エピローグ
「――……うん、それじゃ」
その声を聞きながら、ゆっくりと閉じていく玄関のドアを眺めていた。
「? どうかしたのお母さん?」
リビングから出て来たまみちゃんが首を傾げている。右手にはお気に入りの猫のキャラクターの描かれたマグカップが握られていた。たしかそれは以前、まみちゃんの誕生日にあの子が麗華ちゃんと二人でプレゼントしたものだ。
「……ふふ、な~んでもないよ。お勉強の続き? 頑張ってて偉いわね~。でも、あんまり無理しすぎちゃだめよ?」
ゆっくりとドアから視線を切って、にっこりと微笑みながら言うと、まみちゃんは少し困ったような顔をして、
「あはは……。私も無理なんてしたくないけど、お姉ちゃんがなかなか無理だって認めてくれないからねー」
冗談交じりに言いながら、
「でも、もう少し頑張れそうだから頑張ってみる」
マグカップの握られている右手とは反対の手で、ブイッとピースして見せた後、「がんばるぞ~」と自分で自分を鼓舞しながら部屋へと向かった。
本当に、可愛いくてしかたない。
私の子供たちはみんないい子。あの子たちの為なら、私はなんだってできる。
いくらでも甘やかしてあげたい。なんでも買ってあげたい。なんでもさせてあげたい。
笑っていても怒っていても、どんなときだって私の気持ちは変わらない。
大好きな子供たちに甘えたい。甘えてもらいたい。かまってあげたい。かまってほしい。
ずっと愛していたい。そして、愛されていたい。多分それが、『家族』ってことだから。
――うん、それじゃ。
「っ……」
玄関に背を向けて廊下を歩きながら、ふいに脳裏によぎった数秒前のあの子の言葉。
そっと逸らされた目を思い出して、無意識にその場に立ち尽くしてしまう。
……ああ、本当に。悲しいほどにそっくりだ。
あの子の顔を見ていると、この抑えようのない愛情につい溺れてしまいそうになる。
感情に身を任せて、心のままに愛し合いたい。そう、思ってしまう。
不器用なところとか、優しいところとか。何もかもが重なって見える。
あの子にその面影を見る度、ついつい甘やかしてあげたくなって、甘えたくなって。気づけば自分でもびっくりするようなことを口走っていたり、やりすぎちゃったり。
でもだからこそ、あの目を見る度、私はその感情の醜さに恐怖して、自分の過ちに気づく。
あの子の真っ赤な目だけは。あの目だけは―――重ならない。
初めてあの子の真っすぐな目を見て、私は――……
すべてを見透かすあの子の目が、昔から怖くてしかたなかった。
そしてそれから逃れるように目を逸らし続けて、気付けば私たち家族は取り返しのつかない関係になっていた。
二年前。あの子が変わってくれなければ、きっと私たちがこうして普通に話せる日常を手にすることはなかった。
でもこの日常は、あの子を犠牲にして成り立っている。
それを分かっていて、それでも私はこんな毎日が幸せだと笑う。
あの子が欲しかった答えを誤魔化し続けて、いつしかそれを諦めることを祈り続けた。
そしてついに諦めて、諦めた末に得た偽物の幸せ。それに縋って、愛していると肯定する。
あの子はすべて分かっている。分かっていて、それでも黙っていてくれる。黙って、耐え続けてくれる。自分の何を犠牲にしても、私たち家族の幸せを願ってくれる。
痛々しいほどに優しいあの子は、それでも優しく笑ってくれる。
悪いのはすべて私なのに。
あの子の赤い瞳に映されることを恐れ、心の奥底に抱く醜い思いを知られたくなくて、あの子ときちんと向き合おうとしなかった私がすべて悪い。
母親としての役割を何一つ果たさず、その資格すら持ち合わせていない私が、なんであの子の母親を名乗れるのだろう?
いってらっしゃいなどと、笑って言えるのだろう?
「……なんて言ってもらえると思っていたのよ」
気づくと、一人そう呟いていた。
あの子が私と目を合わせないのも、期待していた答えとは違ったのも、すべて分かっていたことだ。
――母さん?
そう言って笑うあの子の顔を思い出しながら、
「ごめんね、さいちゃん」
頬を伝う生温かな感触が、妙に優しく感じた。




