私は構わないけれど……、あなた、武術の経験なんてあるの?」
その視線は「だってあなた弱いじゃない?」と舐め腐っているのがよく分かった。おのれ……。あらためてそう言われると悲しいところだ。
「そりゃお前に比べれば物足りないかもしれないが、空手は一応経験がある。流派どうこうと言われると難しいが、実践空手なら指導するくらい問題ないはずだ」
言うとまだその言葉が信用ならないのか、二人はジトリとした目で見てくる。おかしい。正直者で有名なこの俺がここまで信用されていないとは。二人の人間不信もここまでいくと病的である。……いやごめん。冗談です。病気なのは俺でした。永遠の中学二年生、それがこの俺、九十九万才だ。
二人からの不信の視線から逃れるように先輩に目をやると、なぜかこちらはこちらで妙に期待に満ちた瞳をしていた。
「? 俺が相手でかまいませんか?」
「う、うんっ! お願いします!」
きらきらした目で詰め寄られ、俺は若干後ずさる。
「う、……うっす」
それからしばらくは一ノ瀬に代わって俺が先輩の相手をした。
「たあっ!」
「はっ」
「えいやっ!」
こうして聞くといろいろなバリエーションがあるものだ。先輩の攻撃をいなしながらふとそんなしょうもない思考がよぎった。
先輩はやはり明らかに先ほどまでとは動きが違う。相手が女子だと緊張するもんな。
しかしそれでもその動きにはムラがあり、必死に繰り出される拳には悪いが、このまま続けてもその拳が俺に届くことはないだろうと思えた。……今はまだの話だが。
「今日はありがと。ごめんね、せっかく練習付き合ってくれたのに全然強くなれなくて」
昼休みのチャイムが鳴り、今日の鍛錬はここまでとなった。
一ノ瀬の合図に構えを解いた俺たちは更衣室で着替えを済ませ、体育館前に集まる。
「これくらいで強くなれたら苦労はしません」
申し訳なさそうに目を伏せる先輩に、一ノ瀬はバカバカしいわと言うように息を吐く。
ああ……これは……
うっと強張った先輩の表情を見て、これはまたやらかしちゃったなと察した。
「お前、励ますのヘッタクソだな。すみません先輩。こいつちょっと対人関係あれなんで。言葉通りに受け取らないでやってください」
「今の言葉を訳すとですね、『こんなちょっと練習したくらいじゃ誰でもそう簡単に強くなれないのが普通ですから、あまり気にしないでくださいね』です! 一ノ瀬さんの言葉は言葉通りの半分の半分くらいの柔らかさだと思った方がいいです!」
すかさず翻訳してくれる。ふふんっと胸を張るその姿は妙に得意げで微笑ましい。
流石だな皇。一ノ瀬検定二級はもらえるぞ。ただもう少しオリジナルに近づけるなら、
『あなたたちのような凡人がこれっぽちの努力で強くなれるなんて慢心もいいところだわ。そんな暇があるのなら反省点と今後の課題を考えなさい!』
とかだろう。
「……べつに、そんなことないわ」
フイッとそっぽを向いてぽしょりと言う一ノ瀬。……え? 何その反応? 俺の訳より皇の方が正解に近かったというのか?
「と、とにかくっ、今日のたったこれだけの練習で強くなれるなんて傲慢です。謝るくらいなら反省点と改善点を考えてください」
あってんじゃん!
そういえばこの人、皇さんにだけは砂糖菓子より甘々だったな。その分それ以外の人間(注 一番の被害者は間違いなく俺だ!)には火を吐く激辛スパイスだが。
皇の場合で半分の半分なら、俺達の場合は半分と半分の半分くらいだと考えればいいだろう。めんどくさすぎるな、一ノ瀬検定。




